祝・寛解。
昨日、パパが寛解に至った。
ありがとう、おめでとう。
とても嬉しい。
寛解というのは、統合失調症でも使われる用語であるが、まさにそれに倣っている。
現代の人間はおよそ全員が統合失調症である、という言説を聞いたことがあり、本当にそうだなと思った経緯がある。
病状の差は、程度の差に過ぎない。
そしてよほどひどい状態の人は、異常と認められて病人扱いだ。
以前にもふと思ったことがあるけど、病気っていうのは、
一人ではなれないというか、
結局社会の歪みをもろに受けた結果というか、
だから、
病気を顕現する人って自分の習慣なり、習性なり、そういうものが原因するということはもちろんあるけど、
ある意味、なんていうかとてもありがたい存在なんだろうなと。
それを引き受けられるっていうのは、弱さと称されることもあるけど、弱さは畢竟強さであり、というような。
もちろん全員が復病するわけじゃなくて、死に至ることもあるんだけど。
おや、「死に至る病」ってタイトルの本があったな。
ニーチェ?
キルケゴールか。(読んでみようかな)
わたしは病を恐れていて、それになれない。
いや、なるかもしれないけど、なったらなったときだ、ともかく大病を未だ知らない、この方が正確か。
それで一概に言うなら、病を顕現している人に対して、非難がましい気持ちをわたしは持ってしまう(鬱病とか典型的だな)、この点は反省したいと思う。
パパが寛解へ至ったというのは、
要するにパパと世界(わたしを含め)との間に横たわっていた「生きづらさ」「息苦しさ」が緩解・緩和された、ということだ。
以前はよく行っていた居酒屋の、依然常連さんの誕生日会ということで参加したのだが、L字型カウンターの端に座ったこともあり、
皆の盛り上がり、というか乱痴気騒ぎにはあまり加わらず二人で話し込んでいた。
以前の俺なら、と突如奇声の上がった人の輪を眺めて、パパがいう。
まがりなりにも誕生日会に列席したのなら、場の盛り上がりに加わらず隅でひっそりと話し込んでいるという状態は考えられなかったと。
無理していたなと思う、とぽつりと言う。
ここでわたしがはっきりさせておきたいことは、何もお酒の席で盛り上がるのが悪いわけじゃない、楽しく騒ぐのが悪いわけではない、という点だ。
でも、パパからすれば、それをまるで責務のように自分に課した結果として、そうしていた、でも本当は無理をしていた、頑張って場の盛り上がりに自分を参加させていた、ということだ。
そして何なら、それに参加しない人を「悪者」「乱す者」のように感じていた。
いやでも過去にはそれで自分が楽しかったこともあると思うんだけどな。
人間ってメリットのないことはしない、これはわたしの信条ですから。
まあこの際自分は「悪者」ではない、というメリットだな。
ともかく針が振り切れて、逆方向へと邁進する中、「自分は無理をしていた」という気づきを得た。
それを受けてわたしは「そうだろうね、そうしてパパは、わたしにもなんで無理をしないのって諌めていたんだよ」と言った。
わたしが逃れ難く思ったのは、この人は病に冒されているという点だった。
罪を憎んで人を憎まずというか、
病を恐れて人を恐れずというか、
この人といたらとってもしんどい一面がある、でも、このしんどさはこの人の本質が齎したものではない、という一抹の思いがあったから、どうにかこうにかぎりぎり(相手を直接否定せずに)踏み止まったというか。
*
わたしはずっとズレを感じていた。パパに対してだけじゃない。
たとえばネイルだ。
わたしはかれこれずっと何年もネイル(固めるやつ)をしているが、
だいたい月に一度決まったネイリストの方にしてもらっているんだけど、次はどんなデザインにしてもらおうかなあと、インターネットで画像検索などしていると、
横から覗き込んできた同い歳の男性が、「女子やなあ」とコメントしてくる。
まあそうでもあるんだけど、わたしとしては「アーティスト」気取りなところもある。
ネイル、いくらかかるの、と聞かれて、だいたい五千円から六千円かなあというと、ネイルについて「知っている」人、まあ女子ですね、ならば、
そのデザインで五千円って安いねと言ってくれる。
爪ごときに、という考えの人なら、五千円と言ってもそもそも相場を知らないから、高いなあ、大変やなあ(女子って)という反応になる。
いやまあね、
わたしが仮に月給十万円だとしたら、爪に五千円は高いなと単純に感じると思うよ。
まず家賃(買ったほうが安いという理論はわかるんだけど、定住することへのそこはかとない「怖れ」がある。これは「結婚」に関しても同じような思いがある)から考えて、
