不幸の連鎖を断ち切り、人並みの幸せを手に入れた私・を自称する…読みました。
友人に送ったスレッドについてわたしが思ったこと。
タイトルを「不幸の連鎖を断ち切り、人並みの幸せを手に入れた私・を自称する、絶賛わが子虐待中の親について」
しかしよう考えたなこのタイトル。
でもおそらく本人に悪意はない。
気になったところを抜粋してみる。
「親は自分語りよりも子供を優先しないといけない」
あれ、これに尽きたか。
いやもうこれに尽きるのかな。
親は自分より子供を優先しないといけない。
どこから出てきたこれ?
これは結局、
結局というか端的にいって嘘ですよ。
嘘というか書き込んだ人の思いこみの現われに過ぎない。
嘘っていうと語弊があるな。
きっと本気だから。
彼女が嘘を吐いているわけじゃないが、これをさも事実のように、現実のように、
つまり自分以外の他者(虐待を受けたという自覚のある親のもとにいる子供)に対しても、自らの思いこみ(事実認識)を当て嵌める言動に躊躇いがない、ということに、
わたしは違和感がある。
ほんとにコメにもあったけど、自分が対決すべきは親でしょってところ。
いやもっといえば親ですらなく自分自身でしょと思うけどまだ、
自分の親の方が。
いいんじゃないですか。
自分の親に言いたいことを、赤の他人である見も知らぬ交流もない、親をやっている人に言わなくてもいいでしょう。
自分と向き合わずに他者に委託したところで何も解消されないでしょう。
カルマは解消されない。
まあ、ごめん、カルマについては勉強中だった。つい出た。
わたしこそ道をそれるのはやめよう。
ところでこの書き込みをした人は自分が虐待された子供であるとすら言ってないんだよな。
みなおそらくそうだろうと仮定してモノを言ってるけど。
少なくともこのまとめ、においてこの人の発言はこのたった一つだ。
このまとめ自体も、ものすごく短い。
そしてコメはとても伸びる。
コメが伸びるまとめっていうのはだいたい良スレならぬ良まとめである、ということは言えるがこれも脱線。
良かはともかく、なんか琴線に触れるんだろうな。
扇情的なんだな。
わーっと皆がわたしも、わたしもと言いたくなるような。
心を動かされる。
戻ると、あなたが向きあうべきものは、あなたの怨念とかわだかまりとか悲しみとか、まとめるとあなたが受けた(こしらえた)傷跡、をまるっと託した他者ではなく、
あなた自身である。
あなたはあなた自身から逃げることによって傷跡をいつまでも癒せずに、苦しんで、苦しんだ挙句の解決策として、
なんと他者の非を正そうとする。
これはいけないよ。
自分自身の傷跡と向き合うことには勇気がいる。
でもそれ、肉体の傷と違って自然治癒しないからね。
いやごめん嘘。
肉体の傷っていうのはわりと皆忘れることが出来るんだな。
忘れることによって、意識しないことによって、
いわば、
傷の再生産をしないことによって、
わかりにくいですかね、
つまり傷について、一秒も疎かにせず常に意識し続けてはいない、という態度によって、
それは、気づけば治ってた、みたいなことになる。
宇多田ヒカルの「真夏の通り雨」、これをわたしはルワンダのジェノサイドを知った頃に聞いたのでまるで、それへの鎮魂歌のように思えて、
涙なしに聞けなかった、涙なしに歌えなかったときがあるが、
その歌詞に、
「忘れちゃったら、わたしじゃなくなる」
というフレーズがある。
すごい悲しくなっちゃう。
忘れちゃったら、わたしじゃなくなる。
まるで解けない呪いのようだ。
まるでそれはカルマを端的に言い表しているような、なんとも言えない、
なんだろう悲しい。
記憶は、あなたではない。
あなたの記憶は、あなたそのものではない。
よく記憶喪失になったっていう設定あるやん。
そんでもう生きている意味がわからないみたいな。
失ってはいけないものを失ったみたいな。
嘘やろこれは。
いやこれは、記憶を喪失した本人ではなく、記憶を喪失されてしまった親とか、配偶者とかが、
そう思う場面の方が多いように「記憶」する。
認知症とかもそうだ。
かつての親が子供である自分のこともわからなくなっている。
ここに喪失の悲しみがある。
でもこれは単にチャンスだと思うけどまあ今はやめとくとして、
戻ろう。
戻る前にふと連想したことだけ、
記憶に関しては、「五億年ボタン」とかを思い出す。
あの設定考えたひと、天才じゃないのと思う。
簡単に説明すると、ここに、ポンと押せば百万円が出てくるボタンがある。
リアルには一秒かそこら。
でも「本人意識」的には、一億年か五億年か忘れたけど、それくらいの時が流れる。
その間たった一人で宇宙空間に浮いているような永久にも近い時間を過ごさねばならない。
でも、それを過ごして、ボタンを押した一秒後に戻るときには、
その五億年を過ごした記憶は失われている。
つまり主観的にも客観的にも、それは外側から説明すれば、ポンと押せば百万円出てくるボタンがここにある。
ということに過ぎない。
さて、あなたはこのボタンを押しますか?
