「あずみ」第一部読了。聖女来たれり。ところで売春をして傷つくのは魂じゃなくて自我だよ。
そう、批判は何も生まない。
そして思考だけが、それに基づく想念だけが、
あるいは信仰のみが。
自分自身の現実を創る。
善も悪もない。
聖書ではその昔、神がアダムとイブに善と悪を判断する実、知恵の実だけは食べることを勧めないと警告した。
それは甘くない。
それは苦いと。
善も悪も本来はない。
良いも悪いもない。
それは判断にすぎない。
それはあなたの信念を反映したものにすぎない。
そして実際のところ、それは世界の実相とは、ほど遠い。
それはまったく実体を持たない。
それらはいかにも実体をもって迫ってくるように思えよう、だがほんとうは他の誰でもなく、ただあなたが実体を与えているだけだ。
嘘だ、という。
信じられない。
そんなわけがない。
実際のところ、それら疑いに対する何ら適当な答えをわたしは持ち合わせていない。
実に残念なことに。
*
「あずみ」を読み終わった。
最後の最後に、第一部・完とある。
頼むぜ、ほんとに。
これをもって、中途半端な、まだ続きがあるような終わり方なんですよねと言いつつ貸してくれた、整骨院の先生を誹るわけにはいかないが、
それにしてもやな。
どこかで、ユーチューブのまったくあずみとは関係のないコメント欄で、あずみが処女で終わっているのは残念だとあった。
それは、ニュアンスは違うのかもしれないが、わかる気がする。
途中で、あずみの作者は男かな、女かなとふと思った。
まあどっちだっていいんだけど、
男だったな。
それで、とつおいつ思い出すに、「がんばれ元気」とか、「おーい竜馬」とかもこの作者だったな。
苦手だったなあ、なんか。
うまく言えないが、この世界観というか、この骨肉迫り、迸る血と涙と汗の感じが。
たぶん、たぶんですよ、
この人の漫画においては、スーパーヒーロー(ヒロイン)を除いては実に無力に散っていく。
それらの人たちへの哀れみは描かれているが、それが哀れみであるからこそ、どこかわたしには物足りない。
苦手だなあ、と思っていたものを意外と面白い、と思って読んでみたら結論やっぱり苦手だったという。
あずみが処女でなくなる、というか、女にとってのセックスを描くにはおそらく、あの人は力量が足りない。
じゃあわたしなら足りるかっていうと、これは実に難しいだろうな、
特に「あずみ」のような設定では。
平凡にまとめてしまうと、聖女か娼婦(か老婆・幼女・醜女)なんだよな。
最後(第一部の)に出てきたお万は(おまん、)、やることはやっても他の男からは操を貫き亭主が亭主たりうる前に死なれる意味では、聖女の類だね。
実に色気むんむんだが。
あずみだってそうだ。
無味乾燥な女じゃない。
情に篤く、情に脆く、素直で、純粋で、どこまでいっても男とは交わらぬ「女」。
あずみは、最初に作中で言及されているように、「菩薩」的存在だ。
あずみが男と経験したら、あの話は根本から覆るだろう。
平たく言えばあの神性、あの聖性は台無しになるだろう。
でも、なんなんですかね。
と思うな。
一、市井の女とすれば。
やればいい、とは思わない。
やれば台無しになる。
それは確かだ。
あの作品においてはね。
なんなんだろうなあ。
女を極端に扱いすぎる。
ここでわたしの「セックス」観について言うなら、
それは要するに何でもない。
「食」についても「住」についても同じように。
あるいは権威についても同じように。
あるいは常識。
処女であることが財産ならば、非処女であることも等しく財産であり、
お金持ちであることが財産ならば、貧乏であることも財産であり、
男であることが財産ならば、女であることも財産である。
セックスをしようがしまいが、「魂」からすれば何でもない。
そういえば「売る・売らないはワタシが決める」で言及した、河合隼雄が、売春をすれば魂が傷つくと言ったことを以前取り上げたが、
結論から言えば、そんなことはありえないというのが、
わたしの見解だ。
売春をすれば傷つくのは魂ではなく自我なのだ。
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子は親を救うために「心の病」になる。を読みました。わたしは人の期待に応えることができない人間だ。
「神との対話③」を開くと、
「他人を裏切らないために自分を裏切る」それは「最大の裏切りだ」という一行が目に飛び込んできた。
そうだな。
本当にそうだ。
そしてわたしは自分を裏切らないことだけに精一杯だ。
他のことができない。
パパ(いわゆる「彼」ですね)に感謝している。
申し訳ないと思う。
伝えないが。
伝えるとすれば、申し訳ないという気持ちはない、感謝しかない。
わたしはパパのことを心配はしていない、信頼している。
とでも言うだろう。
言葉は嘘をつく。
言葉は未来を先取りする。
わたしはまだ申し訳ないと思っている。
まだ心配している。
でもそうじゃない、ということが「わかる」、だから申し訳ないとか心配しているといった言葉を伝えるべきではないと感じる。
それはわたしの望む状態ではないと知っているから。
「母と子という病」を書いた高橋和己という人の、「子は親を救うために「心の病」になる」を図書館で見つけて読んだ。
レビューを見ると「宇宙期」について書かれている人が散見される。
わたしも「宇宙期」に関してが自分にとってはもっとも興味深かった。
