わたしは「自分のしたいこと」しかする気はない。

 小学生のころに友達だった子から、高校生のとき大学受験など進路について話していたら、一方的な怒りを買ったことがある。
 彼女が真剣にまじめに努力して将来を考えているのに比べて、わたしがいかにもノウテンキでふまじめで、ふざけているように見えたのだろう、とわたしは彼女の怒りの原因をそう見ている。

 今日その子ではない友達にそうした昔話をしていると、彼女にもそういう経験はあって、彼女と一緒に怒られた友人は、怒ってきた人が「僻んでいるのだろう」と言っていた、という話をしてくれた。
 まあ、
 僻みでもいいですが、それはちょっと禍根を残すというか、
 ちょっと攻撃的であるというか、
 そうだよねー(笑)、という話ではない、という気がする。

 進路についてではないが、その後、今でも近しく付き合っている友人とまだ若い頃に、何の話の流れかは忘れたが、
 わたしは、「自分のしたいことしかする気はない」と言うと、
「そんなことでやっていけるはずがない」と怒られた。
 やりたくないことでもやらなければならないことがある。
 皆が自分のやりたいことだけをやっていたら世の中はめちゃくちゃになるではないか。
  
 これ、困る。
 皆が自分のやりたいことだけをやっていたら、世の中はめちゃくちゃになる、
 のだろうか。
 端的に言えば、そうは思わないけどなあ。
 これについては、以前どうしたわけかわたしの家に居候していた男の人、ともそんな話になって、
 じゃあ、誰が道路標識や信号を作るんや、信号作りたいやつなんておるか、
 と言われて、ゆきがかり上、おるよ、と返したが、なんだか笑ってしまった。
 皆が自分のしたいことをし、それが相互協力的な、相互扶助的な社会、世界において、はたして「信号機」があるかないかはわからないが、
 もしそれが必要ならば、それを建設したい人がちゃんといて、それをしているよ。
「信号作りたいやつなんているものか」
 これは多分に思いこみに満ちている。
 あなたはそうじゃない。
 だからあなたは信号を作らないだろう。
 でもあなたがしたくないこと、が誰にとってもしたくないこと、であるかどうかなど、どうして決定事項と言えるだろうか。
 
 ひとは自分に似た人を好む。
 自分とは異質なものを拒む。
 いやいや、そんなことないよ、というひとだって、じゃあ、顔が二つあるとか、第三の手が背中からも生えているという人、あるいはまたまったく意思の疎通が叶わないような精神状態が異質な者を、自分の伴侶や、生まれてきた子供として、抵抗を感じずに受け容れられるだろうか。
 ひとには許容範囲というものがある。
 その許容範囲とはもちろん人によって違うのだが、これは、
 わたしの意見だが、許容範囲が広いことによって自分が困るということはない、と思います。
 
 もちろん無理なものは無理、というのが「悪い」なんて思いません。
 無理なものは無理だ。
 ただそれで不自由を蒙るのは実際のところ、相手や他の誰か、ではなく自分自身であると思っている。
 それを不自由だなんて思わない人もいるかもしれないが。
 
 わたしが友人に言いたかったのは、
 わたしにも気の進まないことや、したくないこと、がないわけじゃないが、
 それでもどうしてもそれをしないわけにはいかない、と自分が思うのならば、それには必ず理由があり、自らの必要性にかられた要請があり、だとすれば、もうそれは自分がすると決めて選んだことなのだという気持ちで、それをしたい、
 したくないけど仕方なくするんだ、嫌々するんだ、というのは潔くない、
 もう自分がそれをしたいからするんだ、でいいじゃないか、ということだった。
 あとあと、そんなことを補足したら、言葉が足りない、と言われた。
 言葉が足りないですかね。

「言葉が足りない」問題は実にわたしにとって深刻である。

 しかし前言を撤回するようだが、「許容範囲が広くて困る」ことは実はあった、
 それはその「広さ」を非難されることがある、という事態によってだ。
 というのはつまり、冒頭へ戻るのだが、
 茫洋として広くゆったりと構えていると、
「あなたって人はなんでそうなの!」と怒られることがあるのだった。

 これを怒る側の僻みと言っていいのか、
 僻みと言ってしまえばそこの溝は永遠に埋まらないのではないか。

 たとえばわたしは家に戸締りをしないのだが、それを怒られるとまで言わないが、つくづく心配される、ということがあったりね。
 ああ、心配かけちゃ申し訳ないのかなあ、という気はちょっと、してくる。
 でも結論から言えばわたしは戸締りなんて「したい」と思えない。
 
 まったく話は変わるようだが、
 職場の人と何気なく話をしていたら、その人は結婚しているのだが、
 なんでもかんでも正直に言うやつって何なの、ということになった。
 それは、ちょっとした浮気心とか、実際の行為に及ぶような所謂不貞行為というか、
 そうした、言わなくてもいいことを一々隠さずにすべて言うやつって、どういう了見なの、という。
 この、「言わなくてもいいことを言う」という感覚って、おもしろいよな。
 いったい何が、「言わなくてもいいこと」なのか、「言ってもいいこと」なのか。
 これは、
 まあ、ひといきに結論するならば、「(それ・は)言わなくていいのに」と思う側が、相手方に対して甘えているんではないか、と思うけどな。
 あるいは、自分だって言いたいことを呑み込んでいるんだから、おまえも呑み込めよ、という、
 平等で対称的な構図を期待しているというか。
 どこか無自覚に自分本位であるというか。

