ビバ!ビジネス!
ビジネスとは、自分と相手の両方に利益があること。
自分だけ利益があるのも、相手だけに利益があるのも、ビジネスとはいえない。
そしてお金にまつわることとは単に、というか突き詰めればすべて、ビジネスでなければならない。
こんなふうに言うと、いやでもそれはと抵抗が起きてくる情景は想像できる。
たとえばそれは、
まあ知人ていどの距離感だけど、月に百万円くらいは収入があるというひとが、
今月はあちらにいくら、こちらにはいくら、という借金を返すリストを持ち歩いている。
つまるところ、返せないほどは借りない。
というくらいには自己管理、もとい、お金に関しての管理はできている。
そのひと曰く、必ず返すのだからああだこうだ抵抗せずに貸してくれたらいい。おれが返さなかったことなどあるか、などと強調する。
わたしが本当に不思議なのは、なんで借りる必要があるのか?ということだ。
百万円の収入があって、どうにかこうにか百万円で収まるようにお金をつかっているのなら、何も借りる必要はないんじゃないか、というふうにしか思えない。
これは以前父親の会社にいた従業員のひとりで、毎月二十万円の基本給から必ず五万円前借をするひとがいて、
自分の考え、自分の価値観からすれば、なんのためにそれをするのか?ということが、不思議でならなかったのと、同じだと思う。
わたしからすれば、その五万円は借りたところで踏み倒せるものではないのだから、
借りたところで自分の収入が増えるわけではないのだから、
貯金しろとまではおせっかいを焼かないがともかく、ある中で済ませたらいい、というか実際に済ませているのだからこそ余計に、
いったい何のメリットが、彼にとってはあるんだろう?ということが不思議でならなかった。
わたしなら、自分が得てしかるべき二十万をただ受け取るだけの話で、何も今月もすみませんがいいですか、などと頭を下げるような真似をする必要はない、というようにしか思えない。
彼に計画性がないわけではない。
前借しようがしまいが彼の収入は要するに二十万で、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
それで破綻せずにやっていけているということは、彼に計画性がないからだとはとても言えない。
お金に関するあれこれを自分の身でもって経験するうちにふと、
彼は二十万ぽっちでは足りないんだ、という意思表示をするために、五万円を前借していたのかもしれないと思いついた。
そうかどうかは実際には知らないが、仮にそうだとすれば、それがメリットだということはできるんだな、と気づいた。
なんで借りるんだ?
借りるメリットって何なんだ?
ということは、わたしには、まったく謎めいていて興味がつきない。
だって増えないんだよ?
むしろ金利取る相手に借りたら減るじゃんか。
もちろん金利を払っても余りある利潤を自分が生み出せているのならば問題はないが。
そう、不思議なのはここで、金利を払っても余りある利潤を生みだせるというこれが、決して、
そのまま現金で還ってくるわけではないという、
なんていうか、
感情的な何か、感情的な報酬である場合がある。
これがわたしには、雲をつかむような話で共感しがたくて、なんか困る。
興味が尽きない。
ヘアビューロン4D Plus「ストレートアイロン」すごく良い。
23:27 2019/03/28
他殺より自殺のほうが罪が重いときくと、みんな抵抗する。
実際には、罪などないのだが、
そうだとすれば、何々のほうが罪が重い、なんていうことも何も言い得ていないに等しく。
お金のことがおもしろい。
それに、ほんとうに考えなくちゃと思う、わたしだけじゃなくわたしの周りのひとたちにも考えてほしいと思う。
周りの親しいひとたちにお金の話をするとき、わたしは営業について学んでいるような気がしてくる。
みんなわりと、考えないようにしているんだろう。
だからわたしは、相手の反応が鈍かったり、あるいはまたあきらかな抵抗をしめされたりすると、自分が失敗したってことを知る。
自分が下手なプレゼンを仕掛けたんだというふうに、結果を受け取ることになる。
わたしの知り合いが、共通の知り合いに対して、並みの時給、
というよりむしろ最低時給でそれまで働いていたのを、その二倍くらいの仕事をはじめたことについて、
地道ではない仕事はダメだと評したり、するとかね。
まあ一般的にぱっと思いつくのは水商売とか。
コンビニのアルバイトは良くて、キャバクラのアルバイトは良くない、
なぜなら時給が高すぎるから、
というのは実におかしな話だ。
なんの思い込みやねんってなる。
お金をもつと堕落する、みたいなことだろうか?
