わたしは「自分のしたいこと」しかする気はない。
小学生のころに友達だった子から、高校生のとき大学受験など進路について話していたら、一方的な怒りを買ったことがある。
彼女が真剣にまじめに努力して将来を考えているのに比べて、わたしがいかにもノウテンキでふまじめで、ふざけているように見えたのだろう、とわたしは彼女の怒りの原因をそう見ている。
今日その子ではない友達にそうした昔話をしていると、彼女にもそういう経験はあって、彼女と一緒に怒られた友人は、怒ってきた人が「僻んでいるのだろう」と言っていた、という話をしてくれた。
まあ、
僻みでもいいですが、それはちょっと禍根を残すというか、
ちょっと攻撃的であるというか、
そうだよねー(笑)、という話ではない、という気がする。
進路についてではないが、その後、今でも近しく付き合っている友人とまだ若い頃に、何の話の流れかは忘れたが、
わたしは、「自分のしたいことしかする気はない」と言うと、
「そんなことでやっていけるはずがない」と怒られた。
やりたくないことでもやらなければならないことがある。
皆が自分のやりたいことだけをやっていたら世の中はめちゃくちゃになるではないか。
これ、困る。
皆が自分のやりたいことだけをやっていたら、世の中はめちゃくちゃになる、
のだろうか。
端的に言えば、そうは思わないけどなあ。
これについては、以前どうしたわけかわたしの家に居候していた男の人、ともそんな話になって、
じゃあ、誰が道路標識や信号を作るんや、信号作りたいやつなんておるか、
と言われて、ゆきがかり上、おるよ、と返したが、なんだか笑ってしまった。
皆が自分のしたいことをし、それが相互協力的な、相互扶助的な社会、世界において、はたして「信号機」があるかないかはわからないが、
もしそれが必要ならば、それを建設したい人がちゃんといて、それをしているよ。
「信号作りたいやつなんているものか」
これは多分に思いこみに満ちている。
あなたはそうじゃない。
だからあなたは信号を作らないだろう。
でもあなたがしたくないこと、が誰にとってもしたくないこと、であるかどうかなど、どうして決定事項と言えるだろうか。
ひとは自分に似た人を好む。
自分とは異質なものを拒む。
いやいや、そんなことないよ、というひとだって、じゃあ、顔が二つあるとか、第三の手が背中からも生えているという人、あるいはまたまったく意思の疎通が叶わないような精神状態が異質な者を、自分の伴侶や、生まれてきた子供として、抵抗を感じずに受け容れられるだろうか。
ひとには許容範囲というものがある。
その許容範囲とはもちろん人によって違うのだが、これは、
わたしの意見だが、許容範囲が広いことによって自分が困るということはない、と思います。
もちろん無理なものは無理、というのが「悪い」なんて思いません。
無理なものは無理だ。
ただそれで不自由を蒙るのは実際のところ、相手や他の誰か、ではなく自分自身であると思っている。
それを不自由だなんて思わない人もいるかもしれないが。
わたしが友人に言いたかったのは、
わたしにも気の進まないことや、したくないこと、がないわけじゃないが、
それでもどうしてもそれをしないわけにはいかない、と自分が思うのならば、それには必ず理由があり、自らの必要性にかられた要請があり、だとすれば、もうそれは自分がすると決めて選んだことなのだという気持ちで、それをしたい、
したくないけど仕方なくするんだ、嫌々するんだ、というのは潔くない、
もう自分がそれをしたいからするんだ、でいいじゃないか、ということだった。
あとあと、そんなことを補足したら、言葉が足りない、と言われた。
言葉が足りないですかね。
「言葉が足りない」問題は実にわたしにとって深刻である。
しかし前言を撤回するようだが、「許容範囲が広くて困る」ことは実はあった、
それはその「広さ」を非難されることがある、という事態によってだ。
というのはつまり、冒頭へ戻るのだが、
茫洋として広くゆったりと構えていると、
