わたしは、わたし自身のもの、「自我」
「ゲーデル・エッシャー・バッハ」
図書館で予約してあまりの分厚さに、ちょっと眺めている。
二冊分、それだけといえばそれだけ、だが。
で、
「平気で、うそをつくひとたち」
こっちを読み始めると面白い、何。
「I」という本が取り上げていたので借りた、
なんとかいう「自閉症」的な少女の話が、友人を彷彿とさせてやまない、
こうまでではないが、どこかそのまんまでもある、
これを彼女に読んでもらったら、と思い、
いや、邪悪と著者が称しているそれを読め、ということは躊躇う、
邪悪、というか。
あれだろ、「自我」についてだろ。
これはまったく「自我」についての言及だ。
精神科医のそのひとがその少女について、邪悪と指摘するのはまったくこちらが邪悪なのではないかと懸念する気持ちはわかる。
恐れを抱く気持ちもわかる。
わたしは、友人を怖い、と思った、
どうやったらそうも、そうまで、自分の都合だけで相手にかくあれと望めるのか、期待を抱けるのか、
いわばどこか、相手を操作したい気持ちを臆面もなく表現できるのか、
わたしはあなたには何も言わないし、何も明け渡さない、と撥ねつけたいような気持ちを味わった。
それ以上近づいたらわたしはあなたを攻撃する、
攻撃する、そんな自分を自分が窘めて、相手が怖い、と言いのけた。
少女が見た、夢の話もきわめて興味深い。
どこかの異星で、自分は科学者で、自国とずっと戦争をしている、敵国を完全に敗北させ得る兵器を作っている、
もう少しで完成するというときに、敵国の男がやってきて、この兵器を破壊しようとする、
相手がその目的を持っていることを自分は知っている、
それで自分は相手とセックスをすることでこちらへ取り込もうとしたら、
ベッドまで行ったくせに相手は立ち上がって兵器を破壊しにいく、
そこで恐怖の叫びをあげて、目が覚める。
その敵国の男とは、ぼくのことだね、と精神科医。
あなたのことだと思うわ、と彼女は同意する。
その兵器とはあなたにとって何を意味していたんだろう、と精神科医。
知性だと思う、と彼女。
実際、彼女には知性がある。
ああまで何か何も成立させえない支離滅裂なようでいて、他人の意向を無視するようでいて、まったく正気でしかない冷静さがあり、
そこが怖いんだよな。
相手の意向を無視するようでいて、相手を眼中にちゃんと入れているような、何か、冷静な判断がある。
「春にして君を離れ」を友人に勧めたら、
ジェーンはわたしだ、とすぐに言うようなあの、何とも言えない、
どこか厚かましさ、どこかふてぶてしさ、肚の座ったような何か。
自閉症的とは思わない。
自閉症的、という言葉はまったく便利なようだが、
わたしは自閉症のひとが書いた本を読んで、どこかしら共感するものを覚えるし、
かれらは純粋な何かだ、ということを感じるから、
自閉症的、という言葉には抵抗がある。
自閉症であることは、邪悪さとはものすごく縁遠い何かだと思う。
かれらは何も操作しようとはしていない。
要するに自我だと思う。
これは自我についての言及そのものだ。
キリスト教会の示す教義を、実に棒読みのように読み上げる、神に仕える、
いいえ、わたしはわたし自身のもの、と叫ぶ少女、
わたしがわたしを明け渡したらわたしが死ぬ、と叫ぶ者、
それは、自我だ。
まったく自我にぴったり密着し、、
他の誰もがそうはあれないほどそれに感情移入し、それを引き受け、それそのものとして生きている、
そしてほとんど誰もが手放しきれずにどこか無意識なまま残している自我を、手づかみに触る。
あなたはまったく自我について正直じゃないわ、
わたしの方が正直だわ、
と迫ってくるような、それ。
いや、怖いだろ。
いや、面白かった。あの本は、おもしろい。
