皆、神様だけど、皆パラレル。統合される日は来るのか。

 調べものをしすぎて頭がパンクしそう。
 頭がいらいら・イガイガしてきている。
 
 一つ思うのは確かに、変化の時期なんだなあということだ。
 変化の度合いはどんどん加速していっている。
 ピークを超え、緩やかになっていっている、という感じはしない。
 どんどん目が回りそうになる。
 
シリウス超医学」
「かみさまは小学五年生」
「あなたのなかのやんちゃな神様とつきあう方法」
「I真実と主観性」
 他にもいろいろあるがともかく、これらを読んで、
 
 わたしたちは皆神様です。
 わたしたちは神様の分け御霊です。
 と、わたしは思っている。
 だから神様っていうのが完全に自分の外側にいて、それを崇め奉るとか畏れる、というのは違うという感覚はあって、
 どれだけ見えにくかろうが、感じ取りにくかろうが、
 要するに源は一つであるというか、
 もちろんそんなことは感覚的にはわからないとしか言いようがないほど、
 
 なんていうか、たとえばわたしやあなたが、いきなり深海二千メートルにワープして、わあ感動、ってなるかといえばならない、
 死んじゃう、怖い、気圧の変化に対応できない、
 
 宇宙の真空(真空じゃないらしいが)に放り出されたとしたら、というのも同じことだ、
 
 つまり、それは想像を絶するし、対応しようもない、というほど途方もないことではあるが、
 ともかく源は一つであるということを、思う。
 一つっていうか、
 なんだろうなあ、
 目には見えない共通基盤は確かにあると思うんだよ。
 それは一つじゃないかもしれないけど。

 と思ったのは、
シリウス超医学」で、わたしたちはそれぞれの宇宙から、いまいるところにダウンロードできる情報があるというような、記述を読んで、
 
 それぞれの宇宙??

 いやそういえばたしかに、宇宙自体パラレルワールドだって誰かが言っていたなあ。
 と思ったときにふと、
 なるほど、
 神様っていったって、それぞれなんだなあというか、
 人間がそれぞれであるように神様もそれぞれなんだというか。
 
 だから、「かみさまは小学五年生」と「やんちゃな神様」のレビューに目を通してみると、
 批判的なものもけっこうある。
 その批判的なものの一つとして、
 神様を名乗るなんておこがましい(あるいは頭がおかしい)、という主張がある。
 そんなふうに感じるひとは、たぶん、
 神様は(自分・たちの)外側にある、ということを信じている。
 
 神性は自分の内部にはないものと思っている。
 それが、なぜそうなのかは知らないんだけれども、わたしは。
 そりゃわたしは彼ではないしわからないや。
 とまでしか言えない。
 
「やんちゃな神様」に怒っているひとのなかに、
 不倫をしていても心が満たされていて配偶者に優しくできるひとは「良く」て、不倫をされて嫉妬や憎しみを感じる配偶者は「悪い」というような箇所があり、
 いや、良いとか悪いとかは言ってなかったが、じゃあどういう感じだったかは思い出せないのだが、まあそんなようなニュアンス、
 について取り上げて怒っているひとがいて、まあ、そうだなあ、
 それはやっぱり気になるよなあと思った。
 
 わたしは初読で、あっそうだよね、と思ったんだけど、
 なんだそれ意味わからない、おかしいでしょ、と怒るひとがいることは、
 そうか、と思う。
 いやもうそういう人は、いますね。
 
 なんかのサイエンスニュースで、いじめた人間はいじめられた人間より免疫力が高い、だったかな、
 なんかそういう記事があったのを思い出した。
 うーーん、びみょーだなあ、でも、あるかもしれないね、と思った。
 どんな事実でも、語られ方によって、反発を招くこともあれば、受け容れられることもある。
 ニュースによるこの語られ方は微妙だが、まったくの嘘でたらめでもないな、とわたしは思った。
 
 わたしはいじめに関しては、実体験をもって語るということは出来ないが(こいつ、向こう見ずにもわたしに攻撃してきやがったな、断固圧殺するぜ、と感じた経験くらいはあるが・もちろん物理的に殺してなどいませんが)、
 仮にいじめる人間が、いじめたつもりでいたとしても、いじめられたとされる人間が、そうとは受け取らない場合もある。
 そんな場合、いじめは成立していないというか、いじめられたとされる側に、いじめられたという事実・認識はない。
 というわけで彼はいじめられてはいない。
 
 ところが、たしかにいじめられたと受け取る人間はいて、
 そうすると、どうなるか。
 
 という話。

 これはどういうことかというと、
 いじめを受け容れる、いじめをいじめられた(傷ついた)という事実として、受け容れる、ということは、
 こういう言い方はそれこそ反発を招くのかもしれないが、
 自傷行為にも等しいという面がある。
 
 わたしはずっと昔から、そりゃ違うだろうと思うことがある。
 たとえばいわゆる知的障害者が、「レイプ」されました、その親族が訴えましたっていうやつ。
 いや本人はそうは受け取っていないんだから、周りが傷物にされたって、被害を蒙ったって騒ぐのはおかしいだろうと思う。
 