 なんであれ思うことがあるのなら、全て逐一もらさず腹に溜め込んだりせず、「相手」に吐き出すのがよい、という話じゃない。
 そうじゃない。
 ただ、もし敢えて出さないのなら、出さないのはおそらく突き詰めれば、「自分が」外には出したくない思いや腹があるのであって、

 あるいは、出すべきではないというルールだかマナーが自分にはあるのであって、


 何も「相手」に必ずしも知ってもらわなければならない、ことはもちろんないが、

 じゃあ自分一人の心境としてならば認められる思いがあるのかといえば、そうではなかったりする。
 そうではない、自認も未だ儘ならない、というときに事態は他人をまで巻き込んでややこしくなるのであって。
 自分一人でなら本当はこう感じている、という内容も実は明確ではない、明確にはできない、という事態を、

 他人がおのずと・勝手に・都合よく「察して」くれたなら(むしろ察してくれて当たり前なら)、自分が明確にはしたくない思いを、曖昧にしたままやり過ごせるのに、というのでは、

 困るというか、混乱のネタ、種を蒔いて回るようなものだという気がするね。
    

 わたしは、自分こそがスタンダードであると無自覚に思っていた。
 とはいえ、自分以外の人間は「不必要」なまでに他人の目を気にしすぎる、と思うほどには、自分と他者との差異・違いを、塵が積もるように、感じ続けてはいた。
 それでも、他人の目を気にしない(ように実は努めている)自分というものが、自分にとってはスタンダードであり続けた。
 他人の目を気にしすぎる「彼ら」は、自分にとってスタンダードではない、のだった。

 ちょっとおかしな、不便そうな人たち、なのだった。

 ところが、長ずるにつれ、他人の目を気にする人たち、というのも彼らなりのスタンダードを生きているのだということが、わかってきた。

 ところで、わたしは、個人的な事情にしかよらないが、矛盾するようでもあるが、実際のところ自分は、「自意識過剰」な人間であるとも思っていた。
 自意識過剰な自分からすれば、他人らのそれこそ放埓な、過剰とまではいえない、素朴な自意識、とじわじわ接するにつれ、
 それと他意なく他愛なく触れ合う喜び、その交歓を重ねるにつれ、

 なんだろうな、和合の道というか。
 境界線の「線」とは実は、線というよりも幅広い面積であるというか、

 白黒ではなくグレイゾーンがあるというか。
 荒野もおしなべては平たいというか。

 そういう心境を獲得していったのだった。

 

 あっ夢の話を突き詰めたかったんだった、忘れていた。
 夢でキイワードがあったのに、なんだっただろう、なんだっただろう。
   

女が自らの客体性を、違和感を持って受け止めるとき。

「とりかえばや・男と女」(河合隼雄・著)を読んでいる。
 面白い。
 著者は男であるにもかかわらず、実に「他者性」を身につけている、と思われるので、わたしは男が語るところの「男と女」の話を気安く読むことが出来ている。
「とりかえばや」は男性によって書かれたのか、女性によってなのか、ということもその成立年も不詳であるが、
 河合隼雄はこれは女性によるものではないか、そして、ここにでてくる「きょうだい」は兄と妹、ではなく姉と弟ではないか、とみている。
 
 男であるにもかかわらず他者性を、というのは、
 これはわたし個人の話になるが、
 わたしが自分の中に「他者性」を見出したのは実に「自分が女である」ということによってだったからだ。
 
 たとえば「ポルノ」を女も観る、という話題から、とある男の人に、
「女の人も男の人の裸を見て興奮するの?」と興味津々で聞かれたときに、
 あっ全然わかっちゃいないなあ!と仰天したことがある。
 男の裸のどこに「人間(=man)」を興奮させるような客体性・秘匿性があろうか。
 おまえは男か、と思った。
 いや彼は男なのだった。
 
 彼は自分が「男」で「女」の裸に興奮するものだから、「女」もまた「男」の裸を見て興奮するということがあるんだ、と解釈したわけだが、
 ことはそう単純に反転するものではない。
 女もまた「女」を見て興奮するのである。

 わたしは本当に「男の論理」を身につけているように思う。
 それだからこそ、「自分が女」であるというときに、
 この世界において自分の中に「他者性」を見出すことができる。
 女を被写体として見る自分はしかし「女」であるという入れ子のような構造を、違和感として持つことができる。
 女は「男」の目を通して世界を見ることが容易いが、男が「女」の目を通して世界を見ることはそう容易ではない。
 
 右利きの人は、左利きの人がかこつ不便さをなかなか実感することは出来ない、というのに似ている。
  
 似てはいるが、違うのは、男と女とは、単純に数による対立をしているわけではないというところだ。
 圧倒的に男が多いから女はマイノリティ(客体)になっているわけではない。
 しかしこの「マイノリティ(客体)」的立場に身を置く経験というのは、
 実際のところわたしは恵まれた分(ぶ)である、と思う。
 誰にとっても本来、自分とは「自分」であるほかはなく、「他者」などというワケのわからないものではない。
 そしてそのまま、自分の中に「他者」を住まわせることなく自分を継続していくのであれば、この世界には発見も驚きもない。
 
 右利きのひとは左利きのひともいるということを知るに至ってはじめて、自分は「右利き」であると知ることが出来る。

 世の中に「利き腕」というものがあることを知ることが出来る。
 また「ハサミの例」でなんだか平べったくて申し訳ないが、そもそも右利きの人が切りやすいハサミを使うことによって、右利きの人が蒙る不便はない。
 ハサミによって自分は右利きであると認識することはだから、右利きの人には困難であるのに比して、左利きの人はそうじゃない。
 当たり前のようにそこらにあるハサミを通じてさえ、左利きの人は不便を蒙ることができる。
 
