女が自らの客体性を、違和感を持って受け止めるとき。
「とりかえばや・男と女」(河合隼雄・著)を読んでいる。
面白い。
著者は男であるにもかかわらず、実に「他者性」を身につけている、と思われるので、わたしは男が語るところの「男と女」の話を気安く読むことが出来ている。
「とりかえばや」は男性によって書かれたのか、女性によってなのか、ということもその成立年も不詳であるが、
河合隼雄はこれは女性によるものではないか、そして、ここにでてくる「きょうだい」は兄と妹、ではなく姉と弟ではないか、とみている。
男であるにもかかわらず他者性を、というのは、
これはわたし個人の話になるが、
わたしが自分の中に「他者性」を見出したのは実に「自分が女である」ということによってだったからだ。
たとえば「ポルノ」を女も観る、という話題から、とある男の人に、
「女の人も男の人の裸を見て興奮するの?」と興味津々で聞かれたときに、
あっ全然わかっちゃいないなあ!と仰天したことがある。
男の裸のどこに「人間(=man)」を興奮させるような客体性・秘匿性があろうか。
おまえは男か、と思った。
いや彼は男なのだった。
彼は自分が「男」で「女」の裸に興奮するものだから、「女」もまた「男」の裸を見て興奮するということがあるんだ、と解釈したわけだが、
ことはそう単純に反転するものではない。
女もまた「女」を見て興奮するのである。
わたしは本当に「男の論理」を身につけているように思う。
それだからこそ、「自分が女」であるというときに、
この世界において自分の中に「他者性」を見出すことができる。
女を被写体として見る自分はしかし「女」であるという入れ子のような構造を、違和感として持つことができる。
女は「男」の目を通して世界を見ることが容易いが、男が「女」の目を通して世界を見ることはそう容易ではない。
右利きの人は、左利きの人がかこつ不便さをなかなか実感することは出来ない、というのに似ている。
似てはいるが、違うのは、男と女とは、単純に数による対立をしているわけではないというところだ。
圧倒的に男が多いから女はマイノリティ(客体)になっているわけではない。
しかしこの「マイノリティ(客体)」的立場に身を置く経験というのは、
実際のところわたしは恵まれた分(ぶ)である、と思う。
誰にとっても本来、自分とは「自分」であるほかはなく、「他者」などというワケのわからないものではない。
そしてそのまま、自分の中に「他者」を住まわせることなく自分を継続していくのであれば、この世界には発見も驚きもない。
右利きのひとは左利きのひともいるということを知るに至ってはじめて、自分は「右利き」であると知ることが出来る。
世の中に「利き腕」というものがあることを知ることが出来る。
また「ハサミの例」でなんだか平べったくて申し訳ないが、そもそも右利きの人が切りやすいハサミを使うことによって、右利きの人が蒙る不便はない。
ハサミによって自分は右利きであると認識することはだから、右利きの人には困難であるのに比して、左利きの人はそうじゃない。
当たり前のようにそこらにあるハサミを通じてさえ、左利きの人は不便を蒙ることができる。
右利きか、左利きか、というのは先天的なものであるそうだが、
男か女かということも、まあどっちかっていうとわりと鮮明に先天的な事柄である。
親か、子か、というのも、あるいはそれ以上に先天的な事柄である。
親から子は産まれても、子から親は産まれない、という一方向へのベクトルは抜きがたくある。
それはたとえば、
子は親を選ぶことはできない、といった表現に集約されるものである。
話が逸れるようだが、わたしはこれについては「どことなく反対」である 。
ゆるやかに反論するならば、もし子が親を選ぶことができないのだとすれば、親だって子を選ぶことはできないのである。
親とはそれほどまでに圧倒的な全権を任された存在ではない。
また、じゃあ仮に全権を任された存在である、としようじゃないか、という流れにも、わたしは身を任せたくはないなあと感じる。
親は生まれてくる子の性別を決めることさえできない。
それは、堕胎すれば可能ですが、つまり、性別が判明「してから」、それを拒むということは可能かもしれないが、
あらかじめ。
どうだろう?いまはできるのかな?
まあ出来たなら出来たでいいのです。
つまり親がある程度の采配をふるえる状況が、「ある」ことは間違いはない、かといって、
男か、女かを選べる状況になりました、としてさえ、
産まれてきた子の人生にまで采配をふるえるかといえば、
そうではない。
もう、ここは、そうではない。
よしじゃあ男だったらGOといって産んだその子が、自分は間違って男として生まれてきたが本当は女だから女になると言い出すかもわからない。逆もしかり。
それを阻止する手立ては豊富にあると思えるかもしれないが、早い話が皆無に等しい。
他人が他人に対してふるまえることなど、たかが知れている。
わたしが言いたいのは、たかが知れてなどいない、という運命を甘受することによる「恨み」を遺してはならない、ということです。
平たくいえば、自分の人生を他人任せにしてはならないしそもそも出来るものでもないが、仮に他人任せにするなどということができると信じるならば、
せめて恨みを遺すような思いを自分に許すのは、もう複雑すぎてお手上げだから、やめようぜってことだ。
でもこれは、やめられないんだなあ。
というのが実に正直というか、「根」の立ち上がりの力強さを感じるところだな。
あまり論理で生きるものじゃない。
「宿命論」について、思うところはあるが、
つまり「自由意志」はあるか否か。
これは、これまで触れてこなかったが、「アガスティアの葉」のような、
あるいは「アカシックレコード」のような、
「運命はあらかじめ決まっているのか否か」という問題は、要するに、
「時間が流れる矢の向き」は「一方向でしかありえない」とするわれわれの根深き習性が、
これに抵抗し、これへの理解を阻む、ということがあるのではないか。
つまり「逆向き因果」を考えることによって、
因果を絶対なものとはしない「第三」の提案を見出すことができるのではないか。
戻ると、産まれてくる子が「男」か「女」かなどということはさほど重大事ではない、とする立場、見解、理解、受容が、
皆自分自身の実感としてあるならば、
つまり男だから何だ、女だから何だ、
すべては「それがどうした」「だから何だ」という、
もはや「なんでもないもの」として、まとまりねえなあ、
つまり男であれ女であれ、親であれ子であれ、それらは記号(配役)にすぎないのだと言ってみる。
それは「たましい」ではない、と言ってみる。
われわれは「たましい」であって「記号」ではない。
そして、「記号」とは楽しむものであって苦しむものではない。
いや、これは余計なお世話だな、
「記号」とは単に「記号」にすぎないとまでしか、本当は言えない。
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