夢を追う人ではなく、夢を提供する人でありたい。この乗り越えがたくも高らかな壁。
なんだかんだいって、「モラル」「良心」「道徳心」というものが最大の難敵だ、と思う。
それは自分の外側には決して存在しないものなのだ。
トランプ自伝を読んでいると、
スロットマシーンをするひと、ではなくスロットマシーンを所有するひとでありたい、
というくだりがある。
ふとそれを今日思い出して、
夢を追うひとではなく、夢を提供するひとでありたい、とも言えると気づいた。
夢。
それは実に複雑な思いを喚起させるもの。
しかし、トランプにだって夢はある。
だれにだって夢はある。
見抜く力。
自分自身がどうであるかを見抜く以上に、他人のことを見抜くなんて不可能だ。
トランプにも夢がある。
でも夢があると同時にひどく冷めた面もある。
ひどく冷めた、ひどくクレバーな。
闇金ウシジマ君の、ホスト君編、元ホスト君編、ニート君編までをこないだ読んだ。
ホスト編で、ホストは夢を売るのが仕事だとある。
詐欺っていうのは、どういうことだろうと今更ながら興味深い。
たとえば効果を謳って法外な価格で壺を売る商売とかある。
わたしはあれを犯罪とは思えないんだよな。
もちろん本人以外の家族とか友人とかにとっては、そんな馬鹿なことに大金を遣って、と腹立たしいし心配にもなる。
でも要するに本人としては夢なり安心を買ったのではないか。
ここにジレンマがあるのは、
たとえ家族であれ友人であれ、他人の夢や安心の欲求がどれほどのものか、どうすれば満たされるのかを知ってはいないし、
他人がほんとうには何を望んでいるのかを知るのは、不可能だってこと。
何なら、本人さえ知っちゃいない。
本人にさえ明確ではないものを他人がどうやって知るのか。
そう、壺を売るひとは、家族や友人よりも、本人が望んでいたものの片鱗をでも提供できたということ。
値段とは要するに、本人の価値観が決めるもの。
お金って、一円は一円なんだよな、どうしても。
だからわたしは税金を課すには消費税だろうと思うわけ。
消費税を免れているひととかそういうのはよく知らないけど。
パーセントっていうのもすごい不思議だ。
百円の一パーセントは一円だけど、千円の一パーセントは十円なんだよ。
同じ一パーセントなのに「値段」としては十倍違う、
違う、というこの、
なんだこれ、という不思議。
たとえば所得税なんかでもパーセントじゃなくて、月に一万円なり三十万円なり、固定にしようぜっていうと、
ものすごい不公平感があるわけですよ、お金がなければないほどに。
すっごい不思議だよね。
ようするに一円は一円、誰にとっても一円は一円。
それをそうじゃないように見せるのは、ひとつには、パーセンテージ、割合なんだよな。
もうひとつある。
それが百円は安いけど、これが百円は高い、とかいう、
本人の価値観ですよね。
信念または、思い込みともいう。
お金の話。自由と闊達さ、創造性について。
お金の話がしたい。
わたしはずっとお金について懐疑的だった。
お金のことを随分ないがしろにして、お金に対してまったく傍若無人、まったく礼儀知らず、恩知らずだったな、と思う。
それは良く言えばフランクな関係だった、ということもできる。
そこらへんにある石と同様の価値があり、なんでもないもの、という位置づけにとどめていた。
これは、決して間違った態度とはいまでもやっぱり思えない、思えないが、
どうだろう、ここらで本気で考えを改めるべきではないか、という気もする。
そこらにある石がそうであるのと同様、お金もまた、なんでもないもの、とすべきではない。
裕福さとは、豊かさとは、自分がしたいことを、する必要があるだけ、存分にする「自由」がある、ということだ。
いやこれは本当にお金に限ったことではない。
限ったことではないが、その自由、その豊かさ、その充実に、お金は事実、相当な議席数を獲得しているものだ、いまだ。
ともあれ、ないがしろにはしてならない。
それは、本当に、何についてだって言えるんだからね。
たとえば、「お金」を粗末にする。
お金を恐れる。
お金を嫌う。
お金を奉る。
これらは表出する姿が違うだけで、根は同じものだ。
要するにわたしたちは、知らないものを恐れるし、忌み嫌う。
要するにわたしたちは、習慣に従い、習慣の中で生きることを好む。
つまりは、安全安心を第一の優先事項にする。
まったくそれは間違いではない。
間違いではない、ということがもう、本当に大変な困難なんだ、とも言える。
自分がしたいと思えることを実現するにはお金が足りない、という現実を受け容れてあたりまえのものとして、習慣として生きていると、
たとえば世界一周をするとか、都市一番のビルを所有するとか、いま収入を得ている仕事を捨ててまで原始の伝統に従って生きている民族とフレンドリーシップを築くとかさ。
自分にはもっとお金(夢を実現する可能性)があってもいいのじゃないか、という新しい考えがふとよぎったとき、脳が、
ほんと、脳が、それを全力で阻止しにかかる。
できるわけないでしょ、今まで築いてきた、この現実を見てよ、というわけだ。
脳は習慣にないものは全部基本的に嫌いだからだ。
脳は冒険を、特に無謀な冒険を好まない。
脳は脳自身が知らないことに対してまったく排他的な立場を取るのだ。
いやでもこれは、
脳のせいばかりにはできないね。
自分ってものは、脳そのもの、ではないからだ。
脳自体にはクリエイティブな、闇をも照らそうという自発的な意識はない。