わたしは自分の母親が、発達障害だとは思わないが、ただ、とても自分を持った人だったと思う。
そのために早くからわたしは自分を母親から乖離させることができたのかなと思う。
わたしは母親を見ていて、そうだよな、母親だって母親になるまえは一人の女性だった、人間だったと、どこかでふと気づいた。
そこに寂しさは一抹もない。
当然至極だと思うだけだ。
わたしは子供を持つことを恐れていた。
子供ほど純粋無垢で無力でまっさらなものはない、と思っていた。
そういう存在である子供の親を自分がする。
子供を傷つけるのが怖かった。
でも、と大人になって思った。
子供はいつまでも子供のままじゃない。
いつまでも親がすべてというわけにはいかない。
ふとそう気づいたら、すごく肩の荷が降りた気持ちになった。自分の子供なんてそもそもいないのだが。
たしかに母親には、ちょっと冷たいと子供心に感じたところがある。
フルタイムの上場企業に勤めていたこともあって、そういえばお母さんって普段着がないな、と思っていた。
本当になかったのかどうか思い出せないが、普段着がない、と思ったことを覚えている。
いつもデパートの決まった婦人服売り場で服を買っていた。
レリアンっていうブランド。
いやいつもかどうか知らないけどね。
そして今はそうではない。今は早期退職してむしろ普段着しか着ていないと思われる。
ヒール靴でもない。
もう67歳だしな。
子供の頃、お母さんの膝の上に乗ろうとしたら、汚れると怒られた。
ショックだったから覚えている。
だが、いつもいつもそうだったのだろうか。
一度きりのことではないだろうか。
だがそのたった一度きりのことを子供っていうのは覚えているものなのだ。
お母さんがいつも上機嫌で子供を全面的に労わり、慈しみ、受け容れる、決して機嫌悪くたった一度でもその手を払いのけることがあってはならない、
とすれば、
そりゃしんどいだろう、無理だろうと思う。
そうあるべき、だなんてとても思えないね。
そんな完璧さを母親に要求することはできない。
もうひとつ覚えているのが、母親と二人で、昼食でも食べようかということになり、
「何が食べたい?」
と聞かれて、何の気なしに、
「なんでもいい」
と言ったらひどく怒られた。
「なんでもいいじゃなくて何が食べたいのかはっきりと自己主張して」といったようなことを言われた。
いやだって本当になんでもいいし。
わたしが何か食べたいと言いだしたわけでもないし。
小学生低学年のころだった。
そんな突然怒り出さなくてもいいじゃないかと思った。
でもこうしたことを、恨んでいるかというとまったくそうではない。
そんなに急に怒らなくても、というショックによる反発は、
わたしに罪悪感を覚えさせなかったし、ただ冷静に母親を見ることに繋がるだけだった。
なんていうか、ああ、甘えちゃいけないんだな、というか。
それがひどく辛かったかというと、そうでもないんだな。
カルチャーショックみたいなものであって、
自分には自分があり、母親にも自分がある、というような、そこまで具体的に言語にしたわけじゃないが、気づくきっかけであった。
そしてもう一度よく考えて何が食べたいと言ったかということは思い出せない。ただ、おそらく、その場すぐは悲しかったので、ひたすら黙り込んだ可能性はある。
そうして反抗したのではないか、と思われる。たぶん。
わたしは他人の期待に応えるということができなかった。
親の期待にだって応えられない。
いやなことを「いや」とはっきり言わないまでも「うん」とも決して言わない。
「聞いてるの!」と言われたら「聞こえてる」と答えるような、まあそれは中学生にもなったころだけど。
覚めていた。
実に覚めていた。
同級生にもよく言われた。
素だ、とか、変わっているとか、さめてるとか、はては神秘的だとか。
わたしの反応は常に、へえ、そうなんだ、という感じだ。
そんなことないよ、でも、そうなんだよ、でもなく、そうなんだ、あなたはそう感じるんだ、というぐあい。
線引きがはっきりしていた。
他人が自分にどう振舞ってほしいと思っているか、ということにはさほど興味がなかった。
中学生になり、運動部の活動に参加し、三年生とは仲良くしていた。敬語もつかわない。
ところが三年生が卒業し、二年生へ進むと、ひとつ上の学年の子たちが、わたしに挨拶をするように言ってきた。
これがとんでもない葛藤をわたしに与えた。
相手に嫌われたくないが相手の要求をのむこともできない、というこの相容れない、自分の置かれた立場にひどく苦しんだ。
結局、部活動にはほとんど顔を出さないが退部もしない、ひとつ上の三年生が卒業するとこれでもういいやと、やっと退部した。
なんかよくわからない意地だった。
まあ要するにわたしは相手の要求をのまない選択をした。
嫌われるのはとても悲しいが、やむをえないと思うしかなかった。
とにかく、そういうところがある。
なぜ期待に応えられないんだろう、と悲しくなることもあるが、ようするに仕方がない、とするよりない。
だって応えたくないんだから仕方がない。
パパはそういうわたしを責めることがあった。
いつもいつもそうではないが、突き詰めると、そこの部分でどうしても対立があった。
いかんともしがたい、熱く冷え冷えとした譲り合えなさが。
わたしには「自分の中に他人を入れないところがあって、そこに踏み込まれることを嫌がる」とパパは言った。
うーん、まあ、そうなのかなあ、いや、そうなのか?