 右利きか、左利きか、というのは先天的なものであるそうだが、
 男か女かということも、まあどっちかっていうとわりと鮮明に先天的な事柄である。
 親か、子か、というのも、あるいはそれ以上に先天的な事柄である。
 親から子は産まれても、子から親は産まれない、という一方向へのベクトルは抜きがたくある。
 それはたとえば、
 子は親を選ぶことはできない、といった表現に集約されるものである。
 話が逸れるようだが、わたしはこれについては「どことなく反対」である 。
 ゆるやかに反論するならば、もし子が親を選ぶことができないのだとすれば、親だって子を選ぶことはできないのである。
 親とはそれほどまでに圧倒的な全権を任された存在ではない。
 また、じゃあ仮に全権を任された存在である、としようじゃないか、という流れにも、わたしは身を任せたくはないなあと感じる。


 親は生まれてくる子の性別を決めることさえできない。
 それは、堕胎すれば可能ですが、つまり、性別が判明「してから」、それを拒むということは可能かもしれないが、
 あらかじめ。
 どうだろう?いまはできるのかな?
 まあ出来たなら出来たでいいのです。
 つまり親がある程度の采配をふるえる状況が、「ある」ことは間違いはない、かといって、
 男か、女かを選べる状況になりました、としてさえ、
 産まれてきた子の人生にまで采配をふるえるかといえば、
 そうではない。
 もう、ここは、そうではない。
 よしじゃあ男だったらGOといって産んだその子が、自分は間違って男として生まれてきたが本当は女だから女になると言い出すかもわからない。逆もしかり。
 それを阻止する手立ては豊富にあると思えるかもしれないが、早い話が皆無に等しい。
 他人が他人に対してふるまえることなど、たかが知れている。
 
 わたしが言いたいのは、たかが知れてなどいない、という運命を甘受することによる「恨み」を遺してはならない、ということです。
 平たくいえば、自分の人生を他人任せにしてはならないしそもそも出来るものでもないが、仮に他人任せにするなどということができると信じるならば、
 せめて恨みを遺すような思いを自分に許すのは、もう複雑すぎてお手上げだから、やめようぜってことだ。
 
 でもこれは、やめられないんだなあ。
 というのが実に正直というか、「根」の立ち上がりの力強さを感じるところだな。
 あまり論理で生きるものじゃない。
 
「宿命論」について、思うところはあるが、
 つまり「自由意志」はあるか否か。
 これは、これまで触れてこなかったが、「アガスティアの葉」のような、
 あるいは「アカシックレコード」のような、
「運命はあらかじめ決まっているのか否か」という問題は、要するに、
「時間が流れる矢の向き」は「一方向でしかありえない」とするわれわれの根深き習性が、
 これに抵抗し、これへの理解を阻む、ということがあるのではないか。
 
 つまり「逆向き因果」を考えることによって、
 因果を絶対なものとはしない「第三」の提案を見出すことができるのではないか。
 
 戻ると、産まれてくる子が「男」か「女」かなどということはさほど重大事ではない、とする立場、見解、理解、受容が、
 皆自分自身の実感としてあるならば、
 つまり男だから何だ、女だから何だ、
 すべては「それがどうした」「だから何だ」という、
 もはや「なんでもないもの」として、まとまりねえなあ、
 つまり男であれ女であれ、親であれ子であれ、それらは記号(配役)にすぎないのだと言ってみる。
 それは「たましい」ではない、と言ってみる。
 われわれは「たましい」であって「記号」ではない。

 そして、「記号」とは楽しむものであって苦しむものではない。
 いや、これは余計なお世話だな、
「記号」とは単に「記号」にすぎないとまでしか、本当は言えない。

 

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鏡像反転。

 今日も予約した本を受け取りに図書館へ寄ったら、「なぜ私たちは過去へ行けないのか」という、およそ過去を懐かしむでは足りず、戻りたいなどという気持ちもあまりないわたしには不似合いとも思える本をなぜか手にとって、途中を開くと、
「鏡像反転」という言葉から引き込まれてついには借りてきました。
 鏡って、左右には反転するけど上下には反転しない、これって不思議なことじゃないですか?という問題提起で、
 いや、そういえばそうだ、
 だがこれは、要するに受け取る我々の認知システムによるものなのでは、つまり脳が、などと推測しつつ、色んなことを思い出したりした。


 幼い頃、やはり鏡に映る反転文字が不思議で、鏡を真似て反転文字を書いていたことや、
 少女の顔を描くのが好きで毎日のように一日一枚は自分が美しいとか可愛いとか思える顔を描いていた、
 あるときふと紙を裏返してその絵を見たとき、あまりに左右非対称なバランスの悪さに心底驚き、裏側から見るまでもなくバランスの取れた顔をあらかじめ描けるように腐心したり、していたことを。
 
 よく、右利きの人は紙面に向かって左向きの顔は得意だが、右向きの顔は苦手だということが、言われておりそれは果たして事実である。
 これは脳がどうこうなどという理由や原因を俟たずして、うおっほんまや、というような「経験」にもとづくものであって、
「両利き」寄りの人には実感されづらいことかもしれない。
 鋏なんかでも、ふと左で切ろうとしたらどうしても切れなくて、悪戦苦闘した経験ののち、随分たってから、鋏には「左利き用」がある、ということを知ったり、とかね。