 個人を尊重していない。
 それがどんな個人であれ、どんな個性であれ、それ自体、かけがえのない唯一無二の存在としての、経験を尊重していない、と思う。
 
 誰であれおのれの許可なしに侵害されるということはない。
 おのれの許可なしに、傷つくことはない。
 誰であれ。
 
 相手任せにすることの(させることの)、損害は計り知れないものがある。

 あなたは彼と同じことを経験したときに確かに傷つくのかもしれない、怒りを覚えるかもしれない、そうした経験を受け容れることを断固として拒絶するのかもしれない、
 でも、彼がそうであるかどうか、どんな選択をするかは、彼自身が決めることだ。
 自分が痛む経験を、彼や誰か他人に当て嵌めて、君は不当な行為をされている、と怒る必要はない。
 あなたはあなた自身に起きたことをもってしか、怒る権利はない。

 これはわたしの経験だ。
 友人が、わたしからすればあきらかに、親から虐待されている、と思えるということがあった。
 わたしはまったく自分自身の気持ちから、それは良くないことだ、と思った。
 そうして友人に働きかけていたけど、当の友人の口から、
 でもわたしの親はわたしを愛してくれている、と聞いたときに、
 いやあ、それはでも、という自分のわだかまりを凌駕して、
 ああ、そうか、そうだな、となんだか憑き物が落ちるように納得した。
 
 わたしからすればどう考えても、友人の親は愛することに長けてはいないし未熟だけれども、だからって、
 そこにも愛がある、と思う友人の気持ちを、わたしが否定する権利はないと感じた。
 そりゃわたし、エゴってものだぜ、と思った。

 また、性同一性障害とよばれている子と接したとき、
 わたしは知らなかった、男の子だと思っていた、実は女なんだ、どうしても関係が発展する前に言わなきゃと思って言った、と告白されたときに、
 咄嗟に感極まって泣いてしまったことがある。
 なぜ泣いたの?と後々聞かれたけど、うまくは答えられなかった。
 なんて大変なことを選んだんだろう、という思いだった。
 哀れみじゃない。
 なんという困難な道を選んだんだろう、と思うと。
 それは、それこそ、わたしからすればという地点にとどまることだが。
 感動したんだと思う。
 
 なんという険しい道を選んだんだろう、ある面、崇高ですらあるような。

 本人にそんな気はなかったんだけどさ。
 本人的には、自分が女ということには違和感しかない、男だとしか思えない、だからこうしてきた、というほどの認識しかない、という。
 
 いやそんなことを言い出せば、わたしだって、自分が女であるということにまったくなんていうか。
 違和感がないわけじゃない。
 かといって男かというと、いやそれも全然違いますというような、
 でもまあともかく身体が女なら女である方が抵抗は少ない、くらいの、なんだろうなあ、こだわりのなさでここまで来たというか。

 うん、だからわたしがじゃあそれに感化されることがあるかといえばないんだけど、
 ないけど、
 でもすごいなあって、感動するの。
 その感嘆を彼は受け取らないけどね。 

 

 あ、あと「集合意識」って不思議じゃないですか?

 何なんだろうなそれは。

「影響」みたいなものだよね。

 

 見えているものは「客観性」に支えられている。

 見えているものは、「集合意識」に支えられている。

 

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ビリー・ミリガンの主張は虚偽か。

「I/真実と主観性」面白いです。
 ふと読んでいて、ビリー・ミリガンを思い出した。
 ある人格は病に冒されているが、ある人物は病に冒されていない、ということがある。
 それがたとえば癌であったとしたら、ある人格のときには癌は消え、ある人格のときには癌は現れる、というようなことだとすれば、
 まったく人間っていうのは驚異的であるとしか言いようがない、という感動に打たれる。

 ビリー・ミリガンで印象的だったのは、スラヴ語を話す、だったかスラヴ訛りの英語を話す、だったか(そこ大事じゃん)忘れたが、
 ともかく、「本人」にはし得ないことをし、知りえないことを知っている、ということがあり、
 わたしが咄嗟に連想したのは、気づいたのは、
 あっやっぱり人類の根はつながっているんだな、ということだった。

 

 これはよく顕在意識と潜在意識の例としていわれることだが、
 海面上の陸地(顕在)と、海面下の海底(潜在)は、要するに陸続きだ。
 そこに本来断絶はない。
 ないのだが、人は、おのれが生存できる陸地(顕在)のみを見る傾向がある。
 
 ユングの集合意識、というのも連想する。

 また、ビリー・ミリガンで疑問に感ずるのは、いったい「人格」とは何なのだろうか、ということだ。
 多重人格ということでいったい殺人罪を逃れられるのか、否か、という争点が裁判ではあり、
 要するにその「殺人」を犯したのは「誰」なのか、
 