「あなたって人はなんでそうなの!」と怒られることがあるのだった。
これを怒る側の僻みと言っていいのか、
僻みと言ってしまえばそこの溝は永遠に埋まらないのではないか。
たとえばわたしは家に戸締りをしないのだが、それを怒られるとまで言わないが、つくづく心配される、ということがあったりね。
ああ、心配かけちゃ申し訳ないのかなあ、という気はちょっと、してくる。
でも結論から言えばわたしは戸締りなんて「したい」と思えない。
まったく話は変わるようだが、
職場の人と何気なく話をしていたら、その人は結婚しているのだが、
なんでもかんでも正直に言うやつって何なの、ということになった。
それは、ちょっとした浮気心とか、実際の行為に及ぶような所謂不貞行為というか、
そうした、言わなくてもいいことを一々隠さずにすべて言うやつって、どういう了見なの、という。
この、「言わなくてもいいことを言う」という感覚って、おもしろいよな。
いったい何が、「言わなくてもいいこと」なのか、「言ってもいいこと」なのか。
これは、
まあ、ひといきに結論するならば、「(それ・は)言わなくていいのに」と思う側が、相手方に対して甘えているんではないか、と思うけどな。
あるいは、自分だって言いたいことを呑み込んでいるんだから、おまえも呑み込めよ、という、
平等で対称的な構図を期待しているというか。
どこか無自覚に自分本位であるというか。
なんであれ思うことがあるのなら、全て逐一もらさず腹に溜め込んだりせず、「相手」に吐き出すのがよい、という話じゃない。
そうじゃない。
ただ、もし敢えて出さないのなら、出さないのはおそらく突き詰めれば、「自分が」外には出したくない思いや腹があるのであって、
あるいは、出すべきではないというルールだかマナーが自分にはあるのであって、
何も「相手」に必ずしも知ってもらわなければならない、ことはもちろんないが、
じゃあ自分一人の心境としてならば認められる思いがあるのかといえば、そうではなかったりする。
そうではない、自認も未だ儘ならない、というときに事態は他人をまで巻き込んでややこしくなるのであって。
自分一人でなら本当はこう感じている、という内容も実は明確ではない、明確にはできない、という事態を、
他人がおのずと・勝手に・都合よく「察して」くれたなら(むしろ察してくれて当たり前なら)、自分が明確にはしたくない思いを、曖昧にしたままやり過ごせるのに、というのでは、
困るというか、混乱のネタ、種を蒔いて回るようなものだという気がするね。
わたしは、自分こそがスタンダードであると無自覚に思っていた。
とはいえ、自分以外の人間は「不必要」なまでに他人の目を気にしすぎる、と思うほどには、自分と他者との差異・違いを、塵が積もるように、感じ続けてはいた。
それでも、他人の目を気にしない(ように実は努めている)自分というものが、自分にとってはスタンダードであり続けた。
他人の目を気にしすぎる「彼ら」は、自分にとってスタンダードではない、のだった。
ちょっとおかしな、不便そうな人たち、なのだった。
ところが、長ずるにつれ、他人の目を気にする人たち、というのも彼らなりのスタンダードを生きているのだということが、わかってきた。
ところで、わたしは、個人的な事情にしかよらないが、矛盾するようでもあるが、実際のところ自分は、「自意識過剰」な人間であるとも思っていた。
自意識過剰な自分からすれば、他人らのそれこそ放埓な、過剰とまではいえない、素朴な自意識、とじわじわ接するにつれ、
それと他意なく他愛なく触れ合う喜び、その交歓を重ねるにつれ、
なんだろうな、和合の道というか。
境界線の「線」とは実は、線というよりも幅広い面積であるというか、
白黒ではなくグレイゾーンがあるというか。
荒野もおしなべては平たいというか。
そういう心境を獲得していったのだった。
あっ夢の話を突き詰めたかったんだった、忘れていた。
夢でキイワードがあったのに、なんだっただろう、なんだっただろう。