 わたしはわりとのほほんとしているらしく、中学生、高校生くらいまで、
 周囲の人間は皆変わっている、と思っていたが実は、周囲の人が皆変わっているのだとすればむしろ、「変わっている」のはわたしの方なのではないか、という認識の転換に気づくことがなかったりした。
 とはいえ、日常の生活を送ることに関してはわたしはメジャー寄りだ(右利きとか、外国人もいるけど自分は日本人とか、うーんと、孤児ではなく両親がいるとか。もっとぐっとくる例えは思いつかないのか。つかない)と無意識に無自覚に思っていたので、
 成長するにつれ、「自分が女とかいうものらしい、という違和感」がとりわけ、のほほんとしていた自分にもたらした恩恵は大きいと思っている。

 鏡はたしかに、今更ながら、不思議だよね。
 江戸川乱歩も「鏡地獄」なんていう掌編を書いているよね、と思い出して読み返したくなった。 
 

「相手を試す」「世界に挑む」ことで「自我」の限界点に到達することは出来ない。モンスターおかあさんの続き。

 前回のページ(下)の追記です。

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 彼女の「心の闇」について慮っていた人もいる。
 わたしもそれはふと思った。
 何があればこうまで「病気」を進行させうるのかと。(病気というものがあるとしてだが)
 しかし、「何」があれば、わたしは「やむを得ない」として彼女の心情に寄り添えるだろうか。
 外側から見れば「こんなこと」や「あんなこと」、があった、でも現実として起きた事柄を内面的に「どう受け止めれば正しい反応」と言えるのか。
 正しい反応、そんなものは、「ない」としか言いようがない。

 たとえば「自分は愛されたことがない」と言っていた。
 これはおそらく彼女の心情として真なのであろう。
 彼女は主観的真実としてつねに「被害者」である。
 そしてもしそれが「真なり」とすれば、この世界はどれほど荒廃した、危険に満ちた、ぞっとするような悪意や怒り、圧倒的なまでの無力感、また悲哀や絶望で成り立っていることだろう。
 これはまさに冗談抜きで「ぞっとする」ような世界であると言わざるをえない。
 彼女の息子は「おかあさんがかわいそう」と言っていた。
 わたしは仮にも人が、仮にも人に向かって「かわいそう」などと言うのはどうかと躊躇われるが、この場合、この親子という関係性においては、子から親への「かわいそう」という言葉がけは、非常に心を打つ。
 あえて断ずるが、こうした破壊的でいくらこちらが思っても報われない親(むしろ加害者はおかあさんである)に対して、「かわいそう」(おかあさんは被害者である)と思えるような心根の優しい子が、
 外の世界で起きた「些細な」出来事、「他者との関係」を深刻に受け止めて、「自分は被害者である」という立場を取りうるだろうか。
 もちろん親からの影響で「この悪意に満ちた」「自分の身は(他者を傷つけても)自分で守らねばならない」世界観を引き継げば、そうもあるかもしれない、
 だがそうは思えない。
  

 というより、自分の身は他者を傷つけても、の、「他者」が「傷つく」という認識が彼女にはそもそもあるのかどうかが疑わしい。

 ないでしょう。

 いや、ないというのも正確ではないが。

 そしてここがまったく複雑怪奇なのだが、「他者を傷つけることは出来ない」、それもまた「真」なのである。

 だからこそ彼女はここまで他人を振り回すことが可能なのだ。


 その昔、「Itと呼ばれた子」という本があった。
 わたしはこれを何度も嫌だなあと思いつつ、読まずにいられず、かといって買って帰ることなど到底引き受けがたく、書店に通いながら立ち読みにてほとんど完読してしまったことがある。
 これは児童虐待を乗り越えて一児のパパになるまでの話なのだが、
 ここで気になったのは、彼は兄弟のいる長男なのだが、いじめられるのは常に彼だけなのである。
 おそらく高校生くらいであったわたしは、「いったいまたなぜ?」という義憤を通り越した疑問が実に不可解であった。
 そこには行為に対する「一貫性」というものがない。
 無意識にそれらが行われているのではなく、行為への意識的な恣意、意図性、があるように思われてならない。
 わたしは「親」になったことはないが、
 だいぶ大人を経験して思うに、いくら「子」とはいえ「相性はある」ということは、あるんだろうなあと想像にかたくないが、
「彼」に対しては常識を逸する虐待を加えておきながら、まるでさらにそれを際立たせるかのように、「彼」の同胞・きょうだいには手を出さない。
 おぼろげな記憶で書くのもどうかと思うが、
 たしか、「彼」の弟が「彼」の身代わりになりかけたことがあった。
 それはまるで、おまえが逃げるなら弟を同じ目に合わせるぞ、という脅迫をにおわせる場面であった。
 というくだりがあったように思う。
 
 ところでこの「モンスター・マザー」においても、自殺した彼には弟がいたが、このモンスター級の母親は、弟には「なにもしない」「なにをしても叱らない」のだった。
 いったいここに何が起きているのだろうか。
 
「やさしい」というのは、まったく諸刃の剣である。
「正しくありたい・あらねばならない」気持ちに付けこむのが悪魔的に巧妙である人間はまた、「やさしくありたい」と願う人の心にも、情け容赦なく踏み込んでその陣地を荒らす。
 彼女は「人の心を試している」のだ。
 それは無意識に行われているかもしれないが、無差別には決して行われない。
 衝動をとめようもない自分、は結婚するまではなりを潜めているのである。
 結婚するまではかわいそうな女性だとしか思いませんでした、とかつての夫たちは言う、でもいざ結婚が成立すると、彼女はまさに豹変する。
 こんなことは人によるとしか思えないが、彼女にとっては「婚姻関係にある」ことが、ひとつの、なにか、抑えがたき自らの衝動を、
 踏み越えてもいい許可を得た境界線として明確に見えている。
 ここを乗り越えさえすれば大丈夫、なのである。
 いや全然大丈夫じゃないんだけども。
 