まさに人が二人いればそこには世間の縮図がある。
我と我がぶつかる。
あなたを知ることによって自分を知る、ということが起こる。
パパの言い分はパパの内部から出てきたものだから、完全にそのいわんとするところ、パパをしてそれをいわしめる価値観の全貌、というものは、
わたしには把握しきれない。
他人と自分とは別の人格と成育史があるから、他人のことが自分には手に取るようにわかる、ということにはならない。
こうだろうか、ああだろうかと類推するよりない。
パパは「俺は自分の中に他人を入れる」という。
それが成長の種になる。
いや、そうと言えばそうだ。
ところでわたしが、「自分の中に他人を入れない」というのはパパの言い分であってわたしの自己紹介ではない。
わたしによる認識ではない。
これは推測の域を出ないけど、彼自身にはわたしの思うところの「自分」がない。
あるいは、わたしとは「自分」というものが指す内容に食い違いがある。
わたしは踏み込まれるのを嫌がる、というより、そもそも踏み込めないと思っている。
クオリアだ。
それは踏み込んだり踏み込ませたりできない。
わたしが許可しないのは、唯一無二の自分を明け渡す行為だが、
しかしよく考えてみると、そんなことはそもそも不可能だ。
許可するも許可しないもない。
だが、まあ、許可できるとしようよ。
できるとすれば、わたしは許可しない、とパパに言わせるとそうなる。
ここにはねじれがあって、永遠に空回りし続けるような無為さ、無毛さがある。
わたしはついにそこを解き明かすことはできなかったが、
仕方がないのかもしれない、と思っている。いまは。
おかしな表現になるが、悔いはあるが後悔はない。
遣り残したことがあるかもしれないが、そもそもの第一歩を間違えた、という思いはない。
この関係自体が間違っていた、とは思わない。
得られた経験は数多くあり、パパがわたしにしてくれたことには感謝している。
悲しいのは、じゃあ俺の心に土足で踏み込むような真似は最初からしないでくれたらよかった、と憤りをぶつけられることだ。
結婚するのがゴールではないが、たとえば結婚しなかったとかね。
今になって別れを切り出すとかね。
別れを切り出した覚えはないんだけど、ないつもりだったけど、もうそうなっているし、まあ、もうじゃあそれでいいや。
しかしいったいいつ付き合うことに合意しあったんだ?という疑問もあるが、まあそれもいいや。
だってもうお別れしたんだから。
わたしだって辛くないわけじゃないが、彼のほうが辛そうだから、彼の望むようにしよう。
とはいえいつまでわたしは、こういうことを繰り返すのだろうか。
どこか悪いところがあるに違いない。
以前誰かに言われたようにどこかに「隙がある」のに違いない。
わざとだよ、と思ったこともあるけど、わざとというほどには自覚がない。
ともかく彼の得たいものを、わたしは与えることができなかった。
無視できるほど、好きではなくなった。
いや、そもそも好きだったんだろうか。
募る思い。
募らない思い。
どこかで道が分かれた。
まあ、それはそう思う必要はないかもしれないけど、八つ当たり的に感じたのが、わたしにしんどさを生じさせた。
しんどいのはたまらんと思った。
でもよかったという思いもある。
こんなふうに彼が怒れてよかった。
わたしも生身の人間だし、人間が練れてもいないから、耐性にとぼしいのは否めないが、それでも、
ああ、でもよかったな、という気持ちもしていた。
親との間に何かがあった。
何か、つまり、とある信念が彼なりに構築された。
それは多くのひとに共通する信念であるかもしれないが、
共通はするかもしれないが、
わたしは個人的な経験であり信念であると思っている。
自分がそうだから他人もすなわちそうだ、とはならない。
とはいえ類型化はできる。
類型化しようとしていたのかもしれない。
相手を一個のものとしては見ずに。
いや。
でも世間一般では、と彼が言うのを、世間一般とか知らないけどパパは、と言い直したら怒っていた。
わたしはそれをさらに類型化によって理解しようとした。
なぜこれ(普通とか一般的とかどうでもいい)がそれほど癇に障るのだろうか、ということを、他の事例をあたって理解しようとしていた。
耐性が必要だった。
わたしには耐性がなかった。
最初、輪の範囲は広かった。
そのうち間を詰められて、わたしは「いま、ここ」を持ち出すしかないように思われた。
もう「いま、ここ」に立ち会うしかないと思った。
これ以上、先延ばしにはできないと感じた。
彼が現実だと捉えているもの、それは幻想だ。
わたしが逃げているとすれば、幻想からだ。
幻想へ逃げているわけじゃない。
まるでこれは「自由からの逃走」と「自由への逃走」の違いについてのようだ。
まったく似ている。
またこんなことも思った。
わたしはどこかおかしいようだ。
人が赤く見えているものが、わたしには緑に見えているようなことが、あるようだ。
そこに三角形がある。
あるね、と同意する。
よくよく聞いてみればそれは赤色をしているのだという。
わたしには緑色に見えていた。
なぜそれを先に言わない?と怒られているようだ。
たしかに反発がある。
なぜそれを先に言わない?だって?尋ねて来なかったからじゃないか。
みたいな反発が。
だがどうも、それは多くのひとにとって赤色に見えるものらしい。
わたしはそれを「知っておく」必要があるらしい。
いや、ないけどね。
わたしは右利きだから左利きの人がかこつ不便さを実感としてわからない。
わたしは実際のところ色盲じゃないから、色盲の人が感じるであろう不便さがわからない。
でも色盲ってものを最初知ったときは、いったいでも何色に見えるのが正常かなんてどうやって決めるんだ?と思った。
ようするに多数決なんだよね。
それが赤に見える人が十人、緑に見える人が一人か二人なら、
もう赤であることにしよう、そうでないと取り決めが出来ないから、不便だから、進まないから、
こういうことが世の中には原則としてあって、
それは常に多数を占める者にとっては確かに便利なんだけど、
その最初に決めたことは何も絶対ってわけじゃない、ということを忘れるとたいへんだ。
いったんそうと決めたにすぎない、ってことをころっと忘れちゃうんだな。
幻想を現実だと思いこむ。
人工的な記号で表記できないことは、世界には存在しないと思いこむ。
確かにそうじゃない。
世界は一部しか表記しえない。
なぜそれを先に言わない?
ここには大いなる勘違いというか、手前勝手な思いこみがある。
わたしは確かにそれをうすうすは感じている。
いや、うすうすどころか。むしろ。
わたしはそれを先に言うか?
いや言わないでしょ。
なんでマイノリティであるからって先回りしなきゃならないんだよ。
わたしは辛抱強く「いま」自分が見えているものについて一々表現するだろう。
あなたにはそれが赤に見えるのかもしれないけど、などという余計な注釈は付け加えないだろう。
そしてそれが事態をややこしくさせることはこの先もあるだろう。
まあ、いいんじゃない?