だからこそ脳を、これは無謀な冒険ではないんだと、説得する必要がわれわれには、あるの。
そして脳って馬鹿じゃないから、本当に有能だから、底の浅い、その場しのぎの意思ではまったく説得されてはくれないの。
わたしたちは、ほんとうに、自分自身に忠実であるってことに懐疑的であり、遠慮がちであるよね。
欲を悪いことのように見做すってのも、ほんとうは間違った選択なのじゃないかなあという気がしてならない。
これに関しては、斉藤一人「お金の真理」で語られていたように、欲も神様が授けてくれたものなの、ってことに諸手をあげて賛成だね。
欲にとどまらず、すべてありてあるものとは、授かりものなのだ。
それら自体が、僥倖なんだ。
結局のところ、わたし(あなたからすればあなた)が、変わらねば何も変わらないのだ。
環境を変えようだとか、いっそ相手との関係を跳んだり清算してしまおうだとか、そんなものは近道は遠回り、というほどのものにすぎない。
あなたは、重苦しい場所に依然として罰ゲームか義務かのように、留まらなければならない、と言っているわけじゃない。
いまいる場所を重苦しくしているのは、いまある他ならぬ自分自身なのだと、どこかの時点で真摯に気づきさえすればそれが、
そこへ踏み出すまでは先の見えない遠回りの道に見えていようが、本当は自由への一番の近道なんだ。
わたしは、この世に、遊びに来た。
でもそれは他者から提供される娯楽をまったく受身に与えられるまま堪能しに来た、という意味ではない。
トランプが言っていた。
わたし自身は博打はやらないと。
博打に興ずるひとは、単にスロットマシーンをするひとなのだ、わたしはスロットマシーンを所有する人間でありたいと。
そして誰もが本当は、それらを所有することが出来るんだよ。
そして誰もがそれを所有したときにはじめて、もっと新しい、もっと素晴らしいゲームが生まれるの。
「トランプ自伝」
東日本大震災、だけじゃないが、そうした災害で亡くなるひとは、生まれる前にそのことに同意してきている、とたしかバシャールが言っていた気がする。
これは、とある著名人が、今世で親に虐待されたとか言ってるひとは過去にそうしたことを自分がしてきているの、ということを言っていたが、
これはさすがにどうだろう、受け容れがたいというか、他にも言いようがあるというか、
そういうのと似ている、つまり、受け容れがたさにおいては。
でも、同意してきている、というのは、わたしにはなんだかとても、希望や展望のある話というか、癒される話というか、そんなふうに感じられた。
不慮に思われる死にも、自己の意思は反映されているのだ、という勇気づけられる話として聞くことができる。
亡くなったひとっていうのはもう、なんせ亡くなっているので、そこに納得するもしないもないけど、
むしろブーイングは、大切な愛するひとを災害や事故によって亡くした、いまだ生きているひとから発せられるものだろう。
しかしまだ生きて苦しんでいるひとに、それは前世の報い的なことを言うのは、言っても仕方がないのじゃないかしら。
虐待されたことを心の傷として抱えているひとは、それこそひとによると思うけど、虐待してきた相手への怒り、にはまだ達していなくて、シーラみたいに「わたしが悪い子だから?」という苦悩を味わい続けていることだって多くある。
過去世で自分も同じことをしたんだよ、ってさとすのは、
そこへ「そうだよ、あんたが悪い子だからだよ」とさらに重しをつけるような、
もう、こころない対応というほかはない、という感じがしてしまう。
なんだか皆、とはいわないが、素晴らしくもおっちょこちょいな、早合点をする赤ちゃんで、
たとえはるかに年上のひとだって赤ちゃんでってことはありうるし、
親でさえそうであるとも言えるし、
自分自身もまたそうであるとも言えるし、
傷つきやすい子どもっていうのは、
いや実際扱いにくいというか、細心の注意がいるというか、こっちがよっぽど大人じゃなきゃならないというか、
そういう意味で色々面倒だとか、恐ろしくさえあるというか、
まあそういう気持ちでもってわたしはまだ若い頃には、自分が子どもを産むなんてとんでもないな、と感じていた。
たぶん自分がまだ、無菌室で育ちたい、子どもだって無菌室で育てられるべきだとかいう気持ちが、あったのだろう。
わたしは「自分の傷」についてはひどく敏感なほうだ。
それはきっと癒される必要がある、無差別に他をあたるよりもおそらく確実なる自分自身の手によって、と感じている。
長ずるにつれ、いや、でも誰だって大人になる、だから大丈夫、とそれはおそらく、わたしがそこそこは大人になったから、つまり自分は大丈夫だったから、子どもだって大丈夫なはずだ、という気になって、
よし、いつでもどうぞ、と待ち構えていたときもあったが、いまだってもう全然いらない、とかはないが、
まったく見事に一度も出来たことはない。
タイミングじゃないんだろうなあ、あるいはなんだかんだ言ってそこまで真剣に欲しいとは思っていないんだな、そしてわたしの場合は自分が真剣に望まない限りには、子どもを授かることはないってことだな、と納得したものだ。
でもここ最近、自分が産んだ子どもだけが、あるいはまた子どもと看做される年齢の子どもだけが、真剣に向き合うべき子どもってわけじゃないんだな、と思うようになった。