要するに優先順位として、必ずしも外せない要因(必要経費)として、ネイルは位置しない。
でもそこが「いい」んだけどな。
なんかそれこそズレましたかね。
要するに、人がコメントしてくることっていうのは、その人自身の持ち物(信念)を提示しているのに過ぎない。
人の常識は自分の常識ではないし、
人の正義は自分の正義ではない。
人が考える世界観はイコールわたしの世界観ではない。
これは謂わばそれこそ、「あたりまえ」なんだけど、
この「あたりまえ」を噛みしめていない人って意外に多いよね。
昨日図書館で「サル学の現在」(立花隆・著)を借りた。
その第一章に、インタビュー形式として今西錦司を持ってくる。
これはそもそも連載から本にしたものだから、「まえがき」として、
第一章はわかりづらいかもしれないから第三章とかから読むのもおすすめ、なんて書いてあるが、
わたしがその本を借りた動機には、ふいに「ゴリラ」「気になる」と思ったからで、
まずはゴリラの章から読み、まえがきを経て第一章を読んだ。
すると、今西錦司曰く、人間を知りたいという気持ちから長年サル属の研究をしてきたが、結局のところサルを知ったからって人間はわからん、
というような、
実に大雑把に言えばだけど、要するに、自分のしてきたことは何でもなかったという境地について語るくだりがある。
いやわたしは、この人好きだなと感じた。
彼は宗教に関して否定しているんだけど、これはOSHOの言う宗教に通ずるものがあると思った。
また、松沢呉一・編「売る売らないはワタシが決める―売春肯定宣言」の中で、河合隼雄のことを、
俺はこの人好き(売春したら 魂が傷つくって何だよ!でもなんか嫌いになれない!もう好きかもしんない!)、と言っていた(意訳です)ニュアンスと似ている感じに、
わたしはこの人(今西錦司)、好きだなあと思った。
一種の諦め、というかね。
仏教でも四諦ってあるよね。
ええ内容については一切記憶していないけど、ここで遣われる「諦」という文字はそのまま、
諦め、とも違って、明ら目、とでもいうのかな。
よく悟ってるね、とか、
達観しているね、とか、
なんだろうな、
そんなふうに他人のことを揶揄する感じってあるけど、
これって要するに、あなたはこのゲームに参加しないんだね、というニュアンスが近いと思うんだよ、揶揄する側からすれば。
それで答えから言えば、うん、参加しないよってことだと思うの。
まあ無理矢理感がハンパないがいったん纏めると、それが「ズレ」であり、もっと踏み込めば「ズレへの容認」である。
ああ、わかった。
わたしの危うさは、人に対する危うさとして、すぐに反映されてしまう。
わたしはとても強いものを持っている。
これは曰く言い難いのだけど、ともかくそうだ。
強いなんて実に相対的な表現だし、それでいい、んだけど、
ともかく、しかもそれを、怖れている。
わたしが持っている強大な力をわたし自身が怖れている。
これは、なにもわたしだけじゃなくて、皆がそうであるところのもの、だけど。
意識するせざるを問わずね。
サル学の中で面白いと思ったのは、
動物は競争しないってところだね。
限られた空間、人為的に囲い込まれた空間においてならば、サルも必要にかられて争うが、
本来自然の中で過ごしている彼らは競争なんてことはしない。
むしろ争いを避けて「すみわけ」をしている。
長らく(といっても彼の本の発刊が1986年とかそんなのだけど)サルにはボスザルがいて、群れを統率している、という流説があたりまえになっていたけど、
フィールドワークしてみたら、ボスなんていない、ということしかわからなかった。
群れが移動するときには、ボスが率先してこっちへ行くぜというような指針が基になっているわけじゃなくて、
ただ「なんとなく」、「多数の原理」によって移動しているのだと。
多数の原理。
深いね。深いよ。
わたしはそれでふと思うのだけど、この「多数の原理」に逆らう人だったんだなと。
自然回帰しよう、とか、そうでもいいけど、そうでもなくて、
いったい多数の原理がナンボのもんなのじゃ、という立場を固持したい人であったというふうに思いますがどうだろう。
まあ、なんだろうな。パパの寛解、これは大きい。
このズレね、
ズレは常に感じる。
それが個であるということだと思うんだよね。
個って何かっていうと、肉体であり我でありエゴであり、
究極的には「今、ここを生きている」という実際である、と思う。
このことは何人たりと逃れようがない。
わたしたちは個である。
限定的に個である。
「自発的隷従論」なんてもう何百年も前に書かれた本だけど、ジャケ買い、
もといタイトル買いしちゃうんだよ、
ちゃんと読んでないんだけどさ。
*