人には誤解する自由ってものがあるのだから。
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神は裁かないよ。
つまりさ、神は裁かない。
裁くのは常に人であって、その裁きは常に欺瞞と不公平さに満ちている。
神は人が考えうるより究極に公平だ。
神は裁かない。
でも宇宙の法はある。
誰にでも等しく働く法則があり、そしてそれしかない、それが究極の公平さだと思う。
何かを許せても何かは許せない、
何かは好きでも何かは嫌い、
何かに感動を覚えても何かには無反応、
何かは尊敬しても何かは軽蔑する、
こうした態度は、良い悪いとかいうことじゃなくてただ狭量なのであり、
人間にとって程度の差はあれど、所詮神よりも狭量である、ということは当たり前であって、嘆き悲しむものでも恥ずべきものでもない。
思う存分好きを謳歌し、尊敬を感ずる心に打ち震え、許せることのリラックスに休息するのがいいと思う。
だが、神もまたこうした狭量さを幾ばくかは持っているかもしれない、と考えることは、わたしには耐え難い。
そんなわけない。と思う。
まだ思春期の頃、神様が殺人を禁じた、と聞いて、そんな馬鹿なと思った。
全知全能たる創造の源である神が、もし本気で殺人をタブーにしたいと願ったなら、そもそも人は人を殺す手を持たないだろう、人を殺すという発想を持たないだろう。
タブーっていうのは何でもそうだが、破られる時を待っている。
これは言うまでもないが、殺人を推奨しているわけではない。
わたしだって自分が殺されるのは嫌だし、親兄弟が殺されるのは途轍もなく悲しいし腹立たしい、まして誰を殺したいなどと思うだろうか。
でも、神様が禁じたってのは嘘だと思った。
神は裁かないよ。
そんな暇があるなら創造しているよ。
神様って究極にアグレッシブだと思う。
くよくよしたり、こうすればよかった、ああすればよかった、と振り返っている暇なんてないくらい忙しく、朗らかに笑いながら、新たな創造をしていると思う。
悲しむのも過去を振り返るのも広義には創造に違いないけど、
それはどこか、わたしの考える「カルマ」ってこういうことかな、という気がする感じの創造。
もちろん、神のようではないから自分はダメだってことじゃない。
だいたいそういう発想はそもそもおこがましい。
わたしたちは神の一部であって全体ではない。
神の一部という立場をフルに生かすには、大いに嘆き悲しみ、大いに笑い、大いに苦しみ、大いに歓ぶ。
過剰にならなくていい、大いに、とついつい語感良く言っちゃうけど、そこそこ、でも構わないんだよ。
カルマだって神が創ったものだと思うしね。
ただ、神はそれを体現出来ないの。
だからわたしたちがそれをする。
それだけ。
女性に生まれてよかったこと①
わたしが女性に生まれてよかったなあと思うことの一つは、
女性が〈客体〉であることだ。
男性が考察し、表現した物が多数を占める中では、概ね女性は「表現される対象」として扱われる。
作家、を分けて女流作家、
ManとWomanとか、
Man is...を「人間は…」と訳すのが自然だったりとか、
そういう女性からすればある「違和感」を持てたのは、つまり「客体」としての自分、という視点を持てたのは、よかったなあと思う。
人間と女、という構図。
「二次元の世界」という十九世紀末に書かれた小説にも、
「われわれは」、という地の文の主格が、わざわざ注釈を加えるまでもなく男性を指しているくだりがある。
われわれ、と言われて全体を指しているものと読んでいると語尾へ至って、ああ女性は含まれていないのか、というような、
女性としてはすっと入りにくい表現、
いや、入っていたのに放り出される感というか。
こういう現象に対して男性は無自覚であるということを男性の方が言っておられて、
なるほど、男性というのは「男性社会」であるということに、無自覚にもなれるよなと思う。
そもそも言語自体、男性が主体となって生まれたものだなと感じたこともあるが、そういうことにおそらく「無自覚」である。
上にあげた小説だって、そもそも女性の読者を想定していない。
と感じるほどの読みづらさはところどころにある。
でもその読みづらさが、世界を認識するときの「気づき」として多くの材料を提供してくれているとも言える。
「サル学の現在」でも、研究者はメスザルについては顔も似ていて判別もしづいらいし、よくわかっていない、という見解を出していたのだが、既存の研究者とはすべて男性なのであって、
女性の研究者がフィールドに乗り出していくと、彼女はメスザルの顔の方が判別がつきやすいし、メスザルの行動に対する推測も立てやすい、ということがあった。
「そうだったのか!と頭をがつんとやられた気がした」のは男性研究者の一人である。
あらゆる目線のデフォっていうのは男性に設定されていて、
女性からすればプロパティを開いてチェックを外すという手間隙をかけないと違和感なくそれを使えない、というようなことがある。
でもだから、不便なことってあるけど、「それがいい」。
不便は便利の母であると言ったのは誰だっただろう。
祝・寛解。
昨日、パパが寛解に至った。
ありがとう、おめでとう。
とても嬉しい。
寛解というのは、統合失調症でも使われる用語であるが、まさにそれに倣っている。
現代の人間はおよそ全員が統合失調症である、という言説を聞いたことがあり、本当にそうだなと思った経緯がある。
病状の差は、程度の差に過ぎない。
そしてよほどひどい状態の人は、異常と認められて病人扱いだ。
以前にもふと思ったことがあるけど、病気っていうのは、
一人ではなれないというか、
結局社会の歪みをもろに受けた結果というか、
だから、
病気を顕現する人って自分の習慣なり、習性なり、そういうものが原因するということはもちろんあるけど、
ある意味、なんていうかとてもありがたい存在なんだろうなと。
それを引き受けられるっていうのは、弱さと称されることもあるけど、弱さは畢竟強さであり、というような。
もちろん全員が復病するわけじゃなくて、死に至ることもあるんだけど。
おや、「死に至る病」ってタイトルの本があったな。
ニーチェ?