そういえば、わたしが子どもはちょっと、と感じていた理由の一つには、「自分の子」「よその子」っていう区別がなんとなく、いやだなあ、なじめないなあ、と思っていたせいもある。
その区別に何の意味や価値があるのか、まったくわからないというか、共感しづらいものがあった。
おそらくそうした区分による、負の面を見ていたのだろうと思う。
自分より年上のひとだっていまもなお子どもでいる、というか、子どものときの傷を抱えたまま未消化なひとはいるし、
そういうひとに、もういい大人なんだから、って言って追い詰めたり、もっとひどくは、嘲るような真似はしたくないなあと思う。
「トランプ自伝」を読んでいる。
昔のやつ。
そこの「生い立ち」ってとこで、父は裸一貫たたき上げで財を成したひとで、自分には兄がいた、兄はビジネスには不向きだった、
パイロットになりたいんだとか、他にやりたいことがあるんだとか一向に実績を作れない夢ばかり追っていて、
八つも年上の兄に対して自分は「しっかりとしなよ」などと言ってしまったことを、後悔している、とふりかえる箇所がある。
兄はそのうちプレッシャーに負けて酒におぼれ、43歳で亡くなってしまった。
あんなことを、言うんじゃなかった、と後悔している。
たぶん、そう言い放ってしまったときの、ありありとしたディティールの全部を覚えているのだろう、と思う。
これは、せつない話だ。
「トランプ自伝」、おもしろいよ。
わたしは新聞もテレビもみない、政治であれ芸能であれおよそニュースにはほとんど関心がないが、
トランプ大統領がどうも毀誉褒貶というか、
バッシングがすごい、というところと、財を築いてそれを失ってまた築いて、という逸話は知っていて、興味を覚えていた。
それで、自伝を読んでみている。
どうにも話が進まないので、じれて、ウィキペディアをざっと見たりしたが、
いや、ウィキペディアなんかじゃやっぱりだめだね、と思った。
その人に興味があるのなら、他人が下す評判ではなくて、その人自身から話を聞かなきゃだめだ。
それに、まだ途中だし、いわばいつまでも途中なのだが、彼の話を聞いていると、
派手で華やかでゴージャスなことが大好き、でもそれは決して虚栄心によるものや、ふわふわした現実離れした憧れなどではなく、夢を与える影響としてのメリットはあるのだ、と断言し、それを裏付けるような実に堅実な面もあって、わたしはそこに惹かれる。
偶然と必然っていうのは、まったく矛盾した関係だ。
わたしは言葉が矛盾を孕んで、孕むどころか生んでしまうのだと思っていた。
いや、それは正しい。
でも、言葉だけじゃないな、と思う。
すべてありとあらゆるものは、矛盾した関係にある。
たとえばわたしの話なら、
わたしは何か関心をひくことが起きたときに、特に困ったこと、悲劇的なことが起こったときに、それを偶然で片付けるのは嫌いだ。
しかしその嫌い、という感情を超えるように、人生は博打なんだってことを信じてもいる。
なぜ博打かっていうと、先のわかった、結果が決まったゲームなんて誰もしたいわけがないだろう、と思うからだ。
端折れば、人生はある意味ゲームなんだと思っている。
うん要するに、楽しいこと、幸せなことは(必然だと手柄話にしたいのはやまやまだけど、謙虚に)偶然のせい、にしてもいいけど、
苦しいこと、悲惨なことっていうのは、決して偶然(自分が関与できぬ原因)のせいにしてはならないと思うんだ。
つまり、「問題」があるのなら、それの必然性(自分が関与できた可能性)について点検してみる必要がある。
なぜかって、
それはだって、いくら先延ばしにしようが、逃げようが、見てみないふりをしようが、どうしたって自分につきまとってくるものだからだ。
自分が疑問に思ったことについて、うやむやに出来るものではない。
あなたは、わたしは、それと決着を付けるために、現世世界へとまったくわざわざ、途方もないリスクを物ともせずに、参入してきた、お互いがお互いを補い合える、同志なんだよ。
それはなにも、後先のないとりあえずの具体的な行動に出るとか、もっと言えばわざわざ誰かを傷つける行為に及ぶとか、
そういうのは、いらないんだよ、必ずしもは。
そこにおさまるのが完璧に美しいと感じる気持ちを味わう、それだけでも本当は、十分なんだ。
それでもっと欲が出たのなら、その欲を、その上昇願望を実現する試みもまた、素晴らしく感動的なことだ。
物がここに嵌る、この配置が完璧に美しく粋だと自分は感じる、ということを言ったスタイリストのひとがいる。
わかるわ、と共感し、
その後、いや、これは物との関係だけに収まる話ではないなと気づいた。
思い、気持ち、考え、というものだって、そこに嵌る、という感覚がある。
それは嵌ってみなきゃわからないことだが。
言葉を換えれば、「腑に落ちる」感覚といってもいい。
またまたわたしの卑近な例を挙げれば、
職場で、相手も自分も別にお互いを嫌ってはいない、決定的にウマが合わないってことはないし、むしろ、という関係でいて、「上司と部下」的な立場の関係にあるひとがいる。
わたしの無限にある内心を言い出せばそれこそキリはないのだが、
ともかく相手は上司的な態度でもって、自分に苦言を呈してくることがある。
わたしが咄嗟に反発するのは、それあんたわたしにだけじゃなくて誰にでも言えるの、ということだったりする。
と、しましょうよ。
しかしどう考えてもここで我を張るのはお互いにとって気力の浪費だという気がしてならない。
どうにもしばらくモヤモヤして、考えを煮詰めるに、