 それはもちろん、本人なんだよ。
 本人以外に誰がなしうるだろうか。
 でも、ここに、
 重大な問題がある。
 すなわち「本人」とは誰か、「何」かという問題が。
 
「本人」である、それは「記憶」の途切れることのない連続なのか。
 
 自己=記憶であるのか。

 

 ビリー・ミリガンの主張は虚偽なのか。
 これは確かにひろく見れば虚偽だ、虚偽ではあるが、
 この虚偽を暴ける人間はほとんどいない。
 なぜならその虚偽を暴いた瞬間、暴いた人間は自らも己自身の虚偽に立ち会わざるを得ない。
「自分」とは何か、という問題に直面せざるを得ない。
 
 それは確かに虚偽である。
 だが、それは我々の認識する、安寧できる現実を遥か超えたところにある虚偽である。

 これを虚偽と見抜いた人がいたとしても、この虚偽を「本人」に納得させられる人というのもおそらく、まあいない。

「彼」と同じ視点に立たなくてはそれはなしえない、

 なしえないし、それは、

 なんていうか、

 実に厄介な茨の道であるというよりない。

 

 多重人格だけが虚偽なのではなくて、統合されている人格を持っているように思える人だって虚偽の現実を生きている。

 彼らはそれを自身の自覚なしに暴く。

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「妄想がある」から苦しいのか、「妄想がない」から苦しいのか。

「どんな人でも自分の心の奥底に「自己治癒」の可能性を持っている」
「悩みの深い人は表現せざるを得ないものを持っている」

「人の心を打つような芸術は、表現せざるを得ない悩みを持った人によって創られるのだった」
 ところでふと思うに、OSHOはピカソの作品をして、これは吐瀉物だと言っていた。

さっき(前回の記事

non78sora.hatenadiary.jp)で)

 わたしは、被害者と加害者とは、同じ価値観の側面を分かち合っているのではないか、抱き合っているのではないか、と言ったけど、
 これは、同時性を持たない場合もある。
 これが、たとえば、DVなどで問題になるように、まったく密着している場合(閉鎖的・密室的)もあれば、
 そこまで関係性が緊密ではなくとも、あっと心を打たれる、場面もありうるわけだ、
 この際たとえば、この、河合氏はもうこの世の人ではないが、こうしてわたしが彼の発言に心打たれるように。
 いやこれはわたしが、かれが、加害者であり被害者でありということではなくて、なんだろう、響くということについて。

「妄想の人にその薬をのましたら、妄想がなくなっていくことがわかっています。そのかわり、ひょっとしたら、その人は妄想がないために、すごく苦しんでいるかもわからない」

 (以上、括弧内は「心理療法個人授業」より抜粋)

22:44 2018/09/30
 妄想がないためにすごく苦しんでいる・かどうか、
 それは、
 ひとつの同情というか、憐憫というか、洞察として、
 ひじょうに捨て置けない、というより尊いとさえ感じられる心情である。

 それはつまり、根源的な治癒とは何か、に関わる問題でもある。
 
 林公一の「統合失調症」についての本を読んでいると、
 それは脳にアプローチする薬によって治るのだと、
 
 これは臨床結果による事実でもある、だがそれ以上のことを予測するならば倫理という平野に踏み込まざるを得ない、
 難しい問題であると思う。
 
 まあ、一つ思うのは、
 妄想がないために苦しむ、
 それはそれで事実かもしれないが、実感として本人に事実としてあるかもしれないが、
 傍から見れば、そうして本人からしてもおそらく、妄想の内容が変わってくれば、
 妄想がないために楽になる、ということだって実際多くある、とも言えるかと思う。

 妄想というのは、不思議だ。
 かつて、幽霊が見える人っていうのは統合失調症だと思えばいい、という記述を見て、
 いや、そうだけど、そうじゃない、と思ったのは、
 だいたいそもそも、誰だって、「見えている」ものというのは主観に拠っている、主観に拠らざるを得ない、ということであり、
 これは妄想だがこれは、妄想ではない、
 これは幻視だがこれは、幻視ではない、
 ということを、
 これはたいへん難しい問題だが、
 いったいどうやって「誰」が、
「わかる」というのだろうか。

 そこに「幽霊」や「幽霊の気配」とでもいうべきものが見えている、感ぜられるのと、
 そこに「人間」がいる、というのと、

 果たしていったい何がどう違うと言えるだろうか。

 同じじゃないか。
 いや、細かく言えば同じじゃないが、広く言えば同じなんじゃないか。
 そして、
 この「幽霊が見える人」というのは、じゃあ「幽霊」だけしか見えないのかと言えばそうではなく、「幽霊」も「幽霊でないもの」も見えているわけだ。
 
「見えている」ものは、主観に拠らざるを得ない、
 このことが、そもそも、「違う」んだろうなあ。
「見えている」ものは、主観だけではなく、「客観に支えられている」、
 いや、それは、否定はできない。
 