そういう信念が自分を貧しい状態にとどめておくんだということに、気づく必要がある。
そもそも、自分が貧しい、ということをはっきりと自覚する必要がある。
貧しさの定義は、お金のために働いているということ。
お金がないせいで、自由がないと考えている状態のこと。
ふんだんにお金があれば、いまよりもっと多くのお金があれば、自分は豊かになれると信じていること、自分が豊かでないのはお金がないせいだと考えていること、
それが貧しい、ということだ。
1:15 2019/03/30
仕事場で、「最近仕事が楽しくない」と呟いた上司がいた。
わたしはあえてそこへは言葉を返さなかった。
自分が批判的な気持ちをその発言に対して持ったことをわかっていたからだ。
もう十年も前に、「なにか面白いことないの?」と言ってきたひとへの違和感を、あとで友人に対して吐き出していた(「何か面白いことないの?っていうひと、わたし嫌い」と言った)ことを思い出した。
「毎日が面白くないなあ、なにか面白いことないの?」とか、
「毎日の仕事が楽しくないなあ」とか、
そういうのって、馬鹿げているのを通りこして、まったく無能に思える。
おそらく何となくの軽い気持ちで、そんなふうに発言したことを、
「それは無能さのあらわれ」などとわたしから返ってくるとは相手は予想もしないだろうから、
ようするにわたしは何も言わない。
自分でも思うんだ、それってさすがにシビアだなとか、単に批判だなとか。
切って捨てるような言動は慎むべきだと思うから何も言わない。
いや、あなたじゅうぶん言っていますとかいう声も聞こえてきそうだけど。
でもここへ一つの澱が生まれる。
たしかにわたしは批判的な気持ちを抱いた。
でも批判を批判のまま表現しても、前向きなことは何も生み出せないのだと、あらためて思い知るんだよね。
仕事が、あるいは毎日が面白くないという発言って、わたしからすればだが、考えられないことで、
相手がなんでそんなふうに物事を片付けちゃうんだろうってことが、ようするに咄嗟には理解しがたい、それだけ。
自分には理解できない、ただそれだけなんだ。
つまり、咄嗟の反応ってやつはね。
わたしは最近、ヘアビューロン4D Plus「ストレートアイロン」という商品を買った。
これはほんとうにすごい。
ほんとうにサラサラ、ツヤツヤになり、わたしの軽くパサパサした髪が、しっとりと重くなる。
もう髪に何もつけたくない、素の髪が一番きれい、と思えるほどになる。
で、髪の洗い方、乾かし方にも気を遣うべきだとなおさら思い、
YouTubeでこうして洗ってこうして乾かせば髪はきれいになるよっていうのを視聴して、なるほどと納得して、
動画に対して千に近いほど寄せられているコメントを読んでみると、
ほとんど批判的なの。
いわく、38度のお湯で洗うなんて北国の冬には無理、とか、
2分の予洗い、シャンプーのち3分のすすぎ、トリートメントのちまた3分のすすぎ、なんてガス代いくらかかるの、とか、
モデルの髪質がもともと良い、もっとほんとうに傷んだひとをモデルにしてくれたらよかったのに、とか。
いや。
わたしはほとんど感動さえ覚えた、これ。
禁パチ・ブログの一ページで読んだ、かつて自分はパチンコをする理由を探し出すプロだった、という秀逸なタイトルを思い出すようだった。
ほんとうにただまっとうなこと、地道なこと、丁寧なやり方を紹介している動画が、なぜこうも八割がた批判的なコメントで埋め尽くされているのか。
それはもはや、それがまっとうだから、地道だから、というしかないのではないか、という気がした。
「それを出来ない理由」をさがすのが、皆ほんとうに得意だね。
たとえば、わたしは本をあびるように読むんだけど、それはただそうしたいからそうするだけ、
本を読むと、本が本を紹介してくれてキリがない、という感じになる。
わたしは単に衝動にかられて読み漁っているだけ、なんだけど、
家で何をしているんですかとか、趣味は何ですかとか、質問をされて、だいたい本を読んでいるかなとわたしは答える(実際には家では読むより書いている方が多い、それはもっと相手の的外れな関心を長引かせるだけと思われてわたしは言わない)、そうすると、
なかなか本は読めなくて、などと弁解するかのように言ってくるひとが必ずいる。
読みたいと思ってはいるけど、読む時間がないとか。
わたしは馬鹿みたいに、ちょっとぽかんとしてしまう。
いや、別に読みたくないなら、読まなきゃいいじゃん。
読みたいなら読むだけのことでしょ。
いったい何をいわんとしているのか、意味がわからないと思う。
これについては、いま読んでいる本「リッチ・ウーマン」で、
時間がないというのは、いまやっていることの方が重要で、新しいことをする余裕もそんな気持ちもない、
という表明、ただそれだけ、というのが当たっている。
なにごともようするに、あなたにとっての優先順位がいかにあるか、ということに尽きる。
わたしは優先順位の大切さ、あるいは妥当性について、仕事をはじめてからつくづくと実感した。
わたしはほんとうに社交的な人間ではないし、愛想もないし、どちらかといえば取りつく島もないという感じだし、照れ屋でもあるし、自分の自意識過剰について実になんとかしなければ自分がただ不便だという思いをもつほどに、ようするに器用な方ではなかったと思う。
でも、仕事、最初は学生のときのアルバイトだ、
わたしはこれまで実際のところ接客業しかしたことがない。
高校生のとき、社会の授業で、これからはサービス業がメインになるっていう教科書の文言を、まったくアルバイトもしたことがなくまるでピンときたわけでもなかったのに、いまでもなぜか覚えている。
ともかく、接客業からはじめて、いまもそうだ。
わたしが最初に学んだのは、おもしろいと夢中になったのは、いかに効率を上げるか、ということだった。
いや、効率といえばそれはまったく深く、何がそうとはとても網羅できないような何かではある。
でもともかく、効率を上げるのは楽しい、とはっきりと感じられたのは、仕事をはじめてからだった。
仕事って自分だけで好き気ままに過ごしているだけでは、思いもかけないような問題が起こる。
仕事だけじゃなくて、人生そのものもまたそうではある。
イヤでも、苦手でも、立ち向かわなければならないこと、お互いにとって決して勝ち負けではなく妥協点あるいは協力、共感、理解する点を見出さなければならない、という状況に追い込まれることがある。
