「意思疎通の出来ない者」が「心失者」とはどういうことだろうか。相模原事件について。

 硬直している。
 障害が、硬直している。
 外を歩いているとたまに、ものすごい顔をした人がいる。
 この「ものすごい」はもう「ものすごい」ので、見慣れたらそうでもないかもしれないが、初見はぎょっとする。
 わたしはぎょっとするし、ぎょっとするのはわたしだけとは思わない。
 もちろん「全員」がぎょっとするなどとは思わない。
 そもそも「彼」が具体的に「全員」とどうやって出会うだろうかという「事実」上不可能なこととしてもそうである。
 たとえば、それは生まれつきの痣なのかもしれないし、一時的な皮膚の疾患なのかもしれない、というような顔。
 障害はこういうことに似ている。
 
 たいていのわたしたちは、自分を「普通」であると思い、「普通」というより要するに「自分」と異なる者を忌み嫌う、あるいは恐れる傾向がある。
 そこに緊張があり、硬直がある。
 身構えるんだ。
 たとえば、さっきの皮膚の疾患なのか生まれつきの痣なのかという顔を見ても、
 そういう顔を見慣れている人、たとえば皮膚科の医師とか、ならば、あれはこういう分類の何々だというふうに、「わかる」ものとして、そうそうぎょっとはしないかもしれない。
 つまり未分化のものが怖いし、敬遠される。
 それは「障害」なのか何なのか(支援すべきか税金を使っていいものかどうか)という、非常に境目が曖昧で決めにくいものもあれば、
 はっきりと「障害」であると認定されているものもある。
 具体的には、税金をあてるべきものとして、区分けされている。
 
 実に厄介だ。
 厄介というのは、「それ」は明らかに「目に見える」ようにされていることが。
 それで助かる人も多いのだろうから、こうした政策を一概に「悪」などとは言えないが、悪かどうかというようなことではないが、
 果たしてその「現実」設定は妥当なのかとわたしは思うのです。
 
 そもそも「普通」って何なのですか。
 といえば、こういうことだ、というようなガイドラインを国が決めてしまうのは、妥当なのかどうか。
 その内容が妥当かどうか、ということではなく、これが普通、これがスタンダード、これが健常、というような数値や概念を国が定めるということが、あっていいものだろうか。
 あっていいのかといっても、現にあるわけで、
 健康診断なんかへ行っても、数値を出して、あなたは「健康」です、あるいはちょっと心配な数値だから病院へ行きなさいというようなことをやるわけです。
 もうこれは良いか悪いかと問うこと自体が、ばかばかしく思えるような気がしてくるが、
 一息に結論すると、こんなものは「現実」ではない。
 だが多くの人にとってこれは「現実」である。
 この「現実」を土台にしている。
 わたしはその土台をひっくり返そうとしているので、
 何言ってんだ、馬鹿な、非現実的な、という反応が返ってくるのは、ある意味当然です。
 そういう意味で厄介だと言っている。
「障害」とされている人たち自体が厄介な存在だ、と言っているわけではない。
 
 相模原君(名前じゃなかった)は馬鹿だと思う。
 いや、馬鹿なのは彼だけではないのだが。
 硬直している。
 彼のいう「生きている価値がない」「障害者」とは、
「意思疎通の出来ない者」であり、「心失者」であるのだが、
 これは要するに、
「彼」とは意思疎通出来ない者であり、「彼」からすれば心を失っているように「見える」者である。
 そしてこれを、彼は、自分だけじゃないはずだろう、というわけだ。
 あなただって、本当はそう思っているんだろうと。
 それでハッとさせられる人もいるのだろうが、
 あるいは共感する人もいるのだろうが、
 あるいはまた道徳観念からこれをまったく退ける人もいるのだろうが、
 
 騙されてはいけない。
 いやこれはまったく誤解しか生まないな。

「他者」(自分とは異なる者・自分と意思疎通の出来ない者)が疎ましく恐ろしく煩わしく、つまり悩みの種であるのは、なにも彼一人じゃない。
 而して「自分」もまた他の誰かにとっての「他者」である。
 
 友人が共感できる、としたのは、
 そうして滅びてもいい側、にもし彼が立ったとしたら彼は潔く滅びるのだろう、だとすれば、
 というのだが、これはどうだろう。
 二つの意味でどうだろう、と思う。
 一つには、彼は「自分」が「心失者」になることをまったく想定していないように思える点。
 二つめは、
 そもそもなぜ滅びてもいい者が存在している、と思えるのかという点だ。
 
 一つめの点については、自分が心失する、ということは、なんていうかありえないこと、じゃないですかね。
 つまり自分が自分と意思疎通がかなわない、ということなどあるだろうか。
 自分が他の誰とも、意思疎通がかなわない、ということはあったとしても、自分が自分と?
 いや、自分(の心)は「ある」と思っているだろう。
 もし「ない」と思うのならそれこそは、「覚醒」である。
「ない」と思えるのなら、すべての苦から解放される。
 すべての不条理から解放されるのであって、すべてをただ受容できるのであって、ここに、これはあってもいい、これはなくていい、などという狭い硬直した子供じみた発想はもはや存在し得ない。
 それはただ持ちきれない。

 

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