 わたしにはできない。
 ただ、
 なんだろう。

「密かな報酬」とでも言うべき。
 なんかがある、
 つまり、「客観に支えられている」ということには。
 

 残る、ということがある。
 それは、残る。
 痕跡がある。
 ふと思い出したのは、「Iわたし・真実と主観性」というホーキンズって、今日読んでいた人の本で、
 ティッシュボックスから立ち上がるティッシュの形の美しさ、というくだりがあった、
 なるほどそうだと思い、またなんでティッシュなんだとおかしく感じ、
 ところがこれは、時を隔てて読み返してみてもやっぱりそこには、たしかに、「ティシュ」と書いてある。(はずだ)
 ということがある。
 
 ところでこれは実に個人的に不思議なのだが、
 たしかに「火の鳥」であったと思う、
 犬の仮面の被った(被らせられた)主人公と、老婆、(いま確認したらそれは「太陽篇」であった)、
 ここで、老婆が、亀の甲占いをして、
「卦は常に正しい。ただ読む者が顕れた卦を読み間違えるということはある」
 というようなことを言った、という記憶がわたしにはあって、
 せんだって読み返してみたら、そんな場面はないんだよな。
 不思議だなあ。
 おそらく他の記憶と取り違えているのだろうとは思うが、
 じゃあいったいわたしはこれをどこで仕入れたんだろうか、ともはや謎でしかない。
 

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世界は存在しないのか、他者は存在しないのか。

心理療法個人授業」河合隼雄南伸坊
 を読んでいたら、
 自己臭症(自己臭恐怖症とも。自分の発する臭いが他人に迷惑をかけている、嫌がられているのに違いないという恐れを抱いて硬直してしまう)のくだりが気になったのでメモ。
 
 河合氏が臨床心理療法で、実際に患者と接していたときに、自己臭症に悩まされている人がいた。
 肝心の匂いについては何も話さないまま、彼の他の話を聞いているうちに、だんだんと良くなっているように思われていたが、あるとき、彼は顔を見せるなり、
「先生、ぼくの匂い、するでしょう」
 答えに窮して(匂う、というと嘘になる、匂わない、というと嘘つけ!と怒って返っちゃうかもしれん)、
 思い当たったのは前回の終了十分前から、次の予定のため急いでいたので話を親身に聞いていなかった、ということで、
 あっそうかとハッと気づいて、匂いがする・しないには答えず、すぐにそのことを謝った。
「こないだは悪かったなあ、実は急いでいたものだから」と、
 そうすると、
「ああ、そうですか」
 と言ってもう、ふつうに話をする。
 以下引用。
〈そういう人は、ぼくが真剣に聞いていないのわかっていても、先生、聞いてますか?とは絶対言えないんです。気の弱い人だから。
 だけど、怒りだけはものすごくある。その怒りが次に怒りとして、先生、前の回、10分聞いてなかったでしょう、と言えるくらいだったら、その人は治ってしまうわけです。
 ところが、そうでないから、何かしているうちに、むちゃくちゃ匂いがしてくるわけです。この匂いを河合さんに確かめることが第一だ、と思うわけです。
 考えたら、ぼくに対するすごい攻撃です。この時にすごく面白いのは、それで向こうが納得したという恰好にはならないことです〉
〈(南氏)面白いです。…しかし、このクライアントは、怒りを遠回しに表現してみたということでもないらしい。…だから、謝られて納得したとはならない。かといって、それとこれとは関係ない、とも言わない。実は関係があるんだけれども、それが明確にわかっていない〉

 いやあ、この叙述は実に興味深い。
 わたしは、「人を〈嫌う〉ということ」を思い出しました。
 そこで例として挙げられていたのは、
 クラスの子たちがからかってくる、先生もそのとき一緒になって笑った、ということを、根に持ってというとナンだが、
 傷ついてしまって、
 それで不登校になった生徒がいる。
 先生はそんなこととは思いもよらずに、なんで登校しないんだって心配して家庭訪問までする。
 そこでようやく、あの一件が「原因」なのだと知る。
 そして先生は平謝りに謝る。
 このことを取り上げて、著者の中島義道氏は、「なんという陰険」と生徒のことを表してして、わたしは、ごめん笑ったというか、
 いや、まあ、そうですねと思った。
 
 自己臭症の人とは違うし、
 違うのだが、
 
「被害者」になる、ということは。
 なんだろうなあ。
 それでいうと、自己臭症の人は「被害者」でもない。
 どちらかというと「加害者」を買って出るというか、加害者になることを極度に恐れるというか。
 ゆえに余計にややこしいところもある。
 狡猾というと語弊がありまくり、かもしれないが。

 傷というのは、本当に厄介なものだなあと思う。
 ホ・オポノポノ的に「デリート」すりゃいいんだと思う。
「他者」が存在する、ということが、そう信じることが、
 そうだとしか思えないことが、この問題を厄介にするんだと思う。
 
 今日そういえばふと梅田の本屋に入ったら、「なぜ世界は存在しないのか」を書いたマルクス・ガブリエルの特集を組んでいる雑誌が目に止まった。
 いや、読んでいないので知らないが、タイトルからしてわたしの抱く謎に関連するもののように思えなくもない。
 
