わたしは家の戸締りをしたくないのですが。

 痛み、とか記憶、とか、 

 なんだろうかカルマとでもいえばいいのだろうか。
 
 痛んではいけないという法はない。
 この際、法というのは実際の法というニュアンスではなく、わたし自身が感じる、そうであってはいけないという謂れは何もないというほどの実感だ。
 
 友人からスピリチュアルな江原さんの悩み相談室みたいなものを立て続けに送られてきたのを読んで、
 わたしはこういうものより林公一の方が好きだなというか、面白いなというか、
 そう思った以上、というわけでもないが、ふとサイト上のQ&Aを読み返すうちに「虚言癖・嘘つきは病気か」という電子図書を知って、
 これは図書館で貸し出されていないので(たぶん)、購入して読んだ。
   
 嘘っていうのは、
 なんていうか、
 本当に面白い。これは不遜な意味合いではなくて、興味が尽きない、ここになんというか大袈裟だと思われるかもしれないが、世界の、少なくとも人間の謎というか、
 人間とは何かという洞察が多分に含まれていることは、わたしとすれば肯定する他はないという心情だ。
 平たく言えば、嘘って何だろうか、何のためにあるのだろうか、という全般に関して興味津々だということだ。
 

 たとえばですね、
 ってのは嘘とはまったく関連がないが、ふと連想したのは、
 わたしは家(一人暮らしであり、マンションではなく一軒家)を、開け放っている。
 正面玄関も、裏口も、まったく文字通り開け放っている。
 とはいえ、
 自分の生活する姿が一部始終よそから見えるほどではなく、
 軽く言ってしまえば、戸締りはしていないし、多少スライド扉に隙間がある、開き戸に隙間があるという程度だ。
 で、これを他人から、というよりも親しい人から心配されることがある。
 戸締りはちゃんとしなくちゃという類のものだ。
 これは実に一般的だし、彼らが口を揃えてそんなふうにわたしを心配するということは、まったく普通の心情であると思う。
 何なら幽霊が見えるという、ある面一般的かどうかでいえばどうだろうかという人にも心配されたことがある。
 開いているドアは、入ってもいいという許可を与えているようなものだと。
 許可とか与えるとかそういう、多少複雑な認識を経ていなかったとしても、
 ともかく入りやすいことに間違いはないから閉めておいた方がいいというような助言だった。
 
 わたしはですね、別に入りたいのだったら入ればいいと思うのだ。
 一応法的にわたしはこの家を所有、じゃないが借りているので、わたしの私有する領分ということに、
 なっているが、
 なってはいるがわたし自身はそれについて懐疑的であるというか、こだわりはないというか、
 この空間というものを切り取って、わたしのものである、わたしのテリトリーである、というようなことに関して、
 自信が持てないというようなことではなくて、
 むしろ、
 そんなふうに思うことに何のメリットがあるのか、何の必要性があるのかと感じている。
 たしかにここに家はあり、家を借りているのはわたしであり、
 ここは公道ではなく私有地であり、
 だから他人がおいそれと侵入してよいわけではない、これに関しては保護法というか、なんかしらんけどある、
 というようなことの認識もある、
 でも端的にいうと、それがどうしたんだという思いもどこかである。
 他人様が、国様が、法律が、そんなふうに決めているらしい、
 だからなんだ、というのは、


 わたしは他人の私有地とされているものへ、そんなものは空想の産物であり妄想の一面であるのにすぎないのだから、個人のしたいことを実行するのを妨げるべきではない当然の権利であるのだから、堂々とナチュラルに侵入し、そこに罪の意識とか迷惑をかけたとか、そんなふうに思う必要はないと思うんだぜ、というようなことではなくて、
 むしろ、そんなことはしないのですが、
 そんなふうな反抗性、あるいはナチュラルな自己本位性はないが、


 これが自分のもの、に関すると、
 つまり、他人のもの、にはある程度の(おそらく常識内の)配慮は払えても、
 自分のもの(を守る・ガードする)ということに関しては、
 他人からすると極端か過剰にゆるいというように思われてしまい、
 心配されてしまう、助言されてしまう、改善すべきであると諌められてしまう、ということがあり、
 おおむねわたしは聞かない(受け容れも反論もおよそしない)んだけど、
 こういう他人の反応とはいったい何なんだろうなと不思議に思う、ということがある。