これが、楽しいよね。
とわたしは思ったし、そうは思えないんだけど、というひとに、
いったいどうすれば、どう表現すれば、それも楽しい、それが楽しい、というふうに思ってもらえるだろうか、というのは、
なんだかわからないけどわたしは自分の課題あるいは、学びだというように思うよね。
だって世の中不愉快だという顔をしているひとを見ると、わたしはいまだ、自分まで不愉快な気持ちになってしまうからだ。
わたしは、自分が女だからこそ、女のひとが好き。
わたしはさ、ほんとうに、女、
自分が女だからこそ、女が好きなの。
男がどんな悲惨な末路をむかえようと、わたしは決して同情したりなどしない。
男って最悪、そんなものにもなりうる役割がある、それを引き受けているんだから、と思うだけだ。
でも女の人が悲惨な目に遭う。
これはわたしには耐えがたいし、許しがたいと思える。
ほんとうに、そう思う。
男は引っ込んでいな、と思うほどにだ。
男など所詮、遊びに来ただけの存在だ。
だから思う存分遊べばいい。
そう、思う存分ただ、遊べばいいんだ。
ほんとうにね。
そしてそれを、わたしは、女の人に対してもほんとうに、思うんだ。
女の人が優しければ優しいほどに、
自分を犠牲にすればするほどに、
愛おしくてならない、同情せざるを得ない反面、
ものすごくもどかしく。
最後の一人がこの梯子を昇るまでわたしは、見守りたい、付き添ってあげたい、
わたしにその強さがあればどんなにいいだろう、と思うとなんだか、
なんだか泣けてしまう。
それは自分にはそうするだけの覚悟がないことを、あらかじめ知っているからかもしれない。
子どもの罪悪感の上に、平気であぐらをかける親が、わたしは大嫌い。
1:18 2019/03/21
猫といっしょに過ごしている方がよかった。
少なくとも、死にかけているひとを見に行くくらいならば。
よくおばあちゃんに言われた、あんたは結婚もしない、でもそれでもともかく、どうであろうと、
お金だけは持っておかなければいけないよって。
わたしはどこかよそごとのような気持ちでそれを受け流していた。
お金がなんぼのもんじゃいとでも、要するに思っていた。
お金は本当にミラクルだよね。
いまはそう思う。
困ったことがなかった。
困る状況を望んだこともないし、不安になったこともない、ほとんどね。
2:02 2019/03/22
お金を貸さなかった。
お金をあげなかった。
ということが、このところ頭から離れないんだと思う。
自分の母親は道端で出会った、困ったひとを見たらあるだけのお金をあげてしまうひとだった、と言ったのはインドの、アメリカでヨガの普及活動を行ったひと。
ヨガナンダ、だったかな。
結局ひとが何をしたか、ということは、
外側からはかれる行為そのものというよりも、行為に及んだ動機がどうであったか、ということに尽きるんだと思う。
それは目には見えない。
それは目には見えないんだ。
なんだって営業つまりセールスなんだ、という言葉の変換、あるいは発想の転換を最近好んでつかうわたしは、
自分の意図をどう表現するか、ということも要するにそうなんだ、という気がしている。
お金を嫌ってはならないよ。
同じことだが、お金を蔑んではならないし、恐れてはならない。
もちろんこんなことは、お金だけに限った話ではないんだ。
お金とは愛だ、お金とはエネルギーだっていう話をきくと、ああ、そうだねってわたしは思う。
愛とは要するにあたりまえにしてそこにあるもの、そういう意味でもそうだと思う。
人間って、放っておけば不幸になるんだと思うという話をしたこともある。
不幸だし不運だし不健康だしお金もない、というひとに。
やっぱりちゃんと自分でメンテナンスしなきゃならないし、マネジメントしなきゃならない。
幸福でありたいのならね。
幸福で、幸運で、健康で、お金に不自由しないためには、
放っておいてはならないんだ。
人間、とくにこういう時代においては、放っておいたら鬱病にだってほんとうに簡単になってしまう。
つまり、それは特別な「病」でもなんでもなく、誰だってふとすれば罹ってしまうようなことだと思う。
わたしは美しいものが好きだ。
わたしは美術系の高校へ進んだ。
そして石膏像の木炭デッサンの授業で、わたしの絵を前にして、先生が言った。
「なにを描いても、描かれた対象を美しくしてしまうひとっているんですよね」と。
わたしは実際のところ、ジレンマにも似た居心地の悪さを感じたものだ。
確かにわたしは筆をとるのなら、美しく表現することしか、できなかった。
まるで自分の脆さについて指摘されたような気持ちさえ、深読みすれば味わった、実に印象深い体験だった。
平たくいえば、喜んでいいのか、反省すべきものがあるのか、実に戸惑ってしまった。
きっとあのときそう評してくれた、男にしては可愛らしい顔をした優しくてお茶目だった先生は、喜んでいいんですよと、言ってくれるんだろうなと想像に難くないが。
要するに難しくもなんともなく、単に個性なのかもしれないよね。
2:11 2019/03/28
人と話をするのが楽しくてしかたがない。
これは「創作」の観点からすれば浪費だって本当に思う。
たしか筒井康隆が同じようなことを言っていたはずだ。
自分が感じた思いを、喋ってしまえばそこで散じ、消化され、形あるものを生み出す原動力をどこか、削がれてしまう。
たしかにそうだ。
たしかにそう、なんだけど、喋ることによって促される確たる自分の思い、というものに気づくことができるのもまた真なんだよね。
友達に会って、色んな出来事があったことを喋っていた。
喋るうちに喚起されるものがあり、
子どもの罪悪感の上にあぐらをかく親が、ほんとうにわたしは大嫌い。
そんなことも言った。
わたしはほんとうに恵まれている。
わたしのおばあちゃんがよく言っていた。
繰り返し、くどいくらいに言っていた、
あんたはいつになったら身を固めるのか、いつまでもふらふらとして、
結婚を必ずしもしなければならないわけではない、でも、
お金だけは持って置かなければならないと。
年を取って、自分の身も思うにまかせないというとき、お金がなくて他人の世話にならなければならない、ということがどれだけみじめなものかと。
いや、そうだよね、とわたしは思う。
それを最初に聞いたときわたしは、「何が起こるかわからない、そのときに備えてお金をとっておく」なんてまったく貧乏くさいな、としか思わなかった。
それは、いまでもそう思うんだ。