キルケゴールか。(読んでみようかな)
わたしは病を恐れていて、それになれない。
いや、なるかもしれないけど、なったらなったときだ、ともかく大病を未だ知らない、この方が正確か。
それで一概に言うなら、病を顕現している人に対して、非難がましい気持ちをわたしは持ってしまう(鬱病とか典型的だな)、この点は反省したいと思う。
パパが寛解へ至ったというのは、
要するにパパと世界(わたしを含め)との間に横たわっていた「生きづらさ」「息苦しさ」が緩解・緩和された、ということだ。
以前はよく行っていた居酒屋の、依然常連さんの誕生日会ということで参加したのだが、L字型カウンターの端に座ったこともあり、
皆の盛り上がり、というか乱痴気騒ぎにはあまり加わらず二人で話し込んでいた。
以前の俺なら、と突如奇声の上がった人の輪を眺めて、パパがいう。
まがりなりにも誕生日会に列席したのなら、場の盛り上がりに加わらず隅でひっそりと話し込んでいるという状態は考えられなかったと。
無理していたなと思う、とぽつりと言う。
ここでわたしがはっきりさせておきたいことは、何もお酒の席で盛り上がるのが悪いわけじゃない、楽しく騒ぐのが悪いわけではない、という点だ。
でも、パパからすれば、それをまるで責務のように自分に課した結果として、そうしていた、でも本当は無理をしていた、頑張って場の盛り上がりに自分を参加させていた、ということだ。
そして何なら、それに参加しない人を「悪者」「乱す者」のように感じていた。
いやでも過去にはそれで自分が楽しかったこともあると思うんだけどな。
人間ってメリットのないことはしない、これはわたしの信条ですから。
まあこの際自分は「悪者」ではない、というメリットだな。
ともかく針が振り切れて、逆方向へと邁進する中、「自分は無理をしていた」という気づきを得た。
それを受けてわたしは「そうだろうね、そうしてパパは、わたしにもなんで無理をしないのって諌めていたんだよ」と言った。
わたしが逃れ難く思ったのは、この人は病に冒されているという点だった。
罪を憎んで人を憎まずというか、
病を恐れて人を恐れずというか、
この人といたらとってもしんどい一面がある、でも、このしんどさはこの人の本質が齎したものではない、という一抹の思いがあったから、どうにかこうにかぎりぎり(相手を直接否定せずに)踏み止まったというか。
*
わたしはずっとズレを感じていた。パパに対してだけじゃない。
たとえばネイルだ。
わたしはかれこれずっと何年もネイル(固めるやつ)をしているが、
だいたい月に一度決まったネイリストの方にしてもらっているんだけど、次はどんなデザインにしてもらおうかなあと、インターネットで画像検索などしていると、
横から覗き込んできた同い歳の男性が、「女子やなあ」とコメントしてくる。
まあそうでもあるんだけど、わたしとしては「アーティスト」気取りなところもある。
ネイル、いくらかかるの、と聞かれて、だいたい五千円から六千円かなあというと、ネイルについて「知っている」人、まあ女子ですね、ならば、
そのデザインで五千円って安いねと言ってくれる。
爪ごときに、という考えの人なら、五千円と言ってもそもそも相場を知らないから、高いなあ、大変やなあ(女子って)という反応になる。
いやまあね、
わたしが仮に月給十万円だとしたら、爪に五千円は高いなと単純に感じると思うよ。
まず家賃(買ったほうが安いという理論はわかるんだけど、定住することへのそこはかとない「怖れ」がある。これは「結婚」に関しても同じような思いがある)から考えて、
要するに優先順位として、必ずしも外せない要因(必要経費)として、ネイルは位置しない。
でもそこが「いい」んだけどな。
なんかそれこそズレましたかね。
要するに、人がコメントしてくることっていうのは、その人自身の持ち物(信念)を提示しているのに過ぎない。
人の常識は自分の常識ではないし、
人の正義は自分の正義ではない。
人が考える世界観はイコールわたしの世界観ではない。
これは謂わばそれこそ、「あたりまえ」なんだけど、
この「あたりまえ」を噛みしめていない人って意外に多いよね。
昨日図書館で「サル学の現在」(立花隆・著)を借りた。
その第一章に、インタビュー形式として今西錦司を持ってくる。
これはそもそも連載から本にしたものだから、「まえがき」として、
第一章はわかりづらいかもしれないから第三章とかから読むのもおすすめ、なんて書いてあるが、
わたしがその本を借りた動機には、ふいに「ゴリラ」「気になる」と思ったからで、
まずはゴリラの章から読み、まえがきを経て第一章を読んだ。
すると、今西錦司曰く、人間を知りたいという気持ちから長年サル属の研究をしてきたが、結局のところサルを知ったからって人間はわからん、
というような、
実に大雑把に言えばだけど、要するに、自分のしてきたことは何でもなかったという境地について語るくだりがある。
いやわたしは、この人好きだなと感じた。
彼は宗教に関して否定しているんだけど、これはOSHOの言う宗教に通ずるものがあると思った。
また、松沢呉一・編「売る売らないはワタシが決める―売春肯定宣言」の中で、河合隼雄のことを、
俺はこの人好き(売春したら 魂が傷つくって何だよ!でもなんか嫌いになれない!もう好きかもしんない!)、と言っていた(意訳です)ニュアンスと似ている感じに、
わたしはこの人(今西錦司)、好きだなあと思った。
一種の諦め、というかね。
仏教でも四諦ってあるよね。
ええ内容については一切記憶していないけど、ここで遣われる「諦」という文字はそのまま、
諦め、とも違って、明ら目、とでもいうのかな。
よく悟ってるね、とか、
達観しているね、とか、
なんだろうな、
そんなふうに他人のことを揶揄する感じってあるけど、
これって要するに、あなたはこのゲームに参加しないんだね、というニュアンスが近いと思うんだよ、揶揄する側からすれば。
それで答えから言えば、うん、参加しないよってことだと思うの。
まあ無理矢理感がハンパないがいったん纏めると、それが「ズレ」であり、もっと踏み込めば「ズレへの容認」である。
ああ、わかった。
わたしの危うさは、人に対する危うさとして、すぐに反映されてしまう。
わたしはとても強いものを持っている。
これは曰く言い難いのだけど、ともかくそうだ。
強いなんて実に相対的な表現だし、それでいい、んだけど、
ともかく、しかもそれを、怖れている。
わたしが持っている強大な力をわたし自身が怖れている。
これは、なにもわたしだけじゃなくて、皆がそうであるところのもの、だけど。
