「イニシエーション」を読み終わって、そうなんだけどさ、それにしても堕ちるきっかけが「恋」であるとは、なあ、と思った。

「イニシエーション」読み終わって、そうなんだけどさ、と思った。
 途中から何だか映画的というか、なんだろうな、
 編集のせいかもしれないが、そればかりではない、たとえば、
「わたしたちは必ずまた出会う…必ずまた出会う…必ずまた出会う…」
 という繰り返しの「せりふ」とか。
 必ずまた出会う、というフレーズ自体が、日本語だけど翻訳されたものだから日本情緒的じゃないのかなあ、と首をひねったりした。
 それで、ざっくりいうと、これは、
 このあえていうなら「物語」は、
 要するに男に堕ちて自責の念に封じ込められてしまった女が、いかにそこから飛翔したか、というお話ですよ。
 それだけじゃないが主軸はそうだ。
 とにかく面白いし、先が気になってしまって、
 という展開も実に映画的。


 それに、そんなことが!という、
 初心で経験にとぼしく、恋も知らない未通(おぼこ)の箱入り娘が、
 異国の男と、自分が恋をしているという自覚もなしに逢瀬を重ね、
 逢瀬といってもただ自分の知識を「教えて欲しいと乞われたから」教授してあげるという名目で、最後の夜までは手も握らないのだが、
 このあたりも、経験にとぼしくない(と思っている)四十の女からすると、ちょっと目をむくというか。
 教えて欲しいと乞われたから、じゃあネェェエ…(天を仰ぐ)。
 いやおじょうさんお待ちなさい、ってなる。
 伯父であり神官の長であるプタハホテプの目が警戒を促すようにひらめくまでもなく、
 ああ、ああ、もー、
 と見ていられない気持ちになる。
 男は皆オオカミなんだぜ、と言いたいわけじゃない。
 そうではなく、この、恋をしているという自覚のなさ、その危うさ迂闊さぼんくらさ、おのれを知らぬということは、かくも無残におのれ自身を裏切らせるものか、という焦燥にも似た思いが、
 なんだか身につまされるのです。
 闇へと堕ちるきっかけがたまたま「恋」だったのか、それとも「恋」とはそうまでおのれを見失わせるものなのか。
 
 経験がとぼしいのだから今世は人間として生きたほうがいいのではないか、という助言を何度もしりぞけ、イニシエーションを授かったその代償として、
 若い頃には誰にでもあるちょっとした「無自覚な過信による心の躓き」でも、三千年の闇へとおとされる経験とは、なんとも恐ろしい。
 ちなみにこのイニシエーションとは、実地の体験によらずいわば、その様々なシュミレートをダウンロードというか、ありありと仮想体験し心がぐらつかずにいられたのをもって、試験を通過したと認められることで、
 ちょっとチートっぽいというか、
 飛び級制度みたいなもんというか。

 しかし、そのかつてダウンロードされた記憶をありありと生きる、そのデジャヴのような感覚とか、金のサンダルを履いていたはずなのにという現代へのつなげ方の描写とかは本当に面白い。ひきこまれる。
 今度はわたしが記憶をダウンロードされているかのようである。
 わたしも子供の頃に、スープに浮かぶ無数の油と油を一つになるまでくっつけていたし。
 と思っていたら、訳者あとがきでも、同じことをしていた、とあって、
 これはわりと同じ経験をされている方は多いのではないかという気がする。
 あとわたしが夢中になっていたのは、風呂場でのシャボン玉作り。
 両の親指と人差し指の間にお湯と石鹸をこすり合わせ、膜が破れないようにそっと開き、呼吸を慎重に吹きかけて、出来るだけ大きな玉を作り、細心の注意をはらって壊さずままに手から完全に宙へ放つ。
 これがどうしてなかなか上手く離れてくれない。
 身体も冷えるし、親には風呂からずいぶん出てこないと思われているだろうし、やめなきゃ、と思うのにいつまでもやめられない。
 あるときにふと思ったのは、このシャボン玉は宇宙の一つの有り様だという感覚。
 わたしの吹き上げたこのシャボン玉が宇宙の一つであるように、わたしが生きるこの世界もシャボン玉の一つなのかもしれない。
 そんなわけはない、という打ち消す思いと、打ち消してしまえぬ思い、その中間に潜む神妙さにしばしば呆とたたずむのは、決して悪い気分じゃなかった。

 戻るとこの、イニシエーションを授かるための仮想現実システムっていうのは、
 なんだろう、著者も、ではこれは果たして現実かそれとも、と言っていたが、
 なんだかその感覚は、わかりますね。
 えっわかりますね。
 
 つまり現実か夢か、
 夢もまた現実なのだが、わたしたちは起きたときにあれは夢だったと思うのだ。
 
「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」
 という江戸川乱歩のことばを思い出す。
 
 わたしは地に足がついていない。
 と、ときどき言われる。
 いや、二三度あるいは四度五度言われたくらいだが、自分では折につけ思う。
 それにしても、夢見る夢子ちゃんなどととある人に言われたのはびっくりした。
 わたしは実際のところそのひとよりもよっぽど現実を見ている、と思ったからだ。
 自分ではそう思ってもいいけど、ひとに言われたら、何を言っていやがると思うようだ。
 