でも、それと、これと、
つまり、何を動機としてお金を持って置くか、ということはおばあちゃんとは多少違う見解がわたしにはあるが、
ともかく、お金くらいは持っておかなければならない。
ということに関しては完全に同意する、ようやく、いまになってね。
すべてのひとがお金持ちになるべきだ、と思う。
わたしの親は、子どもの罪悪感を養成し、その上にあぐらをかく、というようなことは決してしなかった。
親もそうだし、親の親もそうだった、両親共にね。
だから、わたしは恵まれている、とほんとうに思う。
こうなれば、あなたは恵まれているから、と言った、それこそ子どもの罪悪感を実に巧みに養成し、その上に平気であぐらをかくような親、のもとに生まれてきたひとの言説にも、
もういい、わかった、たしかにわたしはそうだ、あなたの言うように恵まれている、と認められるほどに。
学びについて思う。
苦境や逆境、あるいは困ったことっていうのは、実際チャンスなのだと思う。
人間って、ほんとうに困らなければ、何かを、自分を変えようという気にはならない。
わたしが恵まれた環境のもとにぬくぬくとして、そうだからこそ朗らかさや、軽い波動を保てていて、
あなたにはわからないんだ、と言われることがこの先にもあるだろう、あるとして、
それでもわたしは、それが自分の良さなのだと信じることが、いまはもうできる。
だいたいわたしは自惚れの強い人間なんですね。
わたしはほんとうに、お金に困ってみたかったんだと思う。
困ったことがないから。
それは大したことではなく、ほんとうに知れている程度の、困ったことだと認識している。
何も命まで取られるわけじゃない。
何も死ぬようなことじゃない。
お金は大事だ、でもお金のために死ぬとか、自分の人生をお金のために犠牲にするっていうのは、
もう単に馬鹿げている、としか言いようがない。
そうじゃないじゃん。
そうじゃなかったはずでしょう?と思う。
死を超越した永遠の命を見つけられるチャンスは、誰にでも等しく与えられている。
どっかでペテンにかけなきゃならないんだな、という気がする。
ペテンにかけるっていうのは、それを多くの人にとって「わかりやすいもの」に変換する必要がある、ということ。
どこか遠くの知らない誰か、の身に起きたまるで実感のわかないこと、共感できないこと、みたいに話をするのではなくて、否が応でも自分の身に置き換えてしまう、という「高度な話ができる」ようになる、
必要がわたしにはある。
このところ、「自閉症」と、「ドナルド・トランプ」と、「営業とは」について交互に読み進めている。
ドナルド・トランプに関してはあと一冊、「敗者復活」を残すのみだが、
ロバート・キヨサキは、妻のキムの写真を見たらわたし好みの美人なので、キムの著作も読むことになる。
「あなたに金持ちになってほしい」という実にあけっ広げなタイトルの本を、他のものと並行しながら長らく読んできた。
最終章において、ロバートが、ベトナム戦争に軍人として出立する軍事学校の生徒(ロバート)にむかって、教官の一人が話してくれた話をする。
手元にないので正確ではない引用だが、
「自分の命を差し出す覚悟ができた者から、永遠の生命を見ることが可能になる」
というような、
いや、手元にあれば実に引用したい、こんなものではない。
つまり、ペテンというと悪いもののようだが、わたしにとっては悪いわけのないペテンが、要するにわたしは下手糞すぎて、もどかしい。
リーダー、というと、そのグループにおいてたった一人をさす。
でも本当は誰しもが、リーダーになれる。
自分自身を統合できないものは、リーダーにはなれない、という意味において。
23:49 2019/03/18
「きみらはもうじきベトナムに行く。そして、すぐに、リーダーにとって最もむずかしい課題に立ち向かうことになる。他人の命を守るために自分の命を犠牲にしろと部下に命令することになるんだ。そこで、きみらに聞きたい。きみらもそれと同じことを自ら進んでやる気はあるか?」
指導教官は、話を聞いていた私と副操縦士に考える時間を少し与えてから、こう続けた。
「自分の命を喜んで差し出そうという気があれば、死を超越した永遠の命を見つけられる。人生には、たいていの人がそれを避けながら一生を過ごすような瞬間がある。きみらはそんな瞬間に対して、ちょっと普通とは違った形で真正面から立ち向かうチャンスを与えられる」
お金が面白くて、その面白さに夢中になる。
もうなんとなくの貸し借りはしない、と思った。
貸し借り自体が悪いわけではなく、それはビジネスでなくてはならないのだと。
というのは、なんだってビジネスなんだということで、
そうした自覚のないお金のやりとりは、ようするになんていうか、ただ漫然とした先延ばしにすぎないのだ、とでもいうような。
で、明日わたしはもう、貸さないと決めたひとにお金を貸そうとしている。
いや、あげる。
もちろんあげるとは言わないが。
他者への批判的な思いが、わたし自身を殺してしまう。
自閉症のひとが、批判がわからない、批判的な気持ちを持ち得ない、というのは、
皆が皆そうなのかどうなのか知らないが、
わたしには圧倒的な事実として迫ってくる。
つまり、わかる。
しかし、自分には批判的精神はないというからには、批判とはどういったものなのか、知っている必然性はある。
それがない、というからには、それがある状態を想像できるくらいの認識は必要だ。
これは幸福について、
自分は幸福ではない、というからには幸福である状態がどんなものか知っている必要がある、
というのと似ている。
貸さない、あげる、で思い出すのは、
闇金ウシジマ君の、サラリーマン君編で、
同僚がバクチに嵌ってしまって、借金を繰り返し、貸す方がもうこれで最後だ、と何万円かをつきつけて、連絡をしてくるなと言い放ったとき、
借りている側が、こんな何万円かでおれを捨てやがって、というか、見切りをつけやがって、というか、
なんかそんなふうに恨み怒りを募らせる。
わたしはこのシーンを読んで、本当に本当に、あぜんとした。
仰天した。
怖いと思った。
そんなこと本当にありうるのだろうか、というほどの、
要するに逆恨み以外の何物でもないのだが、
本人としては、そうではない、という認識がもう、とても怖かった。
こういうのはさ、
なんていうか、
なんだろうなあ。
もう何をどう考えるのも、どう受け取るのも自分次第だということの、
わたしからすれば最悪の例を出されたような気分であって。
