「シーラという子」「タイガーと呼ばれた子」

 わたしは、大人を求めていない。
 自分をかけがえのないものとして扱って、完全に受け容れて、保護してくれる大人を求めてはいない。
     
 そう、もうそれはまったくもって、そう、というほかはない。

「シーラという子」の最後で、あんたのためにいい子になるよ、というシーラに対して、トリイが、いいえ、わたしのためじゃないわ、あなた自身のためにいい子になるのよ、
 このシーンでわたしは、トリイを、なんて馬鹿なんだろうってほろ苦い思いがした。
 それは、なんというか、
 いつかの馬鹿げた愚かしい自分、を重ね合わせるようなほろ苦さだ。
 トリイは正しいのよ。
 トリイが正しい。
 そしてわたしはいまだに「トリイ」をやっている。

 人は誰だって自分自身について誠実であるべきだ、正直であるべきだ、他の誰でもない自分自身の気持ちを生きるべきだ。
 これはもはや理想なんてものじゃない。
 だってほんとうにそれしかないじゃない?と思う。つまり、
 長い目というやつでもって振り返ればさ。

 正しいってことはまったく馬鹿げている。
 わたしは正しいことについて知り尽くしている。
 うん、そんで、わたしの知らない正しいことってのはよっぽど馬鹿げたことってだけ。
 もっとソフトに言うのなら、わたしの知らない正しいことってのは、よっぽどわたしには縁がないのだ、というだけ。
 正しいことにはうんざりする。
 何の生産性もない。

 いま、ここで、わたしたち、それぞれの身体をもって生まれてきた。
 それぞれの目、それぞれの手や足、それぞれの心を持って。
 それを決して蔑ろにしちゃならない。
 
 誰だってひとは、せめて自分のことを軽蔑しちゃならない。

 
 かわいそう、なんて人に向かって言う言葉じゃないよって、わたしは年下の友人に対してたしなめたことがある。
 
 わたしは、なんて愚かだったのだろう、と思う。
 でもやっぱり、なんていうか、じゃあいったい、わたしのこの気持ちをどう言えば伝わったのだろうか、という疑問の解けぬままだ。
 そう。
 解けぬままだ。

 どっちが偉いとかどっちが劣っているとかじゃない。
 どこに橋はある?

 いや、違うな。
 わたしは「かわいそう」といわれて慰められる自分をどこかに見出す必要を感じている。
 だってそうじゃなきゃ、こんなにも、心に残るはずがない。

 見出す必要がないのなら、こんな、ほとんど二十年も前に交わされた会話をいまだに覚えているなんて、嘘じゃない?

 わたしはものすごく自尊心の強い子どもだった。
 自分が他者によって傷つけられ得る存在である、という並行性を受け付けぬ子どもだった。
 そんな可能性は虱潰しに排除していくような。
 
 だから、シーラの気持ちはとてもよくわかる。
 それでいて、シーラがトリイを母親と取り違える気持ちっていうのは、まったくわからずにいて困惑した。
 もちろんわたしは、物理的におかあさんに「捨てられ」た経験はないから、わからなくて当然なのかもしれないが。
 そうして困惑しているうちに、シーラにまったく追い抜かされるような気持ちをも味わった。
 
11:37 2019/01/29
 かわいそうっていうのは、不思議だな。
 そうつまりこれは、その言葉にこめた思いの違い、というものにすぎないのかもしれないが。

 追いつくのを待っているだけじゃだめだ。

 二十年前の会話だけじゃなく昨日も、別な人とかわいそうについて語り合った。
 かわいそうって言われたいんだって。
 わたしはほんとうに、つくづく不思議だ。
 うん、じゃあ譲歩して、
 言われたい、をやめて、自分で自分に声をかけてあげたら。と思う。
 
 わたしは理解されなくても平気。
 これは覚悟に近い。
 わたしにはわたしの考えがあるし、それが理解されにくいだろうことも知っている。
 だから、ふだん、聞かれもしないのに突飛な(と受け取られるかもしれない)ことは言わない。
 別に言う必要もないことだと思っている。
 興味を持ってくれるかも、理解してくれるかも、と思うことを相手を見て口にしても、まあ、されないこともある。
 まったくがっかりしないとは言わないが、そのことで自分が傷つけられるということはない。ほんとうはね。
 相手の心を徒に逆撫ですることについては、黙っていればいい。
 黙っていたからって、相手が自分の考えを知らないからって、自分の考えがなくなるわけではない。
 そういうと、それにいたく感心していた。
     
 だいたい、自分の考えが相手に受け容れられないからって、自分自身をまるごと否定されたと思って憤り、あるいは悲しみを感ずるひとが、わたしは苦手だ。
 そりゃあなた、理想の自分を演じているからだ、と思う。
 それに、自分を否定されたというけど、その「自分」の正体について、あなた、ちゃんと知っているの?と思う。
 