 そう、これは彼女だけではなく、ある種の、いやもしかするとわりと多くの人には何がしかの(自分なりの)「境界線」が見えており、
 つまりそれは何かというとパターン化された「関係」における普遍の「規則性」である。
 そんなものは「普遍」でもなんでもない、と思える人にとってはひじょうに奇異に思えることだ。
 
 彼女はおそらく自分の親との関係においても、この固定化された決して破られることはない(としている)規則性を当て嵌めているのではないか、と思われる。

 そしてこれは酷なようではあるが、
「そう思わせた親がすべての原因」とすることは出来ない。
 出来ないというより、そんな因果関係を決定的なものとすることには何のメリットも見出せない。
 メリットとは自分が(ひいては世界が)自分をゆるし、癒すためのメリットだ。
 これは極端な例ではあるが、こんな極端な例を持ち出してもやはりそう思う。
 親との関係でおきた齟齬を、親と直接対峙する関係においてしか解決できないということはない。
 親も子もまた「自己」というそれぞれがかけがえのないものからすれば圧倒的に「他者」である。
 ここの境界線(自己と他者)をそれぞれ勝手に引いておきながら、あるいは引かずにおきながら、
 自明の理と解釈するから、おかしな、苦しいトラブルが生まれる。
「自己」の輪郭線を意識するだけで、相手がどうであれ、修復できる痕跡はあると思います。


「相手を試す」だけでは永遠に到達できないのが「自己」つまり「自我」の限界なのだ。

 

 だから、戻ると、

「なにがあれば彼女の事情をやむなし、と思えるだろうか」、

 つまり何があれば彼女の「ありかた」は彼女自身の力の及ばない不可抗力の結果であると思えるだろうか、の答えは、

 そんな「なにか」はないということになります。

 あっ誤解しちゃいけません。

 つまり、そんな「なにか」が存在すると実証して(そもそも実証できないが)損なわれるものを「わたし」は、損ないたくはないということです。

 

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「モンスター・マザー」めっちゃ面白い!

 書くこと(言葉)によって「出来る・可能なこと」の限界を、それを書いている(言葉を操っている)本人が知っている、って大事だと思う。

「モンスター・マザー」が面白くて一気読みした。
 アマゾンレビューにも目を通したが、一気に読んだ、という人が多かった。
 
 わたしは普段図書館で予約した本を読むのだが、返却や受け取りの際、時間があれば(なくても)ふらっと本棚を見て回る。
 そうして予約以外の気になった本も借りて帰ることがある。
「モンスター・マザー」もふと気になって読み出したら止まらないので借りて帰って一気に読了した。
「ノンフィクション」というのは「フィクション」の一部なのだが(表現されたものはすべて「フィクション」である)、
 だから、「ノンフィクション」とわざわざ名乗る形態に対して、少々のいかがわしさというものをわたしは常々感じていたが、
 ここへきて、
「ノンフィクション」の面白さとは、
 自分が思っていたのとは逆に、「あくまでも真相はわからない」という立場を取りうるものでもある、ということに気づいた。
 
 一般的に「フィクション」たとえば「小説」などは、
 語り手の想像した範囲内に世界が収まりきるものである。
 そんなこと言ったって登場人物Aの真実なんて、作者にわかるはずがないじゃないか、ということは、「ありえない」のだ。
 いや、そうまで思わしうる臨場感あふれる「小説」が優れた「小説」であるという一面は肯定的に評価されるべきだが、
 そういうことは置いておくとして、
 基本的には「作者」とはすべてを「知っている」という前提のもとに「小説」は書かれる。
 
 ところが「ノンフィクション」はそうじゃない。
 この場合、「丸子実業高校・いじめ・自殺」事件を、「著者」が取材に基づいて、「できるだけ」再現してみせはするが、
 読み手に対して「これだけがすべて」と受け取らせない余地を「ノンフィクション」と銘打つことによって、残しうる。
 
 ここを批判している人もいたが、これは批判するに当たらない。
 真実とは、著者が記したものに限定されるわけではない、
 って、そりゃそもそもあたりまえじゃないか。
 著者は「個」を超越した「神様」じゃないのである。
「もっと読み手に配慮を」という意見などが、わたしからすればその最たるものだ。
 そんなことにまで責任を負えるはずはない。
 とはいえ、そんなふうに受け取る人もいる、ということを起こりうる可能性の範囲内、として気にかけるのは誰にとっても「自衛の手段」として悪くはない。
 自分の意図とは斜め明々後日の方向から投げられる「反応」に対していちいちぎょっとせずにいられるということは、各人の心の平安にとっては望ましいことではないだろうか。
 いやこれは余談だな。
 
「虚言癖・噓つきは病気か」
 を思い出した。
 この母親は病気である。病気というものがあるとすればだが。
 明らかな人格障害、もしかすると二重人格なのかとさえ思わせる発言が随所にある。
 どなたかもレビューで言及されていたとおり、
 二番目の夫が、アメリカで彼女の飛び降り自殺を止めようとして騒ぎになり、現場に駆けつけた現地警察に、彼から妻へのDV容疑で拘留され、何度か面会に来た彼女が「懐かしそうな表情」を浮かべる、というくだりはもはや、
 文学的な、文芸的な香りさえ匂い立つ場面である。
 まったく破壊的で、常識が通じない。
 こういう人物の及ぼす尋常ならざる影響というのを、もっと恐れずに、早々に断罪せずに関心をもって、メディアや読者は取り上げてみたらいいのにな、と思う。
 当事者でないからこそ持ちうる心の余裕や冷静さを、捉われのない純粋な好奇心として保ち、もっと「あなた個人の事情」を離れる好機として、こうしたミステリ(謎)へ臨む姿勢が、あってもいいのじゃないか。
 