相手だってわたしにこんなことを言うのは嫌な、気の進まない気持ちがしたことだろう、だとすれば、なんだかそんなことを言わせて申し訳なかったな、
という観点に辿り着いたときに、
ふときれいさっぱりモヤモヤは晴れて、気分が良くなって、こういうのを収まりのよい考えって言うのだろうな、と思った。
収まりの良い考えってものが、あるのだと思った。
それはまるで、物がその場所にあるのが一番似合っている、粋だ、という感覚と一緒なんだな。
[http://:title]
「シーラという子」「タイガーと呼ばれた子」
わたしは、大人を求めていない。
自分をかけがえのないものとして扱って、完全に受け容れて、保護してくれる大人を求めてはいない。
そう、もうそれはまったくもって、そう、というほかはない。
「シーラという子」の最後で、あんたのためにいい子になるよ、というシーラに対して、トリイが、いいえ、わたしのためじゃないわ、あなた自身のためにいい子になるのよ、
このシーンでわたしは、トリイを、なんて馬鹿なんだろうってほろ苦い思いがした。
それは、なんというか、
いつかの馬鹿げた愚かしい自分、を重ね合わせるようなほろ苦さだ。
トリイは正しいのよ。
トリイが正しい。
そしてわたしはいまだに「トリイ」をやっている。
人は誰だって自分自身について誠実であるべきだ、正直であるべきだ、他の誰でもない自分自身の気持ちを生きるべきだ。
これはもはや理想なんてものじゃない。
だってほんとうにそれしかないじゃない?と思う。つまり、
長い目というやつでもって振り返ればさ。
正しいってことはまったく馬鹿げている。
わたしは正しいことについて知り尽くしている。
うん、そんで、わたしの知らない正しいことってのはよっぽど馬鹿げたことってだけ。
もっとソフトに言うのなら、わたしの知らない正しいことってのは、よっぽどわたしには縁がないのだ、というだけ。
正しいことにはうんざりする。
何の生産性もない。
いま、ここで、わたしたち、それぞれの身体をもって生まれてきた。
それぞれの目、それぞれの手や足、それぞれの心を持って。
それを決して蔑ろにしちゃならない。
誰だってひとは、せめて自分のことを軽蔑しちゃならない。
かわいそう、なんて人に向かって言う言葉じゃないよって、わたしは年下の友人に対してたしなめたことがある。
わたしは、なんて愚かだったのだろう、と思う。
でもやっぱり、なんていうか、じゃあいったい、わたしのこの気持ちをどう言えば伝わったのだろうか、という疑問の解けぬままだ。
そう。
解けぬままだ。
どっちが偉いとかどっちが劣っているとかじゃない。
どこに橋はある?
いや、違うな。
わたしは「かわいそう」といわれて慰められる自分をどこかに見出す必要を感じている。
だってそうじゃなきゃ、こんなにも、心に残るはずがない。
見出す必要がないのなら、こんな、ほとんど二十年も前に交わされた会話をいまだに覚えているなんて、嘘じゃない?
わたしはものすごく自尊心の強い子どもだった。
自分が他者によって傷つけられ得る存在である、という並行性を受け付けぬ子どもだった。
そんな可能性は虱潰しに排除していくような。
だから、シーラの気持ちはとてもよくわかる。
それでいて、シーラがトリイを母親と取り違える気持ちっていうのは、まったくわからずにいて困惑した。
もちろんわたしは、物理的におかあさんに「捨てられ」た経験はないから、わからなくて当然なのかもしれないが。
そうして困惑しているうちに、シーラにまったく追い抜かされるような気持ちをも味わった。
11:37 2019/01/29
かわいそうっていうのは、不思議だな。
そうつまりこれは、その言葉にこめた思いの違い、というものにすぎないのかもしれないが。
追いつくのを待っているだけじゃだめだ。
二十年前の会話だけじゃなく昨日も、別な人とかわいそうについて語り合った。
かわいそうって言われたいんだって。
わたしはほんとうに、つくづく不思議だ。
うん、じゃあ譲歩して、
言われたい、をやめて、自分で自分に声をかけてあげたら。と思う。
わたしは理解されなくても平気。
これは覚悟に近い。
わたしにはわたしの考えがあるし、それが理解されにくいだろうことも知っている。
だから、ふだん、聞かれもしないのに突飛な(と受け取られるかもしれない)ことは言わない。
別に言う必要もないことだと思っている。
興味を持ってくれるかも、理解してくれるかも、と思うことを相手を見て口にしても、まあ、されないこともある。
まったくがっかりしないとは言わないが、そのことで自分が傷つけられるということはない。ほんとうはね。
相手の心を徒に逆撫ですることについては、黙っていればいい。
黙っていたからって、相手が自分の考えを知らないからって、自分の考えがなくなるわけではない。
そういうと、それにいたく感心していた。
だいたい、自分の考えが相手に受け容れられないからって、自分自身をまるごと否定されたと思って憤り、あるいは悲しみを感ずるひとが、わたしは苦手だ。
そりゃあなた、理想の自分を演じているからだ、と思う。
それに、自分を否定されたというけど、その「自分」の正体について、あなた、ちゃんと知っているの?と思う。
いや、知らないんだよ。
わたしの見た範囲においては、知らないでいる人だ。
わたしは、他の誰もがおそらくそうであるように、自分の知っていることは相手も知っていてあたりまえのことだと無自覚に思っていて、