 いや、知らないんだよ。
 わたしの見た範囲においては、知らないでいる人だ。

 わたしは、他の誰もがおそらくそうであるように、自分の知っていることは相手も知っていてあたりまえのことだと無自覚に思っていて、
 相手は知らないんだ、という可能性に気づくとき、いちいちやっぱりびっくりする。
 自分が知っていることを相手が知らない、という考えてみればそれもまた当然ありうる事態について、
 なんで知らないんだろう、と感じてしまう、未熟だから。

 それはたとえば、オタマジャクシが成長するとカエルになるってことを知っている、とかではなくて、
 自分に嘘をつけば人生は詰む、とかまったく生彩を欠いたものになる、というようなこと。
  
 皆、自分のしたいことをすればいい、と思っていた。
 皆が自分のしたいことをすれば世の中メチャクチャになるって眉を吊り上げて怒るひとの気持ちが長らくわからなかった。
 わたしはむしろ、そのじゃんと感じていたから。
 そもそも、自分がしたいこと、というときの自分ってものの正体にまったく無関心で、注意を払わないひとがいるんだ、ということがわからなかった。
 
 立場は逆だが、わたしがインフルエンザに罹ったことがないというと、そんなひといるの!と驚愕されたときの、相手の気持ちはだから、わかります。
 自分の正体について思いを馳せたことのないひとなどいるの、ということにわたしはびっくりしていたから。
 
 不幸なひとは、他人の思い描いた人生を生きようとしている。

 鏡に映った自分は自分自身そのもの、ではないのに、鏡に映る自分を自分自身だと思い込むような、そこにまったくのめり込むような日常を過ごしている。
 確かに鏡っていうのは本当に正確に自分自身を映してくれる。左右は逆ですがね。
 それに、鏡に映っている自分だって、自分が見たいと注目しているところにしか目がいかないものだ。
 目が大きければ可愛いんだって思い込んでいたら、目ばかりメイクを盛ってまったく全体のバランスがとれていない、なんてことにもなるじゃありませんか。
 自分の姿を客観的に見たいなら、鏡よりも写真の方がいいと思うな。
 もっといえば、動画のほうがいいな。
 まあそれでも、注目すべきところを自分で限定していたら、同じことかな。
 
 不幸なひとって、おそらく悪い意味でやさしい。
 親の期待に応えたいとか、恋人の期待に応えたいとか、子どもの期待に応えたいとかさ。
 ちょっとそう思いつくことが罪なのではないが、
 なんだろう、期待に応えられない自分に罪悪感まで抱くというのは、やりすぎかな。
 それは他に問題がある。
 他に問題があるのに、問題のすり替えを行っている。
 
 傷つくのは、悪いことじゃない、
 悲しむのは決して悪くない。
 傷っていうのは、プレゼントだ、サプライズではあるけど。
 誰が無菌室で生まれたいものか。
 と、
 思うんだけど、こういうところだよね。

 意外と無菌室で生まれたいんだね。
 なんでなんだろう。
 それは、後天的なものだとしか、わたしには思えないんだけど。

 十代のころに読んだ萩尾望都の、「スター・レッド」のラスト間際、名前忘れた、角を折る青年(少年と言ってもいいかも)のシーンが、
 泣けて仕方がなかった。
 そうだね。
 そのときの気持ちは、「かわいそう」に近い。
 たしか(せりふは忠実ではないが)、僕は望まれた存在でありたかった、祝福される存在でありたかった、と独白して静かに自分の角を折る。
 誰だってそうだろう、と痛切に感じたら、この願いを断念して千の眠りにつく彼の思いが、自分に注ぎ込まれたら、もうだめ。泣く。
 彼はいわば、逆境の人生を歩んできた。
 世界から忌まわしき存在として警戒され、決して受け容れてもらえない人生を歩んできた。
 もう、認められることに、受け容れられたいと願う人生に疲れた、といって自分が異端であり続けた象徴である角を自らの手で折る。

 今日読んだ本で、過去世とは、過去世デパートから自分が選んだもの、という発想を知った。
 それで納得がゆくのは、
 たしかバシャールだったかと思うんだけど、自分の過去世がたとえばナポレオンだとか、いう気がしたとして、そう感じるひとは一人ではない、実際に何人もがそうなんだよっていう示唆。
 バシャールの陽気な話を聞いて、なんだろうそれは、どういうことだ、と不思議な気がしつつ忘れられなかったのは、
 こういうこと、だったんだなあという納得。
 ナポレオンなんてきっと量産されているに違いないと思うな。

 マリー・アントワネットも量産どころではないだろう。大ヒット商品、殿堂入りみたいなものかな。
 ゴッホとかも、そんな気がする。

 わたしたちは、意識の澱、無念あるいは執念を引き継ぐ。
 それはそれらを浄化するためにだ。
 さらに重いものにするためじゃない。
 さらに過去世デパートに陳列されるべき品物のコピーを飽くことなく量産し続けるためではない。

 うん、いやこれは万人にとってどうだかわからないけど。自分としてはね。