自分だけでは想像もつかないようなことがある。
つまり、自分ではないひとが、起きたものごとをどう受け取るか、ということのありとあらゆる多様性、可能性の違い、
こうまでも違う、ということのあまりにも予想外な反応に対して、ただ圧倒されてしまう、という経験だ。
そしてどうにもやりきれず、むくむくと頭をもたげる、批判的反応。
わたしが好きな男前である中村天風、の著作のなかに、こんな話がある。
戦争で混乱を極めたあの時代において、処刑される寸前でもひるまず、目隠しなどいらん、額を狙えと言い放ったほど命知らずだった自分が、
戦後、病にたおれて、病室で母親が、ごらん月がきれいだよ、と病気の息子をなんとか力づけたく思ってかけてくれた言葉がけに、
月がきれいだろうが何だろうが自分には取るに足らぬ関心も持てぬことと、窓の方を見もしない、
そうした自分の心の貧しさにつくづくと嫌気がさす、という話。
いつのまに自分はこうまで弱くなってしまったのか、貧しくなってしまったのかと、愕然としたと。
逆境はチャンスに満ちている。
わたしは自分が逆境の立場にある、というわけじゃないんだ、残念ながら。
それでも、お金に困っているひと、経営がうまくゆかず立ち往生して底の底まできたという人と話をしていて、わたし自身もそれにまったく関わっていないわけではない、という経験を通して、
ああ、そうか、わたしはお金に困ってみたかったのかもしれない、とふと思った。
困らなければ気づかないこと、というのは事実、山ほど、それこそ星の数ほどもある。
あるいは病もまた、そうだ。
病というのは本当に、不思議だ。
病、そんなものがあるのだとして、とわたしは思う。
病気であれ貧困であれそれは、たしかに克服しがたいほどの、だが要するにチャンスなんだ。
死ぬのなら死ねばいいと思う。
死にたいのであれ、死にたくないのであれ、死ぬしかないのであれ、ともかく死ねばいい。
だが、どうあがいたところで、本当には死ねない。
お金持ちが天国へゆくのは、らくだが針の穴を通るようなものだ、
という聖書の言葉は、
善人でさえ救われるのだから、まして悪人が救われないことがあるだろうか、
という親鸞の文言に実によく似ている。
それはいわば、試練の多さを示している。
お金を持つ、ということは試練がそれだけ多くなる。
誰だって善人でいたいし、自分を悪人だなどと思いたいひとはいない、
つまり悪人と誹られるだけのことにはそれ相応の試練がある、本当に。
なにも死ぬことはない。
わたしはこんなにも億劫がってみせた。
だから、億劫がるってことは良くないんだ、
ということを、
言おうとしてふと見渡せばやっぱりわたしよりもっと億劫がっているひとたちの姿が見える。
まだ足りない。
でもこんなことは、たしかにいつか、いつでもどこか、感じ続けてきたようにまったくキリがない。
比較の世界では、単にすべては相対的なものに収れんされてしまう。
ともかく、「いかに表現するか」ということしか「絶対」の中へは組み込まれないのだ。
0:19 2019/03/15
わかったと思うことが一つできたら、わからないことが三つ増える。
それまで何とも思わなかったことが、なぜなんだろう?と知りたくなり、それらはどんどん増えていく。
わたしはそのことにうんざりはしない。
むしろ、どんどん知りたいことが増えていくという事態にまったく夢中になる。
俗にいう、嬉しい悲鳴を上げている状態に近いかもしれない。
わたしは「自閉症」が気になって気になってしかたがない。
興味をひかれてやまない。
というわけでついに、「自閉症だったわたしへ」を手にした。
この本の存在を二十年も前から知ってはいた。
でもその頃は、自閉症についてさして興味もなかったので、読もうとは思わなかった。
わたしが自閉症についてひかれる理由は、乱暴な言い方かもしれないが、要するに程度の差はあれ皆自閉症じみている、という認識があり、自分にも関わりのある話だと強く感じるからだ。
それ、が存在しているのは、これという一つの理由だけということは、できないだろう。
それはまるでプリズムが光のあたる角度によって虹色を映し出すように、たった一色ということはないんだと思う。
なんでもがそうであるように、自閉症に関しても、そうと診断されるには、よっぽどそうであるという度合いの深さがいる。
一つの尺度でいえば、生活に困難をきたすレベルであるとか、
「行政による支援」という立場からも、どこかに線引きが必要とされている。
でもわたしは、行政の都合はどうだか知らないが、そこに本当に明確な断絶があるわけではなく、自分とも誰とも地続きの関係はどこかしら必ずあるのではないか、と感じている。
「生活に困難をきたす」度合いのそれについて、支援が必要ではないとか、
たとえばだが、目の見えないひとは単に見える努力をしていないだけとか、
そんなことをいうつもりはない。
ヘレン・ケラーの話を昔子どもの頃に読んで、呆然としたし、ものすごく不思議だった。
それはいわば子ども向けのダイジェストともいうべき、端折られた話だから、細部については触れられていない、それで謎が残ったのだと思うが、
水にふれ、てのひらに指でWATERと書かれて、「これがそうなんだ!」という超能力レベルの閃きはいったい全体どこからやってくるのだろうか、と心底たまげてしまった。
わたしがもし、目も見えず耳も聴こえない世界に住んでいたとしたら、彼女のような閃きがおりてくるのはまったく到底不可能なのではないか、と思った。
わたしが不思議だったのはその回路を彼女は、導いてくれる存在がいたとはいえ、いったいどうやって見出したのだろうか、ということだ。
わたしは自分がどうやって物が見え、どうやって耳が聴こえているのか、本当には知らないんだ。
つまり自分がどうやってそのことを可能にしているのか、ということのからくりをつぶさに実感し、ひとに説明できるようにはわかっていない。
わたしの友人で、自分の子どもの発達が遅れているのではないか、もしかするとそれは「障害」と呼べるレベルのものなのではないか、と気を揉んでいるひとがいる。
ほかの子どもと同じようにふるまえないことで、いまは良くても将来爪はじきにされたり、困ったことになるのではないか、と心配している。
それは、わたしからすれば、彼女自身の心配であり、不安なんだよね。
そんなことをいえば何だってそう、ともいえるが、
つまり心配なんてそんなもんだ、という意味では。