相手は知らないんだ、という可能性に気づくとき、いちいちやっぱりびっくりする。
自分が知っていることを相手が知らない、という考えてみればそれもまた当然ありうる事態について、
なんで知らないんだろう、と感じてしまう、未熟だから。
それはたとえば、オタマジャクシが成長するとカエルになるってことを知っている、とかではなくて、
自分に嘘をつけば人生は詰む、とかまったく生彩を欠いたものになる、というようなこと。
皆、自分のしたいことをすればいい、と思っていた。
皆が自分のしたいことをすれば世の中メチャクチャになるって眉を吊り上げて怒るひとの気持ちが長らくわからなかった。
わたしはむしろ、その逆じゃんと感じていたから。
そもそも、自分がしたいこと、というときの自分ってものの正体にまったく無関心で、注意を払わないひとがいるんだ、ということがわからなかった。
立場は逆だが、わたしがインフルエンザに罹ったことがないというと、そんなひといるの!と驚愕されたときの、相手の気持ちはだから、わかります。
自分の正体について思いを馳せたことのないひとなどいるの、ということにわたしはびっくりしていたから。
不幸なひとは、他人の思い描いた人生を生きようとしている。
鏡に映った自分は自分自身そのもの、ではないのに、鏡に映る自分を自分自身だと思い込むような、そこにまったくのめり込むような日常を過ごしている。
確かに鏡っていうのは本当に正確に自分自身を映してくれる。左右は逆ですがね。
それに、鏡に映っている自分だって、自分が見たいと注目しているところにしか目がいかないものだ。
目が大きければ可愛いんだって思い込んでいたら、目ばかりメイクを盛ってまったく全体のバランスがとれていない、なんてことにもなるじゃありませんか。
自分の姿を客観的に見たいなら、鏡よりも写真の方がいいと思うな。
もっといえば、動画のほうがいいな。
まあそれでも、注目すべきところを自分で限定していたら、同じことかな。
不幸なひとって、おそらく悪い意味でやさしい。
親の期待に応えたいとか、恋人の期待に応えたいとか、子どもの期待に応えたいとかさ。
ちょっとそう思いつくことが罪なのではないが、
なんだろう、期待に応えられない自分に罪悪感まで抱くというのは、やりすぎかな。
それは他に問題がある。
他に問題があるのに、問題のすり替えを行っている。
傷つくのは、悪いことじゃない、
悲しむのは決して悪くない。
傷っていうのは、プレゼントだ、サプライズではあるけど。
誰が無菌室で生まれたいものか。
と、
思うんだけど、こういうところだよね。
意外と無菌室で生まれたいんだね。
なんでなんだろう。
それは、後天的なものだとしか、わたしには思えないんだけど。
十代のころに読んだ萩尾望都の、「スター・レッド」のラスト間際、名前忘れた、角を折る青年(少年と言ってもいいかも)のシーンが、
泣けて仕方がなかった。
そうだね。
そのときの気持ちは、「かわいそう」に近い。
たしか(せりふは忠実ではないが)、僕は望まれた存在でありたかった、祝福される存在でありたかった、と独白して静かに自分の角を折る。
誰だってそうだろう、と痛切に感じたら、この願いを断念して千の眠りにつく彼の思いが、自分に注ぎ込まれたら、もうだめ。泣く。
彼はいわば、逆境の人生を歩んできた。
世界から忌まわしき存在として警戒され、決して受け容れてもらえない人生を歩んできた。
もう、認められることに、受け容れられたいと願う人生に疲れた、といって自分が異端であり続けた象徴である角を自らの手で折る。
今日読んだ本で、過去世とは、過去世デパートから自分が選んだもの、という発想を知った。
それで納得がゆくのは、
たしかバシャールだったかと思うんだけど、自分の過去世がたとえばナポレオンだとか、いう気がしたとして、そう感じるひとは一人ではない、実際に何人もがそうなんだよっていう示唆。
バシャールの陽気な話を聞いて、なんだろうそれは、どういうことだ、と不思議な気がしつつ忘れられなかったのは、
こういうこと、だったんだなあという納得。
ナポレオンなんてきっと量産されているに違いないと思うな。
マリー・アントワネットも量産どころではないだろう。大ヒット商品、殿堂入りみたいなものかな。
ゴッホとかも、そんな気がする。
わたしたちは、意識の澱、無念あるいは執念を引き継ぐ。
それはそれらを浄化するためにだ。
さらに重いものにするためじゃない。
さらに過去世デパートに陳列されるべき品物のコピーを飽くことなく量産し続けるためではない。
うん、いやこれは万人にとってどうだかわからないけど。自分としてはね。
「タイガーと呼ばれた子」
トリイは書き手、シーラは演じ手。
未だ途中だが「タイガーと呼ばれた子」、「シーラという子」の続編の最中、再会してのちドライブのシーンで、君らは要するに前世で付き合っていたんでしょ!と突っ込みたくなるようなシーンがあった。
「知らないほうがわかっていて、知ってるほうがわかってないように世界を逆さまにする才能って、どんな才能なんだろ」byシーラ。
21:54 2019/01/27
ほんとうに、シーラは知的。
予約した続編である「タイガーと呼ばれた子」を受け取るまでの間、発達障害についてのスレッドをまとめたもの、を読んでいた。
発達障害と、統合失調症は、わたしには興味がありすぎること。
そんなことを言えば皆だれだって、わたしだって、発達障害じゃないか、統合失調症じゃないか、ただ程度差というのにすぎないじゃないか、と思う。