 なんでもかんでも、聞くこと見ることを「自分の事情」に関連させる癖というのは、誰にとっても程度の差はあれ、持ってしまう傾向があるとは思うし、
 また、それを完全になくすというのは難しく、非人情的な感じがしてしまうのも否めないが、
 確かに世界はそれだけ(あなたが過去に経験したものがすべて)ではない。
 
 世界に秩序性・規則性を求めるのは「幼い我々」であって、「熟達を求める我々」ではない。
 この「モンスター」を誰か止められなかったのか、
 という無念や抗議も見られるが、こんなものを止められる個人が果たしているだろうか。
 もっとこの母親個人に対する、肉薄する報告があればそれを読みたいと思う読者はわたしだけではないだろう。
 

〈追記〉
21:21 2018/10/11
 この母親は本当にすごい人だ。
 トンでるね!!
 
 わたしたちは「わからない」ものが怖い。
「わからない」が許せない。
 これはよく言われるように、この際の「わたし」とは要するにエゴ(自我)だ。
 それは「理性」と呼んでもいい。
 
 この人は病気なのだが(病気というものがあったとして)、
 実に興味深いのは、「自分が相手にしたこと」が「相手が自分にしたこと」に見事につるっと何の摩擦も抵抗もなく反転してしまうところだ。
 夫を罵る場面の再現などは、悪魔ってもしかして本当にいるんじゃ?と思わせるくらい、
 ナニモノかに「憑依」されているかのような、迫真性がある。
 
 そしてまた(レビューで)誰かが言っていたように、
 こういう人物は、本当に「相手の弱み」を感じ取ることに長けている。
 学校側が後手後手にまわらざるを得なかったのは、まったく「学校側」の弱みを彼女はわかっていたからで、
 そして、学校だけではなく、多くの人にある共通する弱み、とは、
「いい人でありたい」「いい人でなくてはならない」「いい人だと思われたい」「いい人だと思われなくてはならない」、

 もっと究極的には、「正しくありたい」という思い・願い・それはもはや第二の生存本能とでも呼ぶべきもの、であるのだ。
 ここの弱みを彼女はまったく容赦なく刃物を散らつかせて突いてくる。
 いやこれは比喩ではない。
 実際に刃物をふりまわしたりしているのである(家庭という密室の中では)。
 わたしは彼女の見事なまでの狡猾さ、をほとんど賞賛の念をもって見る。
 彼女の「知らないふり」はもはや「芸・術」の域である。

 

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すでに愛の中、すでに無条件の愛のなかにある。これを喩えをもってして説明することはあらゆる誤謬を生む。いまだ。

「すでに愛の中にある」大和田菜穂・著
 わたしが言いそう、と友人に言われそうなタイトル。
 
 これは、昨日の拍子抜けするほど面白かったかもしれない本、

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に比すると、

 まったく拍子抜けしない、ある意味「面白くない」本だなあ。
 批判しようがないという面において。
 
 皆、自分個人の物語、ストーリーを持っている。
 そして個を個たらしめるストーリー展開、そのリアリティを社会が支えている。

 この場合の個人とか「私」とかいうものは、
「肉体」といわれているが、「エゴ」ともいえるように思う。
「肉体」はたとえば一部が損傷されても「死」なない限りは生きている。
「エゴ」もまた同じで、それは損傷や変容を乗り越えて生き続ける。
 自我意識、というのは本当に不思議でミラクルだ。
 これを乗り物として船に喩えていたのは、うんこくさい(雲黒斎)。

 ストーリーは不思議だ。
 それは、なんていうか、わたしを魅了し続ける。
 わたし個人の話をするなら、わたしは、物語を描く人でありたかった。
 それを切り取って、シャボン玉のように宙へ吹き上げるの。
 こういうことを「純粋」にする人でありたかった。
 でも「純粋」に物語を語るためには、どこまでもついて回ろうとする「自分」が邪魔をする。 

 よく「自動書記」のようなことを言う人がいるが、
 わたしはこれが出来ない。(ほとんどの人が出来ないだろうけど)
 言語の力、言語のもつ有限性、一貫性、整合性に引導を渡してしまうということはあっても、
 これわたしが書いたの?へええということは、よほど忘れ去れるくらい年月が経たない限り、印象に残っていない限り、ありえないだろう。
 それはある意味「わたし」の「コントロール」下にある。
 
「知的」であるということが、邪魔をする、
 この際、
 なんだろう、「個人」を消失することの邪魔をする、ということは、
 よくある。
 必ずしもあるわけじゃないが。
 そんなことを言えば、「知的」でないことが、「個人」の消失を邪魔することだってよくある。
 実際じゃあ、
「我」の消失と「知的」には何の関係性も比例もない。
 ないのだがしかし、
「知的」であることには確かに罠がある。
 その罠は、「面白い」という性格をもつ。
「知的」であることは、「面白く」てつい、夢中になってしまうという性質がある。 