意識するせざるを問わずね。
サル学の中で面白いと思ったのは、
動物は競争しないってところだね。
限られた空間、人為的に囲い込まれた空間においてならば、サルも必要にかられて争うが、
本来自然の中で過ごしている彼らは競争なんてことはしない。
むしろ争いを避けて「すみわけ」をしている。
長らく(といっても彼の本の発刊が1986年とかそんなのだけど)サルにはボスザルがいて、群れを統率している、という流説があたりまえになっていたけど、
フィールドワークしてみたら、ボスなんていない、ということしかわからなかった。
群れが移動するときには、ボスが率先してこっちへ行くぜというような指針が基になっているわけじゃなくて、
ただ「なんとなく」、「多数の原理」によって移動しているのだと。
多数の原理。
深いね。深いよ。
わたしはそれでふと思うのだけど、この「多数の原理」に逆らう人だったんだなと。
自然回帰しよう、とか、そうでもいいけど、そうでもなくて、
いったい多数の原理がナンボのもんなのじゃ、という立場を固持したい人であったというふうに思いますがどうだろう。
まあ、なんだろうな。パパの寛解、これは大きい。
このズレね、
ズレは常に感じる。
それが個であるということだと思うんだよね。
個って何かっていうと、肉体であり我でありエゴであり、
究極的には「今、ここを生きている」という実際である、と思う。
このことは何人たりと逃れようがない。
わたしたちは個である。
限定的に個である。
「自発的隷従論」なんてもう何百年も前に書かれた本だけど、ジャケ買い、
もといタイトル買いしちゃうんだよ、
ちゃんと読んでないんだけどさ。
*
「自発的隷従論」はフランス革命の頃に書かれた。
お、なんだなんだ、懐かしいぞ、これは知っているぞという感覚。
わたしの考える愚かさとは、「知った気になる」ということにまず要約できるかと思う。
OSHOが好きなんだけど、OSHOの子供時代の言動が実に糞生意気だと言っているわたしもまた糞生意気なのだが、
お母さんに、どこへ行っていたのかと心配した、と言われて、
「どこへ行ったかですって?神のもとへいる以外にないでしょう」
と答えた子供時代のイエス・キリストも大概だと感じたのに似ている。
まあでもわかる。
わかる、この感じがどこから来るものなのか、本当に不思議に思う。
瞑想するとすごいことがいっぱいわかるよっていうのも、わかる。
でもしないの。
これはまるでまだ眠っていたいというのがぴったり来る。
そう、わたしはまだもうちょっと眠っていたい。
「悟り」も、悟って何になるだろうと思う。
というか、実際のところすでに悟っている。誰でも。
わたしは「悟る」ために生まれてきたわけじゃない。
遊びに来たの。
この毎日、毎瞬をただ遊びに来た、楽しむために来た。
パパについて補足すると、
件の居酒屋の常連で、
同い歳のYさんが、Rさんの持ってきたコスプレを着てウケを狙うポーズを取りサービスしていたのを見て、
「以前の俺を見ているよう」だと言った。
いや、それは違うよ、Yさんは決して「以前の俺」ではない。
同一人物ではないからだというと、そりゃあたりまえだということになるが、
敢えて言うならばこういう「誤り」をとかく人はやってしまいがちだ。
そして愚かさとはこういうことだと思う。
他者が他者として存在することを、実は「わかって」いない、
他者とは自己の投影である、ということを「わかって」いない。
そうして「罪」や「過ち」はどこまでも自分の手から、実にあっさりと零れ落ちてしまう。
自分を罰するより他者を罰した方がまだ「マシ」だが、所詮「マシ」である程度に過ぎない。
そこじゃない。
他者を許せないひとは、実のところ、自分を許せていない。
他者に委託しているもの(他者への非難・批判)とは、受け容れきれない自己そのものである。
要するに自分の問題であって、彼の問題ではない。
そうやって、一瞬自分を振り返ってはすぐよそを見る、という、もう「癖」だな。
あらゆる人は実際には「悟って」いるし、目覚めたことがない人はいない、
でもまたすぐに「夢」の世界へと埋没する。
起きているのはほんの一瞬だ。
他者に対する哀れみとは実際には、自己に対する哀れみである。
「可哀相」なのは彼ではなく、自分自身である。
自分を許せない、自分をまるごと受け容れることが出来ないというのは、断言してしまうと、「病」そのものだ。
そしてほとんどあらゆる人々があらゆる場所において、この「病」に冒されている。
わたしもまた完全に冒されていない、とは言えない。
だから、「わかる」のだろうと思う。
同じ病を持つ者として、他者の病を類推している。
肉体に宿っている以上、ある程度仕方がないことなのだろうと思う。
思うがちょっと歯痒いね。
まあ、「病」でもいいし、「癖」でもいい。
同じだ、似たようなものとしておいて構わないだろ。
重要なのは、一瞬でも「気づき」をその手にした、ということだ。
それがたちどころに手から零れ落ちてしまったからといって、嘆くことはない。
重要なのは、パパが「自分は無理をしていた」と思えたことだ。
「Yさんも無理をしている」と思えたことではない。
それは余計であり、過剰であり、
行き過ぎだ。
バランスを取るのは難しい。
それは惰性では、
惰性でも不可能ではないし惰性で皆バランスを取って生きているけど、
なんていうかな、
10センチの幅を歩くのに目を瞑ってはなかなか難しいが、それが5センチならばなおさら難しい、でも10メートル、あるいは1キロも幅があればそもそも踏み外すことの方が難しい。
惰性でバランスを取らないこと、
これは10センチを5センチに、さらには1センチにしていくような作業であると言えるかと思う。
これは目には見えない。
物質的な喩えを用いたが、物質的なことについて指摘しているわけじゃない。
まあでもよかったじゃありませんか。
友人Tちゃんにも今日、話したら、よかったねと言ってくれた。
いやほんと、よかったっす。
人が鏡であるということは、人が解放感を味わえたときには自分まで解放感を味わえるということだ。
ミラーニューロンだ。
脳内で相手の動きを再現している。
カタルシスは、自分の体験を再現することによって共有できる、と言える。
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親より子供の方が「強く」て「優しい」から、子供は親に寄り添える。
自分が変われば、相手が、世界が、つまり自分を取り巻く環境が変わるというのは、紛れもない事実だと思うんだ。