ってやつ。
わたしはそれを漫画で知ったが、この五億年を過ごす期間が実にリアルにというか、苦悩をもって描かれている。
そして、それを読者は知っている。
間接的に経験している。
で、押す?
という問題。
これはもう秀逸としか言いようがないな。
この五億年をただ、五億年と三つの漢字でだけ表すのと、何コマも費やして、その苦悩と孤独とを表すのとでは、
読み手の反応は変わってこざるを得ないと思える。
ちなみにわたしは押しますね。
いやもし目の前に現実としてあれば胡散臭いからたぶん押さない、押せないかもしれないけどね。
まあでもこれは押すか押さないかという結論が面白いんじゃなくて、
なぜ押すか、なぜ押さないか、という各人の理由を一々聞くのが面白いんだけどな。
これはいい問題だなあとめっちゃ感心した。
戻ろう。
つまりなぜ、他人に託すのかな、というのが、
わたしは引っかかる。
おそらくは託しているという認識もないのかもしれないが、
それは託しています。
でもこれは本当によくある、日常的な一コマだと思う。
転化するというか、転写するというか。
自分の味わった痛みがある。
この痛みをどうすれば解消できるのか、治癒できるのか、
それがわからない。
ひとつの方法として、忘れたフリっていうのがある。
実際に忘れていると自分では思っている。
でも実際には忘れていない。
忘れていないのだが、本人に自覚はない。
自覚はあくまでもないが、忘れていない証拠に、子供が出来て自由に言いたいことを言い、やりたいことをしている姿を見ると、思い出してしまう。 自分の過去の傷跡を。
だが思い出している(再生産している)という自覚もない。
こういうことが、この場合見も知らぬよその親、
それが虐待を受けたと自認している(=自分に類する・自分を容易に託すことが出来る相手である)他者に対しても発揮される。
自分に類する、属する他人を見て、
あなたは克服したと思ってるんでしょう、そうじゃないよ、と言いたくなる。(ほとんど意地悪なまでに)
真実は、
ソレを克服していないのは彼ではなくあなたなのである。
あ、この人は虐待されていたとは一言も言っていないのだった。
でもこういうことが、たとえわかりやすく、目立つように虐待されていなくても、ほとんどすべての人において起こりうる日常の一コマなのである、と思う。
つまり自分が解消すればいい問題を、棚上げにして、
他人の問題に関わろうとする姿勢。
なぜ他人の問題に関わりたいのだろうか。
かわいそうだから?
それはいけないよ。
ここは「かわいそうだから」に絞って言うけど、
相手自身がかわいそうだと思ってもらいたい、そうすれば救われるんだという状況がある、ということはある。
でもそうではなく、
相手はかわいそうだなんて認定されたいなんて願っていない、思ってもみない、
そういうときに、
「あなたは気づいてないかもしれないけど、かわいそうなんだよ」
「かわいそうに。辛かったろうね。もう大丈夫だよ。わたしはあなたの自覚すらしない痛みについてまでわかっているよ」
と、
いやだからそれはてめえがてめえに言ってやれって話なんだよ。
そうやってほとんど「いいこと」をしているかのように、巧みに自分からは目をそらす姿勢、やり方っていうのは、
わたしは上手いと思わない。