「宇宙人」がいる、と想像することは「知的」なことだ。
「宇宙人なんているわけない」
 あるいはそれは「幽霊」であっても構わないのだが、
「幽霊なんているわけがない」と断ずる人が、だが幽霊でない存在つまり我々はいる、と信じ込んでいるのだとすれば、
 これはまったく「知的」な態度であるとは言えない。
 宇宙人がいないと断ずることが(仮に)出来るなら、我々もいないと断ずることが出来なくてはおかしい。
 我がいない・は不可能だ、ありえないというなら、彼にとってそれはまったく「断ずること」がそもそも不可能な問題なのだ、という他はない。
 つまり、彼に「自分」が乗っている「船」という乗り物は見えていない。
 それは(彼・にとって)存在していない。
 ここの認識なしに、
 つまり「自分」というものもハナから存在していない、という前提なしに、他の何かもまた存在していない、ということは出来ない。その出来なさとは、彼の宣言や断定は単に空虚に響くものでしかない、ということだ。

「自分」あるいは「自分が乗る船」も存在していない、だから「幽霊」も存在していない、ということは言えても、
「自分」はいるが「幽霊」はいない、と断言することはそもそも不可能だ。
 でもこの不可能性を、彼はわからない。

 そう、本を読んでいて思ったのは、自分と他者、というのをこうやって説明すれば、わたしの想定する「彼女」は、腑に落ちたかもしれないのだろうか、ということだった。
  
 このことは確かに哲学じゃない。
 哲学じゃないが、それはそれとして、わたしは哲学を好きだと思います。
 好きだからおそらく、哲学の体裁の中で強引に振舞う昨日の彼が気に食わなかったわけで。
 いやもう強引じゃん、ファッショだねこれは、と感じた。

 それで、話はそれるようだけど、アマーリエという人がいる。
 わたしはこの人の話(宇宙の創生・地球の創生にまつわるエトセトラ)を読んだことがあり、ふむふむ面白いと思っていたら、
 途中「生まれ直してきたブッダ」が出てくるの。
ブッダ」が何者であるか、「ブッダとされるということ」が何であるのかをいったん棚上げするにしても、
 この「語られるところのブッダ」が1900年代に日本に「使命」をもって生まれてきたけど失敗しました、現世に渦巻く欲は彼をも呑み込んでしまったのです、というような、
 記述を読んだときに、一気にいやこれは。

 困ります。

 と思った。
 わたしのストーリー上、そのエピソードはそぐわないね。
 そこでふと気づいたのは、
 
 わたしは「成長」「発展」「進化」という概念が昔から苦手というか、
 毛嫌いというか、
 その「渦」というか「概念」にはわたしは付き合えないというか、
 違和感があった。
 それを言うならせめて「変化」くらいにとどめてくれ、という気持ちがあった。
 悪いものが良くなる、という、
 個人的にはそういうことがあったとしてもまったくそれは、個人の自由・センスとして構わないけど、
 手出しのしようもないことだけど、
「個人」の枠からハミ出した「社会」という風潮が、こういうことをキャンペーンしてくるというか、
 なんだろう、「渦」だな、
 ここには「誰」もいないが、「渦」はあり、
 この「成長を良しとする」「渦」接触することは、意思の及ぶ限り避けたいという気持ちがあった。

 あったのだが、
 かの「ブッダ」が、よし今のタイミングで地球で使命を果たすぞと生まれ変わってきたのに、現世の欲に呑み込まれてしまった?
 いやいや待て、じゃああなたが元祖「ブッダ」であったときの「悟り」って何だったの?

 困るなあ、もう。
 
 とどうにも抵抗を感じたときに、
 おや、どうもわたしは「成長」の概念を意外と自分のものとして受け容れているらしいぞ、と思った。 

 わたしは、フラットなものがとにかく好きというか、
 何の痛痒もなくてリラックスできるんだよね。
 
 すべてはすでに欠ける・満ちることなくあり、すべては起こる。
 というのは、そういう意味では、
 すごい落ち着く。
 そうおそうそう、そうもお、そう。
 だから「大和田菜穂」さんが進化はない、と発言した箇所にはちょっと心がほっとした。
 
 この感覚(すべては欠けも満ちもしない)を、「個」をお互い持ち合ったまま完全に共有することは出来ない。
 それはもう、出来ない。

 光の「点」(個)が流動的な軌跡、線を描く。
 線を描く。
 これは「時間」を概念として想定しなければ「見えない」光景だ。
「点」としての光の数は膨大にあり、そのあらゆる互いに恣意的な「点」の描く軌跡の一部が、交わるように感じられることもある。
 これを、わたしは、「僥倖」と呼ぶ。
 それは「結婚」であり「一期一会」であり「親子」であり「友人」であり「きょうだい」であり、「通りすがり」であり、もうありとあらゆる「関係」としての「点」だ。
 
 それは知覚できる以上に大いなる共通基盤をもつストーリーであり、
 わたしはこのストーリーに愛着を感じずにはいられない。

 ここに踏みとどまりたいなあと思うの。

 

 

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「人生が変わる哲学の教室」なんか合わない無理、でも「面白い」。のかもー。

「人生が変わる哲学の教室」
 これは、久しぶりに、合わなかった。
 この「わかりやすさ」とはどうにもそりが合わない。
 衝動的にレビューを書きたくなったほどだ。
 
 この閉じた宇宙をこじ開ける方法をわたしは思いつかない。
 すべてがあまりに平坦であって、
 これで上手くいくのならまったく上手くいってもらって問題はないが、
 わたしからすれば、取りこぼしているものの多さにただ唖然としてしまう。
 まだあっけに取られている。
   