色んな喩え話、色んな原因と結果、色んな経験談を聞いても、実に納得できるし、それらは一々ここで取り上げられないほどの数にのぼる。
たとえば波長ってある。
波長っていうのは振動数(植物にも鉱物にも火星にもあなたにも、固有の振動数がある。ただし人間は振動数を、信じるが侭に、容易く変えることが出来る)と同じか類友みたいなものだと思っているけど、
これは明らかにわたしの波長が「それ」に向かって開かれている、というか、「それ」に合わせるようにチューニングした結果なんだろうな、と考えるのが自然だ、という、
似たような経験を次々とすることが、わたしにも実際に経験がある。
自分が変われば、状況が変わる。
自分の視点が変われば、世界はそれこそ一変する。
それは、自分をコントロールするのは自分であって、世界(他者)ではないということだ。
自分が変われば相手が変わる、それって自分が我慢すればいいってこと?と訴える人と話したことがあるけど、違う違う、それはカウンセリングへ行って下さい。
あなたの感情に蓋をしてきたのはわたしじゃない、あなた自身だということにまず向き合わなくてはならない。
理解する楽しみのある算数さえもすっ飛ばして、公式を暗記するだけのような数学に親しむのは、おそらく誰にとっても至難の技だから。
あなたの感情に蓋をしてきたのはわたしじゃない、あなたでもない、あなたの親である、というところからはじめなくてはならないんだろうね。
親って不思議だね。
それは、わたし自身が個別に親というものを感じているだけでは、不思議でも何でもなかっただろうな。
他人の、親に対する観念というか信念を知ってはじめて、不思議に思えたことだ。
子供のとき、母親がもし自分のクラスメイトだったら、と考えたことがある。
そうだとしたら、果たしてわたしは彼女を好きだったろうかと。
単にクラスメイトの一員だとすれば、彼女に対して、どういう位置付けを自分はしただろうかと。
その話を大人になってから、何人かの友達にしたが、「わかるわー」という反応を貰えたことはない。
おそらく、わたしは自分の母親のことを、母親というフィルター、
というか母親という配役を通してはあまり、そこまで、全面的には、好きになれなかったんだと思うな。
母親が不要だとか嫌いだとか思ったことはないが、どうしたって必要だと思っているけど、これって「好き」と言えるのかな?と素朴にふと、疑問になったことがあるんだ。
あなたの感情に蓋をしてきたのはわたしじゃない、あなたじゃない、あなたの親だ。
というところから成育史を振り返らなければ自分の気持ちを確りと持てない、持つことに躊躇う人って、生来優しいんだと思う。
本当に、優しいんだよ。
だって、親だって実は子供みたいなもの、子供の延長が大人だからね。
大人の方が複雑で余計なものを、生きてきた分だけいっぱい背負っている。
そんな大人である親の事情を、子供が理解しようというのは、難題だ。
でも、にも拘らず、子供は親に寄り添う。
この際、無力な子供は親に頼るしかないからだ、という解釈はわたしはあまり好きじゃないな。
子供の方が、実際には、余計で複雑なものを背負っていない分、
とてもシンプルで純粋で、力強いからだと思うんだ。
親より子供の方が強いから、子供は親に寄り添える。
実際にはがらくたみたいな、抜け殻みたいな、荷物を一生懸命に背負って生きている大人である親の方が、とても弱いんだよ。
わたしはそう思う。
あなたはどう思う?
他人の軸で生きていても、他人どころか、自分を真に満たすことも出来ません。
結局わたしが中学生のときに悩んだのって、
誰も答えを持っていないような問いだった。
と、「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(飲茶・著)を読んで、思うのだ。
誰もというのは、本には答えらしきものを見出せても、周囲の人からすれば答えようのない問いを発していたのであろうということだ。
しかも、問いの方も雲をつかむようにまだ曖昧で明確ではなかった。
わたしはそれを誰かにわかってもらえるようには表現出来なかった。
〈なぜ目上の人に目上だからというだけで挨拶をしなければならないのか?〉
先生も先輩も同級生も「あたりまえ」だって言うけど、「あたりまえ」って何?何の価値があるっていうの?ただの思考停止じゃん!すっごい反発しちゃうんだけど!!
でも誰もわかってくれなくて、悲しいんだけど!
と寝ても覚めても、悶々とする日々を送っていた。
誰にも理解されないのだとしても、自分の考えを自分だけで守ることは可能か、可能だとしてもそれは果たして「正しい」のだろうかと。
自分で問いを立て、自分で解決する、という経験がわたしには、いつかどこかでぶち当たらざるを得ない必要な自立のステップだった、今となってはそう捉えている。
だから孤独で苦しい葛藤を経験したが、悔いや恨みはない。
あれで良かった。
中学生の当時、それにしてもこんなことをこれから五年も十年も悩んでいようとはとても思えない、と感じていた。
だとすれば、十年後のわたしが過去のわたしに会いに来て、間違っていない、その悩みは無駄ではないと言ってくれたら、どんなに心が軽くなるだろうかと想像したことがある。
でも十年後のわたしは会いに来てくれなかった。
そしてあれから二十六年も経つが、未だにわたしはそういえば会いに行かなくっちゃとは思わない。
あの経験をくぐり抜けてきたわたしは、過去の自分が大丈夫だということを知っているからだ。
それにだいたい、それがたとえ自分であったとしても、他人(というとおかしいが)の言うことを鵜呑みにするようなわたしではないことは、わたし自身が一番よくわかっている。
だから行きません。
でも、過去に向かって祈ること、微笑むことは出来る。
こうして過去を振り返ることが、「こんなことで五年も十年も悩んでいるとは思えない」という直感として、当時のわたしに届いたのかもしれない、と思う。
そう考えるとちょっと素敵じゃないですか?
あのときは挨拶に悩んだけど、要するにそれは「考える」きっかけに過ぎなかった。
だって今となれば挨拶に躊躇わない。
何でもない、屁でもない。
今でも決して愛想の良い方ではないが。
したければするし、したくなきゃしない、それだけだ。
自分の判断と責任において、したいようにするだけのことだ。
今、誰かに、大人だったらちょっとイヤだが、子供になんで挨拶しなきゃならないの?と真剣に聞かれたら、
「四の五の言わずに挨拶しとけばいいんだよ」
とは、わたしは返さないだろう。
池上彰ばりに「それは良い質問ですね」と目をキラキラさせて言うかもしれない。
いや、言うか、わたし?