 他者は存在しない、といおうが、世界は存在しない、といおうが、
 要するに同じようなことだ。
 そして実際のところ何もこれは、目新しい考えでも何でもない。
 目新しくはないが、ずっと蓋をされてきた。
 
 マルクス・ガブリエル、読んでみるかと思い立って、図書館で検索してみると予約が所蔵2件に対し48件だ、いつ読めるんだ、と思ってアマゾンを開いたついでにレビューを見てみると、
 もうレビューから難解にしてわからない。
 仏教で言われてることじゃん、と思うんだけど本人はそれについて触れてないんだよなあ、わからん、みたいな。
 でもこういうものがベストセラーになるっていうのは、(読んでないけど)
 いいんじゃないでしょうか。
 たぶん。

 なんともまとまりがないので一応まとめてみると、
 わたしは、加害者と被害者というのは、一つの価値観を相互に抱き合って成立しているものだと思っている。
 ここに、「これ」がある。
 わたしは「これ」を見ている、相手にも「これ」が見えている、よって「これ」は実在している、
 そういう前提で、「これ」に対する振る舞いを、
 いわば役割分担を、お互いが暗黙の了解というか、逃れ難き現実として、
 引き受けているのではないかな、と思っている。
 
「これ」は軽い喩えなら、ああそうだって笑い話にもなるようなことなんだ。
 でも、笑い話になんてとんでもない、というとき、
 まったく深刻になる。
 まったく硬直してしまう。
 それは頑なに沈み込んでしまう。

 

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「意思疎通の出来ない者」が「心失者」とはどういうことだろうか。相模原事件について。

 硬直している。
 障害が、硬直している。
 外を歩いているとたまに、ものすごい顔をした人がいる。
 この「ものすごい」はもう「ものすごい」ので、見慣れたらそうでもないかもしれないが、初見はぎょっとする。
 わたしはぎょっとするし、ぎょっとするのはわたしだけとは思わない。
 もちろん「全員」がぎょっとするなどとは思わない。
 そもそも「彼」が具体的に「全員」とどうやって出会うだろうかという「事実」上不可能なこととしてもそうである。
 たとえば、それは生まれつきの痣なのかもしれないし、一時的な皮膚の疾患なのかもしれない、というような顔。
 障害はこういうことに似ている。
 
 たいていのわたしたちは、自分を「普通」であると思い、「普通」というより要するに「自分」と異なる者を忌み嫌う、あるいは恐れる傾向がある。
 そこに緊張があり、硬直がある。
 身構えるんだ。
 たとえば、さっきの皮膚の疾患なのか生まれつきの痣なのかという顔を見ても、
 そういう顔を見慣れている人、たとえば皮膚科の医師とか、ならば、あれはこういう分類の何々だというふうに、「わかる」ものとして、そうそうぎょっとはしないかもしれない。
 つまり未分化のものが怖いし、敬遠される。
 それは「障害」なのか何なのか(支援すべきか税金を使っていいものかどうか)という、非常に境目が曖昧で決めにくいものもあれば、
 はっきりと「障害」であると認定されているものもある。
 具体的には、税金をあてるべきものとして、区分けされている。
 
 実に厄介だ。
 厄介というのは、「それ」は明らかに「目に見える」ようにされていることが。
 それで助かる人も多いのだろうから、こうした政策を一概に「悪」などとは言えないが、悪かどうかというようなことではないが、
 果たしてその「現実」設定は妥当なのかとわたしは思うのです。
 
 そもそも「普通」って何なのですか。
 といえば、こういうことだ、というようなガイドラインを国が決めてしまうのは、妥当なのかどうか。
 その内容が妥当かどうか、ということではなく、これが普通、これがスタンダード、これが健常、というような数値や概念を国が定めるということが、あっていいものだろうか。
 あっていいのかといっても、現にあるわけで、
 健康診断なんかへ行っても、数値を出して、あなたは「健康」です、あるいはちょっと心配な数値だから病院へ行きなさいというようなことをやるわけです。
 もうこれは良いか悪いかと問うこと自体が、ばかばかしく思えるような気がしてくるが、
 一息に結論すると、こんなものは「現実」ではない。
 だが多くの人にとってこれは「現実」である。
 この「現実」を土台にしている。
 わたしはその土台をひっくり返そうとしているので、
 何言ってんだ、馬鹿な、非現実的な、という反応が返ってくるのは、ある意味当然です。
 そういう意味で厄介だと言っている。
「障害」とされている人たち自体が厄介な存在だ、と言っているわけではない。
 
 相模原君(名前じゃなかった)は馬鹿だと思う。
 いや、馬鹿なのは彼だけではないのだが。
 硬直している。
 彼のいう「生きている価値がない」「障害者」とは、
「意思疎通の出来ない者」であり、「心失者」であるのだが、
 これは要するに、
「彼」とは意思疎通出来ない者であり、「彼」からすれば心を失っているように「見える」者である。
 そしてこれを、彼は、自分だけじゃないはずだろう、というわけだ。
 あなただって、本当はそう思っているんだろうと。
 それでハッとさせられる人もいるのだろうが、
 あるいは共感する人もいるのだろうが、
 あるいはまた道徳観念からこれをまったく退ける人もいるのだろうが、
 