「I」よりわかりやすいというか、身近というか、小説的というか。
今朝ふと、夢で、未来のような感じのする夢を見たのを覚えていて、
未来の夢を見る、というのは不思議な感覚だと思い、
「火の鳥」の犬の面を被せられた男と、未来都市に生きる男が、お互いに夢でお互いの生を見るという話を思い出している。
ふとブッダが何度もひととして生きた、という話も思い出す。
ブッダは何度もひととして生きた、
キリストはそうじゃない、
何だろうそれ、と思っていたことを、
それで、ブッダは何度もひととして生きた、
それを聞いててっきりわたしは、過去で何度もひととして生きた「結果」、あの時代に覚醒したんだ、とそう受け取っていた。
以前に読んだ本で、ブッダは最近もひととして生まれてきたんだけど、大したことはできずに堕落して死んだ、みたいな話を、
なにそれ、一度自転車に乗れたひとはずっと乗れるはずだ、
あのとき覚醒して、今世では堕落する、
それではまったく意味がないじゃないかと懐疑的に斥けた気持ちを思い出し、
いや、ちがう、
過去も未来も同時的に起こるのなら、
あの二千年前か三千年前かもっと前だか忘れたけど、覚醒したというブッダが、
数多く生きた人生、
その一つが現代であったところで、
不思議はないんだ、と気づく。
過去から現在、現在から未来へという、この直線を一方向的に疑いなく受け容れているから、
受け容れがたいことが起きてくる、それだけだ。
過去も未来も同時的、
これをわたしはどこか、直感的に受け容れている。
いやむしろ、知覚的に、知識的にというべきかもしれない。
どこか、
目の覚める思いがする。
きっと無視しえぬ何かとして残る。
天動説から地動説へ、という話が忘れられない。
折につけ、聯想するんだ。
わたしはあの場へ居合わせたのではないか、と思うほどだ。
過去から未来へというこの一方向性を、
わたしは、わたしたちは「実感」として持ち得ている。
それはまるで、
地球の周りを太陽とか星とかが回っているんじゃなくて、実際には、
地球が太陽の周りを回っているんだよ、と聞いたところで、
太陽が動いているように見えるし、
地球がいま現に動いているのが、とくと感じられるのかといえば、
それを感じるには、地球に比して我々はあまりに小さい。
感じられるわけがない。
自我。
可愛いよな。わたしは、
可愛いと思う。
思っている。
どこかそれは嫋やかでさえある。
いまにも崩れ落ちそうで落ちない何か、
どこか魔のような、純なような。
うん。
可愛い、でも怖い。
見ているだけでいい、触れない、
わたしはまだこの身体に慣れていない。
わたしにも身体があり、あなたにも身体がある、
わたしはまだこの身体に慣れていない。
ふと、思うんだ、
何をどうすればわからないって、
何をどうすればこんな事態が動くのかわからない、
他人の言うことはまったく当てにはならない、
まるでいい加減で無責任だ、わたしは怒りさえ覚えるんだ、
そんな横着な手で、触らないでって。
何をどうすればわからない、
と焦燥、気後れ、喪失を感じる自分、
まるで、
わかっているのがあたりまえだと思い込んでいるような自分こそが、
思い上がっているような何かだと。
わかるわけないだろ、
そう思うとふと可笑しさのあまり、笑ってしまう。
あの本の著者があの少女のくだりの最後に結ぶ言葉、
彼女が無能なのではなく、自分が無能だ、
彼女が無能なのだとすれば、自分が無能なのだと。
こんな結びはまったく誠実でいて、隙が無い。
かれが、
実に敏感だって思う。
実に臆病な何か、実に、用心深く誠実な何かだと、思っている。
それはまったくわたしがそうであるように、そうなんだ。
自分と同等のものを引き寄せる。
という言葉がまるでおまじないのように、わたしを勇気づける。
それは、わたしを勇気づける。