まあ聞かれたことないけど。
挨拶はわたしにとっては単にきっかけだった。
大人でもいるよね、
「なぜ○○しなければならないんですか」って怒ったり悩んだりして、他人に訴えかける人。
なぜってそれは、他人を掻き口説いたって答えなんか出ないよ、としか言い様がない。
自分にしかわからないよ。
自分が損得勘定をして、選択し、どんな行動を起こすのであれ、結果を引き受けるのは他の誰でもなく自分自身だという覚悟を決めるしかない。
でもこのことが「わからない」人って、いるんだな。
いや、そんなことは重々わかっているけど、選択によって結果が変わるのだとすれば、選択自体に悩むということだってあるんだろう。
うーん、でもそれはね(以下果てしなく脱線します)、
たぶん逆だね。
結果をまず決めるのよ。
決めたことに対して疑いが起こることもある、果たしてどうなるかと将来について不安になることもあるだろう、でも、
あなたは望む結果についてだけ焦点を合わさなければならない。
不安っていうのは、
なんだろうな、絶えず気が散っているような状態だ、
過剰な欲深さのようなものだ、と考えてみたらどうだろうか。
あれを失ったら、これを失ったらどうしよう、とまだ何一つ手に入れていないのに心配しているような状態だ。
あなたにとってそれらすべてが必要なわけでも、現実問題すべてを持ち得るわけでもないのに。
例えるなら、ピアノとドラムは一人で同時には弾けないし、ベッドと床に敷いた布団に同時に寝ることは出来ないし、沖縄と北海道を同時に目指せるわけがない。
あるいは自分が本当は何を望んでいるのか実はよくわかっていない、のだとも言える。
選択によって結果が変わる、わけじゃない。
結果をコロコロ変えることによって、選択がコロコロ変わるだけだ。
ちょっと飛躍しちゃった感があるので、戻ると、
「自分が決めるしかない」ということが、「わからない」人っていうのは一定数いる。
いやもっと混乱したケースでは、「自分にしかわからないことがある」ということさえ「わからない」人がいる。
平たく言うと、自分がない。埋没してしまっている。
がらっと例を変えると、
「しなければならないこと」を「他者(社会)に強制(誘導)されている」と感じる人がいて、そういう人は、
自分が決めた、のではなく「決めさせられた」と感じる。
いずれにせよ、他人任せ、他人軸で生きている。
なんでそんなことになるかと言うと、
なんでなるんだろう、わたしが教えてほしいくらいだが、
中学生のときの葛藤を思い出すなら、
「正しい」ことがしたいんだろうな。
とはいえ「正しい」が何なのかわからない。
非難されたくない。
排除されたくない。
否定されたくない。
そうした動機に基づいて行動を決めようとするから、
仮に誰かに否定されたときに、自分の行動の結果を受け容れることが出来ない。
開き直ることが出来ない。
そりゃ他人の考えることや価値観なんてそれぞれなんだから、否定されることもあるさ、仕方ない、と柔軟に受け流すことが出来ない。
なぜ出来ないか、というと、自分の価値観が「正しい」(というより「否定されたくない」)に基づいているからだ。
自分を否定してくる彼が「正しい」のだとすれば、自分は「正し」くないことになる。
それは困る。
じゃあいっそ、彼が正しいのだとするなら、自分を変えよう(彼の「正しさ」に乗り換えよう)、という選択もあるだろうけど、
いったいそのゲームはいつ終わるんだ?
「正しさ」を追い続けるだけの、それはいつ終わる?
正しさって何だろう?
わたしがこんなことで五年も十年も悩んでいるとは思えない、と考えた挙句の一つの結論は、
正しいは人の数だけある、ということだ。
むしろ正しくない人などいない。
要するに「正しい」なんて何でもない、正体がない。
すべての人が正しいのだから、正しさは実のところ何も保証しない。
あるいはこうだ、
「真実」とはそれ以上問うのをやめること。
こっちの方が当時考えたことに近い。
真実というのは、今つかまえたと思っても次の瞬間には、次の朝には、掌から零れ落ちてしまうものなのだ。
そしてそれでいいのである。
だって、考えてもみてください、
「究極の真実」、もうこれ以上問うのをやめ、動かざる絶対の真実というものを自分が手にしたのだとすれば、果たして、これ以上生きていて何になるだろうか。
いや、これはわたしの価値観だけどね。
っていうか、これもまたちょっと急ぎすぎた展開だけどね。
つまりこの際の「真実」とは、
自分だけの法則を、わたしにも彼にも誰にでも当て嵌めることが出来る、
出来ないとすればわたしの法則が間違っているのではなく、彼や誰かが間違っているのである、というような、
暴論を展開するのは無為の極み(としての真実)だということだ。
わたしが正しさによって自分を保証したい、と考えていたときには、まったく出口がなかったと言わざるを得ない。
自分の考えを誰か(出来るだけ権威ある人がいいな。神様とか最高)に、それで合っている、と保証してもらいたい、と考える限り、
わたしは地の果てまでそれを探し求めたとしても、ついに安住の地を見出すことはない。
エマーソンの言う、賢者は自分の家にいて出かけない、というやつだ。
普通日常によくあるのは、何も権威ある人とか神様とかじゃなくて、
最も身近な人に認めてもらいたい、という欲求だろうな。
うん、いやそういうことだ。
そういうことだった。
親とか、配偶者とかに認めてもらいたい。
そして、相手の期待に応えることを、自己実現(あるいは自分の果たすべき役割)と勘違いする人がいるが、決してそうじゃない。
「相手が求めること」いわば他人が決めた結果を、あなたのゴールにしている限り、あなたに心の平安はない。
いつまでたっても、何か不測の事態が起こるたび、応えきれないジレンマを感じるたびに、「じゃあどうすればよかったんですか」と嘆き続けることになる。
どうすればよかったって?
あなたはあなた自身のゴールを目指すしかない。
他人のゴールを目指すことが自己実現ではないことは明らかだ。
他人を軸にしている限り、自分の人生を生きているとは言えない。
その他人が親である場合、でも親は先に死ぬよね、どうするの。(たぶん親の亡霊が生き続けるのだろうけれど)
だいたい親を軸に生きてきた人は、次に配偶者(交際相手)に軸を求める。
自分の軸から目を背け続けてきた人、背けることが正しいことだと信じてきた人、
あるいは、自分は決して正しくない(自分の判断は信用できない)のだと信じ続けてきた人、に聞いてみたいのだが、
逆に交際相手から親代わりとか、本人に代わる軸とかを求められたとしてみてみ?
重荷じゃない?
わたしはあなたの親と違うし、あなたの軸とか知らんし、わたしはあなたじゃないし、ってなりません?
ならないかなあ。
あ、逆に相手の軸にならなきゃって思う人もいるね。
まあ根は同じことだけどね。
お互い、軸は自分にはない、という状態を望む。
あなたの軸はわたしだし、わたしの軸はあなただし、というわけだ。
どこまで行っても、自分の軸を自分で引き受ける事態を避ける。
あれっそもそも「悟り」について書こうと思っていたのに今日もまた辿り着けませんでしたとさ。
ゴールどこだよ。
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