なぜ地球は、地球だけじゃないのかもしれないが、こんなふうなんだろう?と思う。
金星人の話をまえに、したね。
そのひとは、ほんとうに、金星からやってきて、事故かなんかで死んだ子供と入れ替わったのだ。
ま、この、ほんとうに、というのは実に何ていうか、
嘘だってわけじゃないが、嘘とかほんとうとかいうのは、
うーん、要するに受け取り手による任意なんだものな。
で、その金星人のひとには、あたりまえだが金星人の父親と母親がいて、母親は自分を産むときに、お産に耐えられなくて死ぬの。
父親は、つまり最愛の妻を産褥によって亡くした夫は、どうしても娘である彼女のことが受け容れられなくて苦しむ。
とかいう、背景があって、
なんだそりゃ、まじか、とわたしはひどく驚いた。
ずいぶん進んだ文明だというわりに、ひどく遅延した自他関係じゃないか。
なんていうか、ブッダが現代日本に生まれ変わってきたけど失敗した、という話を聞いたときのような失望にも似ている。
シーラがこうまで知的であり、聡明であり、ナイフのように鋭い感受性を持っているにもかかわらず、なぜ、
母親との出来事をこうも消化できないのか、ということが、このミステリにおける最大の謎解きの一つだった。
わたしはね。
知的であるか、聡明であるか、ナイフのような鋭い感受性を持っているかどうか、ということは関係がないんだ。
そうじゃない。
ただ、シーラはほんとうに愛情深かったんだ、と思う。
その愛情深さを、知的であることがむしろ邪魔をした。
わたしは、わたしたちはトリイの目を通したシーラしか知らない。
トリイもまた実に知的だし、自他の区別はついているし、それでいて実に人間的だし、
いやともかくトリイもまた実に知的であるがゆえに、
なんていうか、ただただ、その愛情、
その、愛情深さゆえに陥る罠というべきものについてだけが、クローズアップされがちだ、というふうに思う。
親をも含めた、他者に対する愛情深さがね。
続編については冗長だった、
冗長だったが、最後の最後において、あの、カリフォルニアまで
カリフォルニアだったっけ、なんか北の方らしきアメリカ、
トリイがシーラを迎えにいくから、そこにいて、と電話を切って、
でも、カリフォルニアまでいくには、飛行機のエコノミーはすでに満席で、翌日の昼の便しかない、そんなにシーラを待たせておけ ないのに、と取り乱していると、
そのとき付き合っていた彼が、ファーストクラスに空き席があるのなら、それでいけばいい、という。
そのお金は自分が持つよ。
だって、シーラはすごくいい子なんだろ?
君はそう言っていたよね。
人生において遣うべきときに少しくらいお金を遣うことがいったい何だって言うんだろう?
と、いうの。
素敵だった。
トリイは彼と結婚したのかな?
どうでもいいけど。
うん、そんで、飛行機で迎えに行って、帰りはレンタカーだ。
そのレンタカーで帰る道中に交わした会話、
シーラが、
「自分の問題とは、空を飛んで避けるわけにも、地中に潜って避けるわけにも、まわりこんで避けるってわけにも、行かないんだって思ったの。
なら、そこを通り抜けてゆくしかないのだと」
ってとこでまた、滂沱の涙。
最後の、マクドナルドで働くよってのも、トリイは嘆いていたけど、わたしからすれば、納得のゆく成り行きだった。
でもわたしがもしトリイなら同じように嘆いてしまうかもしれない。
そしてわたしがシーラなら、同じように自分の将来を嘆くトリイに対して微笑んでしまうと思う。
そう、そうアレホは知恵遅れなんかじゃない、だれもアレホのわかる言葉でしゃべっていないのに、自分たちにはわからない言葉しか知らないからってなぜ彼をそうだと決め付けるの、っていうシーラの憤り、
それからアレホの親が一度は引き取ったのに、彼の障害ゆえに彼をもう一度施設へ返却しようとしている、ということに気持ちがたまりかねて、矢も盾もなくアレホを連れ出してしまい、二日後トリイの家へ帰ったシーラ、
トリイはアレホを、「さあ、いらっしゃい」と眠らせる。
シーラには、なぜこんなことを、と問い詰めかける。そこでシーラが、わたしにも休息を、という。
わたしにも、アレホに言ったみたいに言って。
さあ、いらっしゃい、と言ってわたしを寝床へと優しく誘って、お願いだから。
ほんとうに彼女の、シーラの魅力とは彼女の知的精神にある。
聡明さにある。
と、わたしは思う。
聡明さゆえに彼女はほんとうに冷淡であり、愛情深さゆえにほんとうに勇敢だった。
わたしはシーラの魅力に取り付かれているから、次にはシェイクスピアの「アントニーとクレオパトラ」を読もうと思うもん。
わたしはさ、
なぜ結婚しないんだろうとか、
なぜ人がわたしに寄せる気持ちに寄り添えないのだろうとか、
そういうことを、シーラみたいに、自分は不幸になる選択しかできないから、とかいうつもりはない。
そうじゃない、むしろ、トリイが言っていたみたいに、わたしにはまだその準備が整っていない、というのが近い。
しかもその準備とは今世には整わないかもしれない。
シーラのどうしようもない、どうしようもなく哀れで痛ましくて無自覚な、父親が、トリイに言うんだよね、
シーラは、やりたいときにやりたいことを、やりたいだけやる、誰にもそれを止めることはできない、われわれはただ彼女が帰ってくるのを待つことしか出来ないのだと。
彼は、父親は、娘シーラのことをディスったつもりなのだろうか?
