世界は存在しないのか、他者は存在しないのか。

心理療法個人授業」河合隼雄南伸坊
 を読んでいたら、
 自己臭症(自己臭恐怖症とも。自分の発する臭いが他人に迷惑をかけている、嫌がられているのに違いないという恐れを抱いて硬直してしまう)のくだりが気になったのでメモ。
 
 河合氏が臨床心理療法で、実際に患者と接していたときに、自己臭症に悩まされている人がいた。
 肝心の匂いについては何も話さないまま、彼の他の話を聞いているうちに、だんだんと良くなっているように思われていたが、あるとき、彼は顔を見せるなり、
「先生、ぼくの匂い、するでしょう」
 答えに窮して(匂う、というと嘘になる、匂わない、というと嘘つけ!と怒って返っちゃうかもしれん)、
 思い当たったのは前回の終了十分前から、次の予定のため急いでいたので話を親身に聞いていなかった、ということで、
 あっそうかとハッと気づいて、匂いがする・しないには答えず、すぐにそのことを謝った。
「こないだは悪かったなあ、実は急いでいたものだから」と、
 そうすると、
「ああ、そうですか」
 と言ってもう、ふつうに話をする。
 以下引用。
〈そういう人は、ぼくが真剣に聞いていないのわかっていても、先生、聞いてますか?とは絶対言えないんです。気の弱い人だから。
 だけど、怒りだけはものすごくある。その怒りが次に怒りとして、先生、前の回、10分聞いてなかったでしょう、と言えるくらいだったら、その人は治ってしまうわけです。
 ところが、そうでないから、何かしているうちに、むちゃくちゃ匂いがしてくるわけです。この匂いを河合さんに確かめることが第一だ、と思うわけです。
 考えたら、ぼくに対するすごい攻撃です。この時にすごく面白いのは、それで向こうが納得したという恰好にはならないことです〉
〈(南氏)面白いです。…しかし、このクライアントは、怒りを遠回しに表現してみたということでもないらしい。…だから、謝られて納得したとはならない。かといって、それとこれとは関係ない、とも言わない。実は関係があるんだけれども、それが明確にわかっていない〉

 いやあ、この叙述は実に興味深い。
 わたしは、「人を〈嫌う〉ということ」を思い出しました。
 そこで例として挙げられていたのは、
 クラスの子たちがからかってくる、先生もそのとき一緒になって笑った、ということを、根に持ってというとナンだが、
 傷ついてしまって、
 それで不登校になった生徒がいる。
 先生はそんなこととは思いもよらずに、なんで登校しないんだって心配して家庭訪問までする。
 そこでようやく、あの一件が「原因」なのだと知る。
 そして先生は平謝りに謝る。
 このことを取り上げて、著者の中島義道氏は、「なんという陰険」と生徒のことを表してして、わたしは、ごめん笑ったというか、
 いや、まあ、そうですねと思った。
 
 自己臭症の人とは違うし、
 違うのだが、
 
「被害者」になる、ということは。
 なんだろうなあ。
 それでいうと、自己臭症の人は「被害者」でもない。
 どちらかというと「加害者」を買って出るというか、加害者になることを極度に恐れるというか。
 ゆえに余計にややこしいところもある。
 狡猾というと語弊がありまくり、かもしれないが。

 傷というのは、本当に厄介なものだなあと思う。
 ホ・オポノポノ的に「デリート」すりゃいいんだと思う。
「他者」が存在する、ということが、そう信じることが、
 そうだとしか思えないことが、この問題を厄介にするんだと思う。
 
 今日そういえばふと梅田の本屋に入ったら、「なぜ世界は存在しないのか」を書いたマルクス・ガブリエルの特集を組んでいる雑誌が目に止まった。
 いや、読んでいないので知らないが、タイトルからしてわたしの抱く謎に関連するもののように思えなくもない。
 
 他者は存在しない、といおうが、世界は存在しない、といおうが、
 要するに同じようなことだ。
 そして実際のところ何もこれは、目新しい考えでも何でもない。
 目新しくはないが、ずっと蓋をされてきた。
 
 マルクス・ガブリエル、読んでみるかと思い立って、図書館で検索してみると予約が所蔵2件に対し48件だ、いつ読めるんだ、と思ってアマゾンを開いたついでにレビューを見てみると、
 もうレビューから難解にしてわからない。
 仏教で言われてることじゃん、と思うんだけど本人はそれについて触れてないんだよなあ、わからん、みたいな。
 でもこういうものがベストセラーになるっていうのは、(読んでないけど)
 いいんじゃないでしょうか。
 たぶん。

 なんともまとまりがないので一応まとめてみると、
 わたしは、加害者と被害者というのは、一つの価値観を相互に抱き合って成立しているものだと思っている。
 ここに、「これ」がある。
 わたしは「これ」を見ている、相手にも「これ」が見えている、よって「これ」は実在している、
 そういう前提で、「これ」に対する振る舞いを、
 いわば役割分担を、お互いが暗黙の了解というか、逃れ難き現実として、
 引き受けているのではないかな、と思っている。
 
「これ」は軽い喩えなら、ああそうだって笑い話にもなるようなことなんだ。
 でも、笑い話になんてとんでもない、というとき、
 まったく深刻になる。
 まったく硬直してしまう。
 それは頑なに沈み込んでしまう。

 

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