 騙されてはいけない。
 いやこれはまったく誤解しか生まないな。

「他者」(自分とは異なる者・自分と意思疎通の出来ない者)が疎ましく恐ろしく煩わしく、つまり悩みの種であるのは、なにも彼一人じゃない。
 而して「自分」もまた他の誰かにとっての「他者」である。
 
 友人が共感できる、としたのは、
 そうして滅びてもいい側、にもし彼が立ったとしたら彼は潔く滅びるのだろう、だとすれば、
 というのだが、これはどうだろう。
 二つの意味でどうだろう、と思う。
 一つには、彼は「自分」が「心失者」になることをまったく想定していないように思える点。
 二つめは、
 そもそもなぜ滅びてもいい者が存在している、と思えるのかという点だ。
 
 一つめの点については、自分が心失する、ということは、なんていうかありえないこと、じゃないですかね。
 つまり自分が自分と意思疎通がかなわない、ということなどあるだろうか。
 自分が他の誰とも、意思疎通がかなわない、ということはあったとしても、自分が自分と?
 いや、自分(の心)は「ある」と思っているだろう。
 もし「ない」と思うのならそれこそは、「覚醒」である。
「ない」と思えるのなら、すべての苦から解放される。
 すべての不条理から解放されるのであって、すべてをただ受容できるのであって、ここに、これはあってもいい、これはなくていい、などという狭い硬直した子供じみた発想はもはや存在し得ない。
 それはただ持ちきれない。

 

news.yahoo.co.jp

持たざる者の気持ちが君にはわからないんだ(『バナナ・フィッシュ』#12 英ちゃんのセリフより)

 アマゾンプライムビデオで毎週配信される「バナナ・フィッシュ」を観ている。
 
 で、その「バナナ・フィッシュ」の今週話(#12・持つと持たぬと)で、
 アッシュが命乞いをする者をまで殺しているというニュース(そんなのニュースになるのかね)を英二が知り、
 英二  「君は才能にめぐまれている。持たざる者の気持ちなんてわからないんだ」
 アッシュ「殺しの才能か?」
 英二  「なんでそんな言い方するんだよ」
 というくだりがある。
 この文脈なら、殺しの才能か?と受答えするのが自然だと思うのだが。
 むしろ殺しを咎める流れからいきなり「才能」というフレーズが出てくる英二のセリフに不自然さを感じる。
 ともかく、
「持たざる者の気持ちなんて君にはわからないんだ」には、まいった。
 はるか昔に読んだ原作でどんなシーンだったのかは忘れたが、
 アッシュも家を出て行きながら、
「おまえには俺の気持ちがわかるっていうのかよ」と捨てゼリフを残すわけだが、
 つまり、そっちがメインなのだろうが、
「才能なんてほしいと思ったことはない」とまで後押ししているし、
 アッシュがほしいのは、
 すべて(というか優れた頭脳と秀でた容姿、図抜けた殺傷能力という恵まれた素質)を持っているように見えるアッシュが本当にほしいもの、とは、
 という流れなんだが。
 そっちがメインなんだからそれを引き出すための伏線にケチをつけるのもどうか、と思うが、
 伏線でコケちゃダメじゃんか、という気もする。
 
「持たざる者の気持ちなんて君にはわからない」
 というこの気持ちがわたしにはわからないというか、唯一わかるとすれば、
 前にも書いたが、man is,を「男は」、と訳すより「人間は」、と訳す方が自然だというような文章を見るようなときだ。
 いまどき英語がどんなふうであるのが主流なのかは知らないが。

 と思って調べたら最近じゃmanを人間の代わりにつかわずpersonをつかう?
 でもmanはもともと人って意味で、のちに、人ってのは男、それもすべての男ってわけでもなく、たとえば資産を持つヨーロッパ系白人男性のこと、というふうに変化してきた経緯がある、という考察を知った。
 なるほど。
 manは本来、人間の意味だが、次第に男としての意味合いが強くなり、今度は男という意味が強いからダメってことになって、manが廃れてみる、という経緯があるらしい。
 
 基本的に女は他者扱いだという、なんだ、なんかが現代においてなおもあり、
 ごくナチュラルに男はそれに気づかない、まったく無意識であるというとき、
 思いもよらぬ疎外感を女は味わう、ということがある。
 これは女(わたし)にとってある意味、衝撃であり発見である。
 あっ自分は世界の主人公かと(それこそ無意識に)思っていたらそうじゃなかったんですって?みたいな。
 こういう疎外感は別に、女には必ずあって男には必然的にないもの、というわけじゃなくて、
 どういうシチュエイションであってもありうる「発見」だと思うんだよね。
 人間誰しも幼いときには、幼児的全能感とでもいうべき「自分が世界の主人公」であることを疑わない、無意識にそうである状態に気づかない、ということがある。
 ところが生きていくにつれ、「他者」の口から自分自身の位置付けというものを聞かされることになる。
 その「他者」の第一号は身近な大人、たいていは親である。