「自発的隷従論」はフランス革命の頃に書かれた。
お、なんだなんだ、懐かしいぞ、これは知っているぞという感覚。
わたしの考える愚かさとは、「知った気になる」ということにまず要約できるかと思う。
OSHOが好きなんだけど、OSHOの子供時代の言動が実に糞生意気だと言っているわたしもまた糞生意気なのだが、
お母さんに、どこへ行っていたのかと心配した、と言われて、
「どこへ行ったかですって?神のもとへいる以外にないでしょう」
と答えた子供時代のイエス・キリストも大概だと感じたのに似ている。
まあでもわかる。
わかる、この感じがどこから来るものなのか、本当に不思議に思う。
瞑想するとすごいことがいっぱいわかるよっていうのも、わかる。
でもしないの。
これはまるでまだ眠っていたいというのがぴったり来る。
そう、わたしはまだもうちょっと眠っていたい。
「悟り」も、悟って何になるだろうと思う。
というか、実際のところすでに悟っている。誰でも。
わたしは「悟る」ために生まれてきたわけじゃない。
遊びに来たの。
この毎日、毎瞬をただ遊びに来た、楽しむために来た。
パパについて補足すると、
件の居酒屋の常連で、
同い歳のYさんが、Rさんの持ってきたコスプレを着てウケを狙うポーズを取りサービスしていたのを見て、
「以前の俺を見ているよう」だと言った。
いや、それは違うよ、Yさんは決して「以前の俺」ではない。
同一人物ではないからだというと、そりゃあたりまえだということになるが、
敢えて言うならばこういう「誤り」をとかく人はやってしまいがちだ。
そして愚かさとはこういうことだと思う。
他者が他者として存在することを、実は「わかって」いない、
他者とは自己の投影である、ということを「わかって」いない。
そうして「罪」や「過ち」はどこまでも自分の手から、実にあっさりと零れ落ちてしまう。
自分を罰するより他者を罰した方がまだ「マシ」だが、所詮「マシ」である程度に過ぎない。
そこじゃない。
他者を許せないひとは、実のところ、自分を許せていない。
他者に委託しているもの(他者への非難・批判)とは、受け容れきれない自己そのものである。
要するに自分の問題であって、彼の問題ではない。
そうやって、一瞬自分を振り返ってはすぐよそを見る、という、もう「癖」だな。
あらゆる人は実際には「悟って」いるし、目覚めたことがない人はいない、
でもまたすぐに「夢」の世界へと埋没する。
起きているのはほんの一瞬だ。
他者に対する哀れみとは実際には、自己に対する哀れみである。
「可哀相」なのは彼ではなく、自分自身である。
自分を許せない、自分をまるごと受け容れることが出来ないというのは、断言してしまうと、「病」そのものだ。
そしてほとんどあらゆる人々があらゆる場所において、この「病」に冒されている。
わたしもまた完全に冒されていない、とは言えない。
だから、「わかる」のだろうと思う。
同じ病を持つ者として、他者の病を類推している。
肉体に宿っている以上、ある程度仕方がないことなのだろうと思う。
思うがちょっと歯痒いね。
まあ、「病」でもいいし、「癖」でもいい。
同じだ、似たようなものとしておいて構わないだろ。
重要なのは、一瞬でも「気づき」をその手にした、ということだ。
それがたちどころに手から零れ落ちてしまったからといって、嘆くことはない。
重要なのは、パパが「自分は無理をしていた」と思えたことだ。
「Yさんも無理をしている」と思えたことではない。
それは余計であり、過剰であり、
行き過ぎだ。
バランスを取るのは難しい。
それは惰性では、
惰性でも不可能ではないし惰性で皆バランスを取って生きているけど、
なんていうかな、
10センチの幅を歩くのに目を瞑ってはなかなか難しいが、それが5センチならばなおさら難しい、でも10メートル、あるいは1キロも幅があればそもそも踏み外すことの方が難しい。
惰性でバランスを取らないこと、
これは10センチを5センチに、さらには1センチにしていくような作業であると言えるかと思う。
これは目には見えない。
物質的な喩えを用いたが、物質的なことについて指摘しているわけじゃない。
まあでもよかったじゃありませんか。
友人Tちゃんにも今日、話したら、よかったねと言ってくれた。
いやほんと、よかったっす。
人が鏡であるということは、人が解放感を味わえたときには自分まで解放感を味わえるということだ。
ミラーニューロンだ。
脳内で相手の動きを再現している。
カタルシスは、自分の体験を再現することによって共有できる、と言える。
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