この子が本当に将来困ったことになるかどうか、そう受け取るかどうかは彼が決めることなんじゃないの、とわたしはおそらく親ではないゆえに冷静に思ってしまうのかもしれないが。
わたしがふと考えこんでしまったのは、続けて彼女が、
「障害があるのなら障害があるといっそ認定された方が、子ども自身も楽なのではないか」
と言ったことについてだ。
そうなんだろうか。
わたしは、目の見えないひとがたった一人だけいる世界を想像した。
あとは皆、目が見えているので、「目が見えている」ということがどういうことなのか、
そもそも誰しもが自分は「目が見えている」のだという認識もないという世界に、
たった一人だけ「目が見えない」状態で生まれてきた人がいたとしたら。
彼はものすごく確かに孤独で、誰からも理解されない。
なんでこんなところで躓くんだとか、なんで自分から電柱にぶつかっていくんだとか、この標識をなぜ無視するんだとか、そんなふうに責められているところを、想像してみた。
たしかにそういう世界では、
「あなた方には「目が見えている」が彼には「目が見えない」んだ」
と、ほとんど神様のように宣言してくれるような存在が必要かもしれない。
そうしたら、やっと、物事は平和な解決に向かって動き出すのかもしれない。
でもわたしが思うに神様は何も宣言しない。
神様は「立場」をもたない。
「立場」をもたない、それはどういうことかといえば、どんな発言もどんな特定の目線も持ち得ない、要するに人間が可能なことは神様には不可能なんだってこと。
障害があるのなら、障害があると大っぴらに認定される、
それはつまり、なんていうか、カテゴライズされるということだよね。
彼は彼の所属すべき居場所を獲得する、というか。
たぶん。
そうなんだろう。
わたしはそう、何かに所属するとか、自分の居場所とか、そういうのをなんでだか知らないが。
ほんとうに、なんでだか知らないが、そういったものへの価値を見出せないところがある。
そうであるということの、負の面を見ているのかもしれない。
たとえば、日本でなら、あの戦争中なぜ、国のために死ぬことが尊いと思えたんだろう、
そうは思えないひとが非国民だなんて、なぜ誹られたんだろう、
わたしがもし、あの時代あの日本で生きていたら、いったいわたしはどんなふうにふるまっただろうか、
ということを、実にまじめに考えこんでしまう。
「あのころはフリードリヒがいた」という本を読んで、
これはハイル・ヒトラーに親も属するドイツ人の少年が、かつて分け隔てなく遊んだ友がユダヤ人だというだけで、防空壕へも入れてもらえず死んでしまった、ということを本当に淡々とした目線で描いた本だ。
淡々とした目線で。
というのは、何の言い訳もなく。
何の自己正当化もせずにただ、起きたことを克明に綴っている。
わたしはこの本を読んだときにも痛烈に、感じた。
もしわたしがこの場に居合わせたとしたら?
いったいわたしはどういった人間だっただろうかと。
彼にも防空壕へ避難する(生きのびる)権利がある、と子どもでありながら大人を説得できただろうか。
あるいはまた、ユダヤ人の彼の立場だとすれば、絶望的に不利な場所に留まることはせず、何としてでもとっとと国外へ逃れ出られたのだろうかとか。
死ぬことは怖かった。
ほんとうだ。
わたしはほんとうに、死ぬってことが小さな頃から、小さな頃には怖くてたまらなかった。
たぶんだが、いまになって、あるいは死に直面してはじめて、急に怖くて震え出す、なんていうことがないようにしたかったんだと思う。
だから「九日間の女王さま」で、レディ・ジェーン・グレイが、
もちろんそれに震えながらも、断頭台へと歩んだ姿、その精神を知って、
いったいどうすれば、そんなふうに、さまで無様に取り乱すことなく最期を迎えることが出来るのかと、
本当に心の底から衝撃を受けた。
わたしはあれを読み終えたときの呆然とした気持ちを今でもはっきりと覚えている。
薄暗い夕暮れ時、読む進めるには灯りを点けなければと思いながら、ついに灯りをつけるために立ち上がることさえできないまま、読み終えたときのことを。
それからまた、なぜ、彼女は逃げ出さなかったんだろう、
なぜ、彼女は死ななくてはならなかったんだろう、
彼女はどうして死を受け容れ得たのだろう、
もしくは、何がどうなれば彼女は生きのびることができたのだろうかと。
ともかくそれほど、生きていてほしかった、ただ。
何も死ぬことはない、と思えた。
そうだ。
つまりいま、わたしは、それを体験しつつある。
遠からず近からず、だがいまにも死にそうだ、という状態のひとがいる。
わたしは何も死ぬことはない、と思う。
彼自身、死にたくないと言っている。
わたしはわたしの罪悪感を打ち消すためにだけ、彼と接するのは間違っていると感じている。
あるいは、同じことだが、自分の正義感を貫くためにだけ、彼と接するのは間違っていると感じる。
わたしは基本、楽観的な人間だ。
ドナ・ウィリアムズの、身体に対する暴力ではわたしを傷つけることはできなかった、
という表明は、
わたし自身が果たしてそうであるかどうか(わたしは身体に対する暴力で傷つかないでおれるかどうか)はともかく、
ものすごく楽観的というか、希望に満ちた宣言だと感じた。
ものすごく強い。
ルワンダのジェノサイドを生きのびた少年の自伝を読んで、
わたしが一番衝撃的というか、むしろショックじゃなくて、ただ涙が溢れてしかたがなかったのは、
ジュネーブかどこか、ヨーロッパのどこかに亡命して、そこの神父さんだか牧師さんだかが養父になってくれて、
そのひとについて、足を切られ、目を抉られた少年がいうんだ、
「彼(養父)はほんとうに魂の根深いところでぼくを救ってくれていた、彼自身はそうしているとも知らずに」と。
わたしはここの叙述に、本当に心を揺さぶられる。
なんという美しさだろうかと。
その牧師だか神父が美しいんじゃなく、それをそうと受け取る彼が美しいと感じて。
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母親は孤立しうる、だからわたしは、母親という立場への同情を禁じ得ない。
物語に惹きつけられる。
要するにすべては物語なんだ、というほどに。
わたしは実際のところものすごく冷静な、醒めた人間で、
たとえばそれはどういうところかと言うと、小学生のころふと、お母さんが同級生の一人だったら、どんなふうな関係なんだろうな?