  いやむしろ、近所の大人とか、祖父母とか、幼稚園の先生とかかもしれないが。


 男は「疎外感」を味わうことがないかといえば、そんなことはない。
 人間生きていたら「疎外感」を味わう(敢えていいますが恵まれた)瞬間には実際事欠かない。
 ただ、
 まあ強いていうなら、男と女という一対においては、
 女の方が男よりも疎外感に気づきやすい、ということはあると思います。

 

(あっでも昨日の今日で編集していて思ったけど、

 産まれてまもなく自分の身近にいる大人、この際まあたいていは母親、というか女性であるとして、

 そうだとすれば、男の方が、あれっと違和感・疎外感を覚えるのは早い、のかもしれないなあ。つまり、「他者の性」を感じるのはということだが。

 女の子からすれば母親は同性だが、男の子からすれば母親は異性である。)

 
 ところで、この「疎外感」がイコール「劣等感」であるかどうか、というと、もちろんここはイコールではない。
 ないのだが、それに近いものは程度によるが人は結び付けやすいのかもしれない。
 でも、よくよく落ち着いて考えたらイコールではない。
 ここをよくよく落ち着いて考えられない状態というのは、要するに、
「自分は世界の主人公」だと無意識に思っていたことを、意識すると同時に主人公ではないと知らされ、喪失感にも似た落胆、がっかりを味わい、失望と哀しみの中に立ちすくむ、というようなことだ。
 (主人公が絶対だという思いをまだ知らず持っている状態だ)
 知らず知らず持っていた万能感を剥ぎ取られたように思った瞬間、
 恐れや萎縮、失望、何なら哀しみを感じる。
 
 他にも表現はあろうが、実感は異なろうが、まあ、類するものを感じるとしましょうや。
 でもこれを即座に劣等感と結びつけて固く固く握り締める必要はないとしか思えない。
 脇役だっていいじゃないか、というようなことではなくてですね。
 いや、脇役だっていいじゃないか、でも構わないんだけどさ。
 
 なんだろうな、世界の主人公は一人だと思っていたら、その一人しかいない主人公は自分じゃなかったと思えばそりゃショックだぜ。
 でもよくよく落ち着いて考えてみな、世界の主人公は実際のところ一人じゃない。
 だいたい、主人公というからにはそこに確かに「劇」的なものがなければならない、しかしその「劇」とは彼にとってのみ意味を持つ、実感あるものではないのか?


 (ふと思ったけど「彼」ってのはmanに近いかな。わたしはここで彼といったからって「男」と限定しているわけじゃないが、ここを「彼女」と表記するとそれこそ限定的になってしまう)

 彼にとってのみ意味がある、とは言わないが、
 彼によってはじめて意味を与えられるものではないか?
 
「持たざる者の気持ちが君にはわからない」
 これをまっとうな非難であると出来る、その根拠、その背景、その信念がわたしにとっては、
 なんていうかもはや、脅威である。驚異を通り越して脅威だ。
 
 たしかにフロイトであったと思うが、
 女児はペニスがないことによって劣等感を感ずる、みたいなことを平気で書いてあったのを読んだときに、わたしは引いたわ。
 えっいや全然まったく、そんなもの欲しいと思ったこともないんだけどな、と。

 むしろ女(わたし)からすればペニスがあるってことが「他者」(自分とは異なる者)である。

 何を勝手にというか無自覚にというか、天然にというか、 (幼児的自己中心思想によって)

 ペニスがあることを「人間」のスタンダードにしてるんだよという、びっくりだ。

(そういえばわたしは子供の頃、おしっこなんか、親指の先から出てしまえばいいのになあと思ったことがある。いちいちトイレという個室へこもって排出しなきゃならないことが面倒臭かったのだ。これ、わかるひといるかなあ。もちろんそこには具体的に性器、抽象的に性に対する面倒臭さをも含むのだが)


 それでいうなら、
 それにならうなら、
 男は子供を産めないことにそもそも劣等感がある、
 と平気で断言してご満悦の神経と変わりがない。
 つまり「それ」は劣っていると決め付ける姿勢としてね。
 
 持たざる者の気持ちが君にはわからない、
 とはいわば、
 なんていうか、ルサンチマン、怨嗟、
 要するに僻みというか、
 相手を優れたものに据えて、片や自分を劣ったものにして、憤懣(か悲哀か知らないが)によって相手を責める、
 その根底にあるのは、相手自身の優劣観ではなくて、自分自身のそれである。
 まさに投影。