わたしには彼から娘へ送った、最大の賛辞に聞こえる。
生き生きとしたシーラ。
そう、実際のところ彼女は実に生き生きとして闊達だ。
誰が六歳のときに三歳の子に火をつけたりする?
彼女は何も躊躇わない。
彼女の父がいみじくもまったく正確に、的確に言い表した姿が、彼女なのだ。
シーラにだってもちろん欠点がある。
盲点がある。
わたしがあの子に火をつけさえしなければ、あの子を殺したいなんて思わなければ、おかあさんは、わたしを捨てなかったの?
というシーラに、
いいえ、時系列的に、おかあさんがあなたを置き去りにしたあとに、したからこそ、あなたは男の子に火をかけたのよ、違うわよ、
と冷静に処するトリイ!
時系列的に、とは!
ねえ、お母さん、聞いて。とシーラ。
いいえ、わたしはあなたのお母さんじゃないわ、という、トリイ。
まったく。
まったく、だよね。
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あなたの人生は、あなたの人生であるより他はない。さあ、明るいのも暗いのも、ピンクもブラウンも、気の済むだけ見なよ。
あなたが選ぶ。
なんであれあなたが選んだ結果だとわたしは希望的に言い続ける。
あなた自身に原因があるんだよっていうと、なんだかしらないが、自分が悪いんだ、と思う人がいるけど、わたしはこれがどうしようもなく腹立たしい。
あなたに原因があるというと、怒る人はまあいいや、放っておこうってなる。
彼なりのバランスを取っているんだろうと思う。
余計な口出しでしたね、と思う。
でもそうではなく、じゃあ何もかも自分が悪いんだねというふうに受け取るひと、これは、
優しいんだか謙虚なんだか知らないが、実際には傲慢だよと思う。
完璧主義もほどほどにしな、と。
常々誰も彼もが神様、と言っている、いや言ってはいないが思っているにもかかわらず、
あんたは神様か、と突っ込みたくなる。
つまりあんたは特別な神様なのかと。
誰だって神なんだよ。
誰だって地道に神様をしているの。
誰だって本来自力で何かを成し遂げることができる。
っていうか、自力で何かを成し遂げる楽しさや高揚を感じるために、わざわざここへやって来たんだよ。
ここへやって来た。
つまり、生まれてきたわけ。
ってのは、今日は本を読んでいたけど途中、手に入らなさそうなレシピの羅列ばかりに飽きて、ふとネットを開くと、
自殺するするという彼(実は彼女だったのだが。最後に明かされて見事にわたしは吹いた。声をあげて笑ってしまった)が心配で、仕事中でも早退してでも引き止めることに専念する女の子の話にであう。
あなたは、自分が(自殺を)引き止められたいの。
ただ、それだけ。
この話はまったく複雑であり猥雑。
彼女は誠実だと思う。
自分がしてほしいと思うことを他人にせよ、ということに実に忠実だ、誠実だ。
だから、もちろん嫌いにはなれないが、あまりにも馬鹿げていて、遅延していて、しまいに腹が立ってくる。
あなたは、自分が引き止められたいの。
これはいわばまったく代償行為だ。
あなた自身は自分で得たい解答がわかっているのに、それをどうしても他人の口から言わせたい。
という、不断の努力に明け暮れているだけなのだ。
口火を切りな。
覚悟を決めな。
あなたはまだ自分の人生が自分のものだ、という宣言をするのを躊躇っている段階にすぎないんだ。
しかも、そんなこといつまで先延ばしにして躊躇おうがもうすでにそうなんだよ、あなたの人生はあなたが自覚しているかしていないか、覚悟を決めているか、決めていないかにかかわらずもうすでに、あなたの人生であるより他はない。
生まれてきた以上もうすでに始まっているんだよ。
もう死んで自分の人生をやめたい、それも結構。
どうせ死ねやしない、それは、現実らしき死について言っているわけじゃない。
どうせ死ねやしない、
だって、魂は引き継がれるから。
もうあなたは「存在の海」を離れてしまったの。
死んだときに気づく。
死は終わりじゃなかったということに。
「シーラという子」
残酷さが不思議だ。
「シーラという子」を二日かけて読んだ。
夜、家に持ち帰って読んでいて、声を上げて泣くところが何箇所もあり、翌朝は目が腫れていた。
目が腫れるほど泣くなんて、嗚咽をおさえきれぬほど泣くなんて、幾年かぶりではないか。
読んでいる最中から、これは親しい人にも読んで是非もらいたいと思いつき、気になってレビューを見ると、
おや、これは、気軽に薦められる書物ではないのかも、という感じがしてきて、戸惑った。
ひとつには、生にあまりに逼迫していて、生々しすぎる、怖いほどに。という最初からある躊躇を具現したものであり、
もうひとつには、
「問題児」シーラに感情移入して、筆者である「先生」トリイを偽善者であるかのように思う人への賛同が高い、という、わたしからすれば意外性。
読みながら、ペーターとわたし、なんだっけ、なんだったっけ!!