もしかすると、口もきいたことがないような疎遠な関係かもしれないぞ、と想像してみたりしたところ。
この話は誰にしてみてもあんまり共感されたことがない。
補足するとわたしも母親もどちらかというと、よっぽどな場合をのぞいて、自分から相手に関わろうとする、という積極性がない。
もちろん大人になればなるほど、そうではなくなる。
わたしたちは共にそうだった。
というのは、なぜか強烈に覚えているのが、家族でガソリンスタンドへ寄り、わたしがトイレを借りたくて、トイレの場所を店員さんに訊ね、無事トイレを済ませて車へ戻ると、
あんたはどうしてそんなにツンと澄ました態度を(店員さんに対して)取るの、と可笑しそうに揶揄するように母親に言われたこと。
もちろんわたしからすれば、あえてツンと澄まして見せた、なんて自覚はなかったという驚きでもあるが、
もっと言えば、
まさかよりにもよって、お母さんにそんなことを言われるなんて、まったく心外でしかない、という気持ちでもあった。
そんなことを言うなら、あなただって随分ツンとしてきたと思いますよ、ということにあらためて気づいた、というか。
あなただって昔はそうだったでしょ、ということが、なんていうか、そのやりとり、その醸し出される空気感のうちに、わかってしまったのだ。
このわかってしまった、という知覚は不思議だ。
それは洞察などというものではない。
お母さんの揶揄するような口吻から、洩れ出るように否応もなくこちらへと伝わってしまったのだ、という他はない感じだ。
ともかくわたしには醒めた目、近視眼的なものよりも俯瞰した目、を好むところがあって、
それはもう、だってその方が見晴らしがいい、そしてわたしは見晴らしの良いほうが好き、ということに尽きるんだけど、
それでも、他人の創った物語に没頭する、ということは、経験しえた。
むしろ、そうした経験を通じてはじめて、近視眼的な物の見方の良さ、というものを獲得できた。
そして、そうしたことって要するに、皆そうなんじゃないかな、という気がする。
もう適当な例えは思いもつかないけど、
何それ信じられない、嘘でしょ、ありえないでしょっていう話についても、
よくよく相手の身になってみれば、なるほど、と思えることもあるでしょう。
なるほどなあ、を通り越して、自分の身に起きたことでもないのに、なにそれ許せない、悲しい、腹が立つ、あなた黙っていることなんてないよ、あなたが黙っていたってわたしが代わりに声をあげる、という激しい気持ちさえ抱きうる、ということがある。
その、よくよく相手の身になってみれば、
というところが要は、「物語」の果たす役割だと思う。
最近とりあげた例なら、
知的障害の、犯してもいない罪ゆえに処刑された彼。
この事件そのものは1900年代前半のことだから、時代が違うってこともある。
アメリカで起きたことだから、国が違うってことでもある。
よその国の遠い過去に起きた事件で、
だからこそ簡単に、彼の置かれた状況に感情移入しやすいということは絶対にある。
誰もが、「知的障害であること」を自分では選択せず、1900年代はじめにアメリカにて生まれたということがどういうことかを身近に自分のことのように感じ取ることもなく、それだからこそ、
抽象的に、抽象度を上げることによって、
感情移入し得る。
最近日本で起きた事件なら、シングルマザーで、彼氏と同棲して、子どもを虐待して、なんていうのがある。
わたしはこういうものは本当に、時代が下れば、
この子どもを虐待してしまった母親に対しても、同情が集まるんじゃないか、と思っている。
別に同情する必要はないんだけど、少なくとも、すべて母親が悪いっていうふうに悪者としてだけ、まつりあげられるってことは、なくなるだろうと思っている。
要するに、誰が悪者で、誰が犠牲者かっていう、そうした物の捉え方というのは、
すたれていく。
もうそれは、すたれてゆく、必ず。
そもそも、「必ずや悪」であるはずの「誰か」を求める発想って実に乳臭いじゃないか?