 これでさ、ここからは妄想というか仮定の想像にすぎないが、
 ドアを開けっ放しで外出する、ドアを開けっ放しで寝ている、
 こういう光景を見るだけで自分(わたしからすれば他人)としてはストレスが半端ない、
 としてまあ仮にわたしが他者から訴えられたとして(現実にはほぼありえないが)、
 わたしにどうしようがあるだろうか。
 というか、
 わたしのどこに落ち度があろうか。
 とふと妄想してみるのである。
 いや、落ち度はないだろ。
 
 というこういう(自分としては)不思議全般が、
 他者とは何ぞや、
 自己とは何ぞや、
 という尽きない興味に発展しているのだろうと思う。
 
 そしてふと、
 こういうのも発達障害って言えるんだろうかと想像してみるのだ。
 他者のあたりまえとも言える心配を、心配しすぎだと退けてしまえるわたしは、
 もしかすると、
 おかしいのかしら?と疑ってみないでもない。
 
 いやおかしくないと自分では思っているが、おかしいのかもしれない。
 と一応言いつつ、戻ると、
 あなた(わたし)が家を平気で施錠していないことを明らか(ドアが実際に開いている、中が多少見える)にしているのを見るとそれだけで不安でたまらなくなる、
 心配でたまらなくなる、
 この心配や不安を与えたのはあなた(わたし)である。
 よってあなた(わたし)に責任を取ってもらいたい、
 
 鍵は必ずかけて出かけてもらいたい、あるいは、
 まあ、これ(心的苦労に関する損害賠償的なことを思ったが、まあありえないしこの際わたしが言及したいことからは遠のくから)、はいいか、
 少なくとも鍵は必ずかけて出かけてもらいたい、という「仮にある要求」に対してわたしは、応える必要があるだろうか。
 ないよね。
 いやもう、ないよね。
 
 あるとすれば、わたしが、
 その人自身が蒙っていると主張する苦痛の内容に関して、自分が改善することによって苦痛を取り除くことが出来るならばそうしたい、という、わたしによる自主的な衝動なしには、
 それがないことには、
 まったく他人の訴える苦痛に関して、自分が一方的に言い分を呑んで答えるという構図にしか思えず、こうなれば今度はわたし自身が苦痛を抱えるという結果に、なってしまうではないか、というように感じられるのだ。
 
 ここで強調したいのは、
 わたしは他者の心配というものに関して、
 すべて応えるのは悪であるとか、害であるとか、そんな主張をしたいわけではない。
 普通の、人の心理として、
 心配をかけちゃ申し訳ないなというような、そういう心情はごくまっとうであり、もっともだと思っているのです。
 まぎれもなく、一般的であると思う。

 

 ここでふと方向を転換すると、
 そもそもなぜわたしが家に施錠しないか、ドアを半分開けておくかというと、
 それが世間一般では非常識であるということは十分認識している上で、
 もう、そうしたいからだという他はない。
 わたしはドアを開けておきたい。
 閉めることに恐怖まではないが、どっちかっていうと、開けておきたい。
 この性情、この希望、この、なんだろうな個人的な事情、個人的な欲求に関して、
 
 いったい誰に迷惑をかけているだろうかということが、
 本当に理解できないんだな。
 
 実際、
 実際には誰も迷惑を蒙っているなどと訴えてくることはないのだが、
 なんとはなし、わたしは気になってしまったりするんだよね。
 というのは、
 わたしの高齢の祖母が家の戸締りはちゃんとしているか、と確認してくることがある(彼女はわたしが常日頃から家に施錠していないらしいということを知っている)。
 わたしは、この祖母の不安を解消するためだけに、
 余計な心配はかけないほうがいいという判断のために、
 うん、ちゃんとしているよ、と答えるのが妥当というか波風が立たないというか、別にここで事実と異なることをわたしの口から保証したところで、
 なんの実害があるだろうかと思えば、
 事実と異なることを口にすることに本来躊躇いはない。
 
 でも、なんか、不思議というか、
 何なんだろうなという、
 個人的な不思議さを感じざるをえない。
 つまり、ちゃんと戸締りをしているか?に対して、うんしているよ、は明らかに嘘っちゃ嘘だが、
 ああ、嘘って、何だろうと思うのだ。

 

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