 こんなことは重箱の隅を突くような、彼の「本質」をそれこそ見逃しているような疑問なのかもしれないが、
 幼児虐待について言及している箇所については、お粗末というか、悩みがないんだなあというか、
 それで救われるとか改善されるものならば、そもそもそれは「悩み」というほど深刻な問題じゃなくてただの「気分」みたいなものだったのではないだろうか、と思える。
 ここに出てくる聴講者もまたびっくりするくらい「素直」である。


 いや「素直」はわたしは美徳であると思っている。
 でもそもそも、そんなに「素直」なら、「悩む」こともなかったんじゃないか、と思えて、矛盾を感ずる。
 この一応悩んでいる姿というのが、
 実に嘘臭いというか、虚構的であるというか。浅いというか。
 そんなに「素直」で「甘い」人間が、そんな(素直でもなく甘くもない)問いや悩みを抱えて生きてきたってのは「本当」なのか?という違和感がある。
 彼らのような人間は本当に実在しているのか?
 その設定自体が甘くない?

 この物語に登場する誰もが、追求の手があまりに甘くて、拍子抜けする。
 なんだこの安っぽい劇場。
 という感じ。これは悪口か。
 この明るさが人を惹きつけるのだとすればそれは、決して批難されるべきものではない。

 わたしは「明るさ」は好きである。

 わたしは悩みを高尚なものだと思っているわけじゃない。
 悩みは悩むから生ずるというのはまさにそうであり、単に事実でもある。
  
 なんだろうな、例が悪いわ。
 喩えが悪い。
 登場する「悩みを持つ人」の「悩み」があまりにも「悩み」として深みがなさすぎる。
 そんな簡単に解決できる話が面白く感じられるわけがあるかよ、という不満・不興が生じてくる。
 たとえば、メガネを探している人の頭にメガネが乗っている姿というのは実際目にすると、いつだって可笑しいものではあるが、
 この「問題」を解決するために、
 息をのんで今や遅しと「名探偵」の登場など俟つまでもない。
 
灯台下暗し」
 という言葉が真実をついていることは間違いないとしても、
 この言葉の真意を解説するための、コンテクスト、文脈、状況は、まったく不適切であるとしかいいようがない。
 このテクストの場合、わざわざ「人間的深みのない・明るい・登場人物」の悩みを解決する状況を拵えて、
「大哲学者たち」なんかを持ち出す必要はなかったんじゃないか、という感じが拭い難く実に腑に落ちないし、とにかく面白くない。
 
 人間的に「明るい」ことが悪いわけでも、「哲学者」が悪いわけでもないんだけど、
 その取り合わせはそぐわないんじゃないの、と思う。
 こんな場面に登場させられた、もともと「明るく生き抜く力を持った登場人物たち」こそ良い面の皮である。
 
 人生に深刻であれ、とは思っていない。
 ただ、深刻さというのは確かに、確かに、「面白い」んだよなあ、こんな表現はそれこそ「不適切」かもしれないけど。
 
「虐待」について持った違和感とは、「それはか弱き幼児に対する親の八つ当たりである」というような描かれ方だ。
 そうであるといえばそうかもしれないが、
 幼児が弱くて親が強いなんて誰が決めたんだよ、と悲しく思う。
 弱い犬ほど吠えると言ったりする、それが本当ならば、吠える親の方が弱いということだってありうる。

 (これもまた陳腐極まりないたとえではあるが)


 わたしがこれを、問題だと思うのは、
 強弱関係をア・プリオリ(先験的)なものとして疑いを持たないスタイルについてだ。
 これは、疑いなくそういう前提を持つことによって、拾いこぼすものがあまりにも多いのではないか、と「危惧」してしまうわけ。
 赤ちゃんが無力な存在だなんて、誰が決めたんだろう?
「いや、だってそりゃそうじゃん」、じゃないよ。


 これは何も赤ちゃんにさえ自己責任がある、とかいうようなオカタイ話をしようとしているんじゃないんだよ。
 先入観を持って自分や相手(他者・あらゆる他者)を見ることは、
 便利かもしれないが所詮便利でしかないという逃れ難き側面がある、という危うさを持つ。
 
 アドバイスの一つとして、「それは親の八つ当たりだよ」というのは、ありかもしれない。
 むしろこの時勢、それは「一般的な解」でさえあるのかもしれない。
 
 わたしはおそらく「人道的」に、
 虐待をする親もまた苦しんでいるのだ、という切々たる思いを蔑ろにすることは出来ない。
 これは「親の身」にもなれ、とかいうんじゃないよ。
 
 だいたいそんなことを言い出せば誰だって自分以外の他の誰の身にもなれやしない。
 
 これは一つの「モデル」としての話だが、
 子供が「あるがまま」「自然のまま」「欲求や希望をもつ」ということに、ネガティブな感情をかきたてられる親・大人というのは、
「自分はそうじゃなかった」という思い、強烈な思い、それこそ生存に関わるような信念を怖くて捨てられずにいる人だ。
 恨みじゃないんだよ。
 これを恨みだと思えたら、そんなものは潔く捨てられる人は多くいるはずだ。
 それはまだ「恨み」ですらない。
 それはまだ「過去」ではないの。
 現在進行中の苦しみであり痛みなんだ。
 
 それを誰もがわかってしかるべきだなんていわない。
 わからなくていい。

 ただ、
 少なくとも、それは八つ当たりだよ、なんて言わなくていい、というだけの話なんだ。

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 でもこれだけ、面白くない、不備があると言いつつ、長々と疑問や思いを想起させうるものとして、これは、もはや、「面白い」のかもしれない。