女であればだいたい誰もが母親になりうる、という状況において、
母親になるべきではなかった、母親としてありえない、母親失格だ、
なんて後出しで非難されている姿を見るのは、わたしはなんとも言えない気持ちになる。
誰だって、その母親、でありえたかもしれない状況なのだとしか思えないんだ。
ああ、もう、わたしはそうじゃない、なんて言わないでね。お願いだから。
わたしだってそう言いたいのはやまやまだという気持ちをどこかで抱いているのだから。
でももしかしたら、非難される母親はわたしだったかもしれない状況もありうる、という凍りつくような思いが、わたしを寸でのところで引き止めているだけ。
十四歳(十六歳だったかも?)のシーラが、知的障害を抱えた、里親に引き取られた男の子を誘拐する。
その里親が、引き取った子どもは自分たちの望むような子どもではなかったのではないか、と一度は引き受けた里親の立場を放棄して、ごみ箱に捨てられていた彼をまたごみ箱に戻すかもしれない、という話を聞いて、
矢も楯もたまらず、そんなことはさせられないという衝動にまかせて、
その子を里親の元から、連れだしてしまう。
一昼夜、あるいはさらにもう一晩、その子どもと共に過ごした挙句、シーラはその子を連れてトリイ(シーラの元・先生であり、その男の子の現・先生)のもとへ戻ってくる。
トリイの庇護を求めて、疲れ切った姿で。
シーラが連れ出してしまった男の子にはトリイは、疲れたわね、こちらへ来てゆっくりお休みなさいと寝床へ誘う。
シーラに対しては、なぜこんなことを、と詰問しかける。
シーラは、その詰問を受けつけず、お願い、わたしにも彼に言ったように言って、という。
疲れたわね、こちらへきてお休みなさいと、
言って、お願いだから、
お願いだから彼のように休ませて、彼にしたように労わって、今晩だけでも。
シーラは彼の里親でもない、まして母親でもない。
それなのに、そうした立場へと身を置きうる彼女。
いやむしろ、かつて捨てられた自分と、その男の子を重ね合わせた結果、幼い子どもの保護者として「あるべき姿」「果たすべき役割」を、衝動にまかせて買って出てしまった、というなりゆきだ。
それは(その男の子と)同じように、ではないが彼女自身が、傷ついた(気づいた)経験を忘れずに覚えているからだ、本当にただそれだけなんだ。
母親、という立場は孤立しうる。
母親は孤立しうる、だから、わたしは母親という立場たるものへの同情を禁じ得ない。
本当によく考えてみて。
自分の子どもが、はたから見て危機的状況に陥っている、なのに母親たる彼女にはそれがそうだとわからない、という状況が果たして彼女が真に望んだヴィジョンだったと、いったい誰に言えるだろうか。
自分の子が、全身傷まみれで、あるいは病におかされていて、
明日をも知れないというときに、
仕事であれ娯楽であれ、子のそばについていてあげられない。
本当には、子の身になってあげることができない。
いったい誰がそんなことを望むだろうか。
そんなことを良しとするだろうか。
誰も良しとはしない。
少なくともあなたは良しとはしない、そうならば、
お願いだから、彼女を責めるのではなくて、一緒に解決する方法を考えてあげて。
一緒に、どこの誰とも知れない相手の気持ちがわかるようになる、ための手助けを試みてあげてほしい。
子どもだけを、労わり、寝床へと誘わずに、子どもの身に起きたことを我が事のように重ね合わせてしまった彼女が、意図せずしでかした暴挙をも、労わってあげてほしい。
だってそれが、最初に「あるべきではない状況」への怒りを感じたあなたの、本当に望むヴィジョンなのだと思うから。
傷ついたものを保護すべきだと思うなら、実際その道はとても険しく、困難にみちている。
まるでそれは、ラクダが針の穴を通るようなものだ。
誰だって子どもだった。
自分は生まれたときから大人で、扶養すべき自分の子どもさえ抱えていてね、というひとなどいないのだ。
誰だって子どもだった。
誰だって生まれたときからこの世界を、この世界たらしめるものについて、そうでしかありえないと、ゆるぎなく認識していたわけじゃない。
生まれてすぐ立って歩き、話し出したひとなんていないでしょう。
少なくとも、あなたもわたしも、あなたの親もわたしの親も、そうではない。そうでしょう?
わたしはよく、お母さんが子供だった頃のことを想像してみようとしていた。
お母さんがお父さんと出会う前のころ、出会った頃のこと、そしてお母さんが子どもを授かり、産もうと歩みだした気持ち、それってどんなだったのだろうと想像してみた。
お母さんはわたしくらいの歳のころ、たとえば十歳とか?って、どんな女の子だったのだろう?とか。
どんなに想像してみても、追いつかないんだよね。
わたしは、思い出せば笑っちゃいそうなことだが、母親による印象的だった宣言を覚えている。
お母さんは家事に向かない、洗濯物を畳んでも、洗い物をしても手が荒れてしまうんだから (手伝ってくれなきゃ困る)って、
その荒れた手を見せてくれた。
正直わたしにはその因果関係はわからなかった。
要するに家事はしたくないんだろう、なにもそのために実際に手を荒らす必要なんてなかったのに、と思ったことを覚えている。
お母さんは美しかったから、手までも美しい方が、彼女には似合っている、と感じていた。
お母さんはフルタイムの仕事をしていたから、
そのせいもある。
ああ、家にいて主婦みたいなことをするのは、この人の望むヴィジョンには合わないんだろうなあと思った。
まあ時代もあるよね、いま思えば。
わたしは自分のお母さんについて、美人だと思っていたが、親しみやすいひとだと感じたことは、子どもの頃には、なかった。
いまはそうではないが。
いや、ようするにお母さんってひとは、どことなく子どもが苦手なんだよね。
いまだってそうだ。
わたしは、わたしの弟の子ども、わたしにとっての甥、お母さんにとっての孫、への接し方を見ていてもつくづくそう感じる。
実際わたし自身も子どもはどことなく苦手、なので勝手にお母さんの気持ちを代弁させてもらうと、
大人ぶること、つまり子どもを自分と対等ではない、目下の存在として扱うことが苦手というか、
いったい子どもに対してどうふるまえば良いのか、戸惑ってしまう、あるいは照れてしまうのだと思う。
シーラについてはこちら。
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トリイについては、思い出すたびになんだか笑ってしまうことがあって、
彼女よく、「余計なことをして」と言われるんだよね。
シーラにも言われている。
「あんたって本当に仕切りたがり屋だね。自分でそのこと、わかってる?」とかなんとか。
「愛されない子」のラドブルックにおいては、こうだ、
「あなたって本当に誰かに仕切られるってことが苦手ね」と。
わたしは実際のところ、ものすごい仕切りたがり屋であり、
ものすごく世話焼きなのであり、
それをずっと何とかこらえようとして生きてきたところがある。
わたしは今度こそそれをやめる、と決めて生まれてきたはずなのに、というほどの、まだしてもいないことに対する後悔にも似た、気持ちがある。