 今日はまだ眠くないが取り急ぎ総括すると、
 (これがいけないんだがな)
 おのれを知らない。
 ということは、事実、穴だらけの道を目を瞑って大胆不敵に歩き回るような行いだ。
 そして何かひとつ、おごり、過信するたびに、無自覚かつ確実に穴をまたひとつ増やす。
 目をあければいい。
 目をあけてじっと見つめれば穴は一つ一つ消失する。

 虚栄心、という彼女の言葉が何度も出てきた。
 女っていうのは、わたしも女だから、わかるが、見られることに敏感だ。
 でも、彼女も冒頭、自分の現代の幼児時代をふりかえって言っていたが、わたしたちは生まれてしばらくは、まったく無自覚に「見る側」なのであって、  
 なぜ彼にはわたしが見えるんだろう?という戸惑いや突如ガツンとやられ慌てるような不思議さ、カルチャーショックというのは、
 おそらく本当は誰しもが人生のはじめに持つ違和感や発見だと思うんだ。
 
 わたしはずっと「観察する者」であったし、ひるがえって自分が観察される状況であることを察知すると、羞恥心がまったく半端なかった。
 その取り乱すような羞恥心をなんとか克服し、自分の人生に乗り出していったとき、見られ、賞賛されることで満たされる「虚栄心」という新たな魅力と同時に、おごり/卑屈という問題も間髪おかず立ち上がった。
 わたしたちは、とあえて言うが、
「見る側」から「見られる側」へというシフトを否応なしに勘づかずにおれない。
 そしてこれは確かに恩寵だ。
 穴だらけの道を目を瞑って歩き回る行為とは、矛盾するようだが、おのれが「見る側」であることにまったく無自覚・無頓着である状態にほかならない。
 わたしたちが、無自覚な「見る側」から自覚的な「見られる側」へとシフトするとき、
 そこに「気づき」がある。
 見られる側であることに気づくのは、見る側であることを忘れ去ってしまう行いではないからだ。
 
 でもそれには、見る側であったことを自覚し、同時に見られる側であること、を自覚しなければ、要するに「自覚」しなければ、
 なんていうか、なんでもないんだよな。

 

 あっ(ゾッ)というほどの身も世もない羞恥心に捉われた者でなければわからないことがある。

 それははじめて現実としての「おのれ」に気づくきっかけでもあるのだ。

 

 つまり、観察されることに気づいてはじめて、自分が観察していたってことに気づくの。

 自己を他者として捉えなおすことによってはじめて、自己を意識するの。

 

     *

 

 この世は神の遊技場という言葉は、実に身に差し迫る思いがする。
 わたしは、遊びに来た。

 わたしは、遊びに来たの。
 
 おごりっていうのはまったくもって厄介極まりない。
 彼女の愚かしさは、筆舌につくしがたいと感ずると同時に、なんでもないような哀れさ、未熟さであると思える。
 そんなこともあれば、こんなこともあるさ、
 二番じゃいけないんですか、といういきり立つようなレンホウさんの思いに通ずるものでもある。(ちょいと古いか)
 レンホウさん、いいじゃん、鋭いね。
 ともかく美人なんだから、少なくともそこのところは、わたしは好きだ。
 
 原因と結果の法則。
 これは厳然たる事実なんだが、
 原因も結果も各自勝手に解釈されるものでしかないんだよな。
 というのが実になんていうか、
 なんともいえず、もどかしい。
 
 わたしだっておごっているし、虚栄心にとらわれているのさ。
 彼がわたしを見た。
 彼がわたしを見ていながらわたしに賞賛の念を抱かなかった。
 それが賞賛であることを認めようとしなかった。
 という状況に、
 悔しさを感ずる気持ちは、どうしてだろうか、痛いほどにわかる。
 
 いったい恋がそうさせたのだろうか、とわたしは言ったがそれは、
 どこかで「それは恋ではない」と感じたからではないだろうか。
 
 それは恋ではない、ただの虚栄心によるものだったのだと。

2019/01/02追記

「身も世もない」ってのを「実も世もない」と書いていたのを訂正したついでに、

 わたしはこの筆者の父が、後ろの方の世界大戦だったと思うのだが、敵国の徹底攻撃に遭って誰も彼もがぼろぼろな姿でなんとか生き延びたときに、

 彼だけはまったく服を汚さず、財布も、ポケットに入れた万年筆一本さえも奪われることなく、味方の家に帰り着くことができたのだ、という話がすごく好きですね。

 まったく、こうありたいものだと思う。

 

 まあ、それもこれも諸刃の剣なのだがね。

 ともかく優雅ではないか。

 わたしは賞賛する。

 

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