 ところで英ちゃんの真意とは「人を殺すことで君が傷つくことになるからやめて欲しい」だとわたしは思うのだが、

 だからなぜここで「恵まれた才能」って言葉がぽっと出てくるのかは悩ましいところ。

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 付録。

 わたしは吉田秋生のマンガでは、「カリフォルニア物語」が好きだった。

 あの暗さ。

 あの巻き毛の男の子が死んだシーンは衝撃的だった。

 まじで?殺しちゃうの?というか、

 本当にリアルに死んでしまった、ということが伝わるような、

 それこそ自分の友人・知人が死んでしまった、というほどのショックがそこにはあった。

吉祥天女」も良かったです、好きだった。

 もうこういう話で「女」を主人公に据えているという時点で好きだった。

 あと「桜の園」も良かった。

 演劇部の部長(女)が、部員の女っぽくない同級生の女に告白をするシーン(というか女子高なので学校内には女しかいないのだが)。

 

 (男のような女)「なんでわたしって自分のことが嫌いなのかなあ」

 (部長・女)  「わたしは、好きよ」

 (男のような女)「えっ」

 (部長・女)  「わたしは、あなたのこと好きよ」

 

 というシーンが好きというか、どうも堪えきれず泣けてしまった。

 男のような女とか部長とか言っちゃってごめん、どうしても名前が出てこねーや。

 

 ここには限りない優しさがあった、

 わたしはそれが好きだった。

 

この広大無辺の宇宙に、同じものは二つとしていらない。

 hi、こんにちは。

 昨日書いたものがパソコンの不調から保存できず、すっかり消えてしまったのがショックだが、
 めっちゃいいこと書いたはずなのに!なら、
 もう一回めっちゃいいことを最初からさせてあげるよ!めっちゃ面白いミステリをもう一回何も知らなかったことにして読めるみたいなもんだよ、ラッキーだね!かも知れない(ありがたいのか、ありがたくないのか、マジ躊躇するところだが)と思ってみようか。

 最近ハマっているのは、ホ・オポノポノです。
 はい、昨日も確か書きましたがね。
〈記憶をデリート〉、これがツボる。ハマる。なんか素敵。
 100%自分に責任がありますという宣言は、以前にも書いたと思うが、
 これほど力強い宣言はないよな、とわたしはやや興奮気味に感じる。

 というわけで、続(わたしのなかで)・ホ・オポノポノ「豊かに成功するホ・オポノポノ」を読んでみた。
 いやもうデリートが頭から離れないのだが、
 巻末の韓国人女性の手記と、インタビュアー河合政実さんの障害をかかえた兄に関する手記が、いいね。
 あと、緑のカエデの葉と、ブルー・ソーラー・ウォーターと、アイスブルーもいいね。
 あ、あと、二度読んで二度とも笑ってしまったのが、
 感情をこめなくていいのですか?に対して、
 こめなくてかまいません、パソコンのデリートボタンを押すときに、泣きながら押したり、よし押すぞと力を込めたりしなくても、押すことによる結果は変わりません、押せばただ消えますよね、というのもいいね。

 毎秒1100万ビットもの情報が立ち上がっているが、あなたが拾えるのはたった15ビットである、というのもいいね。
 
 そのたった15ビットにしがみついている蚤なのだ、われわれ。
 この際われわれ、というのは、
 顕在意識やエゴと言い換えても構わない。
 
 昨日友人からも返信があったんだよ、そんでそのこともいっぱい書いたように思うんだよ、でも、まあいいや、
 林公一のQ&Aの秀逸な相談者【1560】についても、まあいいや。

 くだんの友人からよく、あなたは強いからって言われるんだよね。

 あなたは強いからいいけど、皆そんなに強くないんだからさって。
 これがわたしには違和感があって、
 自分ははたしていったい、「強い」んだろうか、と奇妙に思うのだ。
 自分を弱い、と思うこともないが、強い、と思うこともまたなく、
 いったいあなたの言う「強い」、が何をいわんとしているのか、ということが逆に不思議になる。
 いや、だいたいは予測できるんだけど、この、強い、というそれこそ頑強な表現による「何か」、をどう客観的に換言すればいいのか。
 わたしは自分を強いというよりも、明晰である(明晰でありたい)と感じている。
 と思ったことがあるのを、
 本を読んでいると、明晰性が大事なんだぜ、というくだりがあってふと思い出した。

 合理的であるってことは確かに便利なステップなんだよ。
 便利なステップであり手がかりである。
 合理的であるってことは、オプションとして実に優秀だと思う。
 オプション、あるいは機能あるいはアプリとして。
 超使えるアプリ!みたいなもんだ、合理的であるってことはね。

 他者の気持ちが百パーセントわかる、ということはありえないね。
 ありえたらそれはもはや、他者とは言えないじゃないか。
 この広大無辺の宇宙に、同じものは二ついらない。
 おんなじものは、二つたりとも、いらない。
 クローンなんて人間の馬鹿で不明瞭な思考が生み出した幻想にすぎないね。
 そんなものはそもそも存在しない。
 存在するとしたら、
 それは、もはや、クローンではないんだよ。
 
 あなたは、唯一無二の存在であり、存在しているからにはもう、存在していることを受け容れるしかないんだよ。
 

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