少女のわたしを愛したあなた、みたいなタイトルだった気がするのだが。
それを思い出したり、金星人の「ウォーク・イン」ではない人の話(これにも父親役というか父親立場というか大雑把にいえば大人の見知った男が、あたりまえのように関係を迫ってくることへの苦痛と戸惑いが、ありありと語られている)をも思い出したり。
ウォーク・インっていうのは、地球に生まれた人間と(地球外の人が)魂を交代するというか、身体(設定)を引き継ぐというか、そんな感じ。
有名なところでは(そうであるという認知度が高いって意味じゃないが)、アメリカの初代大統領・リンカーンがそうだったとかいう話は、「ラー文書」の一か二で読んだ。
しかし、ウォーク・インであるか、そうでないか(そもそもそう生まれついたかどうか)っていうのは、たいした問題じゃないよね。
実際のところ、(周囲からはそうだと思われている)設定を引き継ぐ、というのは大変なことだと思うのよ。
あっさり言えば本当は誰だって宇宙人なわけだよ。
自分が地球人だと思い込んでいるだけで。
それがシーラに関してもある。
彼女は精一杯、生育環境いわば「設定」を引き継いでいてしかも、その生を「今・この瞬間」として生きている。
レビューの一つに、彼女のカリスマ性とか、魅力とかについて語っている人がいて、それにはまったく同意できた。
本書の中にもある。
彼女との別れの前に、
「シーラは自由なのよ」と語ったまだ十四歳の少女。
「シーラはまるで妖精のようだね、強くまばたきをすればその一瞬で消えてしまいそうだ」と語った青年。
トリイは、シーラを実に勇気ある少女として見る。
わたしには、その気持ちが痛いほどわかる。
勇気あふれるそれ、を眺めている側の気持ちが痛いほどにわかる。
別れがあることを切り出したとき、シーラを、いつものように抱きしめたいという気持ちにはならなかった、彼女は決して可哀想でも憐れでも、いたいけでもなかった、
彼女はそれらの感情を拒絶する威厳とも言うべきオーラで包まれていたからだ、
というくだりでもまったく盛大にわたしは泣いた。
皆、わたし。
シーラもトリイも、わたし。
トリイが、他人をわかる、なんて本当には出来ない、ということを無防備な膚に突き刺さった棘のように感じる、痛みにも似た厳粛さが好きだ。
トリイが、あまりにも大人びた目をするのでシーラはまだたった六歳の少女なのだということを忘れてしまう、という賞賛とも懺悔ともつかぬ痛みが好きだ。
今・この瞬間、
をシーラからは感じる。
とはいえ、彼女がまったくすべてにおいてそうだというわけじゃない。
四歳のときに別れた二歳年下の弟・ジミーのことを気にしているし、自分を置き去りにした母親のことも気にしている。
でもそれくらいは目を瞑ってもあまりある!
わたしは英語はわからないが、彼女のヘンな話し方の中で、beで語り過去形はない、というのも、しかもそれを意識的にしているということも、
ものすごく「意図的」なものとして印象深い。
わたしは、トリイが、トリイこそすごいなって思うの。
それはおそらくわたし、だからこそだ。
関わらなければそれで済んだような関係に敢えて深入りし、それでいて自制を失わない、決定的には失わない、
わたしはわたし、あなたはあなた、という立場を「愛」あるいは「情」あるいは「やさしさ/強さ」をもって貫く。
でも別れ際、シーラが、あんた(トリイのこと)がいなくなるなんて耐えられない、悪い子になってやる、とヘソを曲げ、ダダをこね、だってそうしたらあんたとまた一緒に過ごせるんでしょって、あんたしかわたしを「飼いならせる」ひとはいないんだからって、
それでもあれは、悪い子になる、なんて嘘だよって、「あんたのためにいい子になるよ」って最後の最後に言うと、
トリイは馬鹿だから、ほんとに馬鹿みたいに誠実だから、「わたしのためにいい子になるんじゃないの、あなた自身のためにいい子になるのよ」、と言うの。
そうすると、不思議に大人びた微笑をシーラは浮かべて、もう何にも言わないの。
わたしはこの瞬間、シーラじゃなくてトリイなの。
もはや、トリイが幼くて、シーラが大人なの。
わたしはこの馬鹿げた現実に取り残されてしまうの。
わたしは本当を言うと、すべては自分の手の中にあり、自分の責任っていうことのどうしようもなく明らかな真実性と、その物足りなくも味気なさの中に、いまだ呆然と佇んでいるだけ。
彼女が、シーラが、トリイにあてた手紙が最後にある。
どうして、こんな深遠な詩を書けたんだろうって胸が切なくなる。
本当に不思議になる。
シーラは、謎めいている。
野生の動物を飼いならすのは、罪深いことだって痛みに、同意しそうになってしまう。
野生の動物。
わたしにはわからない。
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