「死を理解する」という、いつ覚めるとも知れない悪夢は、まだ世の人を蹂躙するだけ。

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 冤罪で死刑になってしまった青年の話を読んだ。
 墓碑の写真があり、生まれた年を例によって足してゆくと、33だった。
 
 彼には知的障害があり、言われるがままに「罪を認め」ることが「死刑」に結びつくという考えがなかった。
 死ぬってことも「わからなかった」。
「僕は死なないよ」と言い、死刑直前までおもちゃでご機嫌に遊んでいた。
 
「世界一幸せ(そう)な死刑囚」というタイトルのせいで、
 冤罪で死刑になってしまうことが幸せなわけないじゃん、胸糞悪い、純粋無垢なものを殺してしまった罪悪感を消したいだけ、なんていうコメントがのびていた。
 
 さあ、まず幸せってなんだろうか。
 彼がいかにも楽しそうに、無邪気に、「死を理解する」こともせずに、遊んでいる様子をつかまえて、
「なんて不幸なんだろう」「なんて憐れなんだろう」という反応をさせるものって、
 いったい何なんだろう、と思う。

 死を理解する、ってそもそも、どういうことなんだろう?

 僕は死なないよ、という発言はわたしからすれば、知能指数なんかでは推し量れない、賢者の威厳を感じさせるものだ。
 そのとおりだ、たしかに彼は死なない。
 それはいまもこうして彼の「悲劇」が語り継がれているから、というだけじゃない。
 そんなことじゃないんだ。

 もどかしさとともに、ふと気づくことがある。
 わたし自身こうしたことに類する経験をこれまで何度もしてきていた、と思い出す。

 いろんなやり方がある、それこそ幾億とおりものやり方が。
 わたしは知的障害という道を選ばなかったが、彼はそうした。

 彼にはとても断固としたところがある、とわたしは感じる。

 彼は「知的障害」を選んだし、「無実の罪」も選んだし、「罪なき罪によって死刑に処せられる」ということをも、ただ選んだ。

 確かになかなかそうは見えない。


 わたしは語ることによって伝える能力を持っていきたかった。
 なのに、それをまるでほとんど駆使できていない自分に、焦燥にも似た気持ちを徐々に募らせている。

 いまこの瞬間も。
  
 ドナルド・トランプロバート・キヨサキの共著の本を読んでいると、わたしたちは共に教師だ、という言葉が何度か出てくる。
 それで思い出すのは、
 わたしは教師になりたいんだ、と当時一緒に住んでいた人と毎夜毎夜二人でワインを飲み明かしながら語っていたある時期に、思いがけず強い気持ちで宣言したこと。
 本当に?と思った。
 いったいまたなんで?
 わたしはむしろ、教師ほど胡散臭いものはないと心のどこかで感じ続けていたのだ。
 
 でも、教えることは学ぶことなんだと、あるときにはっきりと気づいた。
 教えるっていうことは、決して一方的な流れではない。
 そこには相互に通い合う成長の渦があり流れがある。
 自分自身が新たに学ぶことはない教え、
 教え子に教えることによってさらに深まる自分の学びがないなら、教師としての機能を本当に果たしているとは言えない。

 親と子の関係だってそうだ。
 親は子から学ぶ。
 そうじゃなきゃ、子を持った意味がない。

 子から学ばないのなら、子と共に教え/学びの関係を築けないのなら、

 子から享受しうる恩恵を存分に受け取っているとはとても言い難い。


 子を持って幸せだっていうのは、子から学ぶチャンスを与えられて幸せなんだ、
 これで子供が老後の世話をしてくれるだろうとか、自分の遺伝子を絶やさずに済んだとか、この少子化社会に貢献したとか、そういうことじゃない。

 もちろん、親子に限らない。
 なんだってそう、なんだ。

 よくあるじゃん、先に進んでいる子が算数ドリルとか、なんでもいいけど、まだよくわからない、できないって子に教えてあげようとして、
 自分としてはいつクリアしたのか、どうやってクリアしたのかも覚えていないような初歩的な質問、根本的でさえある質問をされて、はたと答えに窮してしまう、というようなことが。
 こんな簡単なこともわからないなんて馬鹿だなこいつ、じゃないんだよ。
 いや、わたしもよくやってしまうわけですが。

 それにそうしたことは確かに簡単に「笑い」という絶妙に魅力的なものにもなってしまって、それに抗う方がむしろ馬鹿みたいに思えるってことも、ある。でも、
 
 ひとは、ひとに教えようとしていかに自分が何も知らないか、ということに気づく。
 気づく、んだよ。
 気づかなきゃ、学ばなきゃ、教えるって行為はただただ無為に帰するだけ。

 

 ともかく、彼が演じたかったのは「悲劇」なんかではなかった。
 わたしはそうだと思う。

 彼は不幸ではないし、憐れでもない。
 彼には晴らすべき罪なんてそもそもない。
 彼は実際に誰も殺していないから、じゃない。
 はじめからこの世には罪なんて存在しないのだから。

 

 そういうことを、表現しに、来たのではないかな。

「反対」は無意味であるという姿勢の、その

 あれは親の家なんだっていう意識はあった。
 わたしの家ではない。
 書いているときに息抜きとか、考えを整理するためにたばこを吸うってことは、
 わたしには必要あるいは効率の良い、魅力的な行為に思えていた。
 でも親は吸わないし、親は反対しているし、親の家の空気あるいは壁紙をいわば汚すわけにはいかない。
 吸うこと自体を止めることは親でもできない。
 でも、家で吸うことまでは、わたしには踏み込めなかった。
 あの家はたしかにわたしが生まれ育ったわたしの家だが、厳密には親の家であるのに過ぎないと感じていたからだ。
 わたしは親のいうことで、わたしにはそうは思えないと思ったことは、聞いたためしがない。
 そりゃおそらく、皆とはいわないが、ある程度自立した精神をもつひとならば、あたりまえのことだろうと思う。
 ふうん、そんなもんかな、それがいいと思っているんだな、わからないけど、どっちでもいいけど、
 と思うことなら、いちいち反対はしない。
 わたしはともかく「反対する」ってことが実に苦手で、
 反対はしないが、相手の意に沿わぬことを沿わぬと理解しながら、結局のところ自分がしたければする、という態度を貫いてきた。
 
 なんだかそれって、コミュ障みたいっすね。
 いや、いわば、そうなのかもしれないな。
 というか、つまり、わたしはずっと昔から、
「誰もがしたいことをすればいい」と心底感じていて、
 そもそも、すでに今現にまったく滞りなく、そうなんだろう、むしろそうであるほかはないと勝手に思っていた。
 いまも勝手にそう思っている。
「人間、誰だって、自分にとってメリットのないことはしない」と思っていた、というか確信していた。

 いちいち反対する必要はないと思っていた。
 そんな無駄な労力いらない、と感じていた。

 たばこについていえば、母親ってひとがおもしろいなあと思うのは、
 普段は、たばこまだ吸っているの?とどこか非難がましく言うくせに、
 たばこをお得に買う方法をわたしに提案してくるってところ。

 反対なんじゃなかったのか、なんだかその矛盾ってまったくおかしい、実にわたしの母親らしいと思って、
 当時一緒に住んでいたひとにそう、おもしろい話として話すと、
    
 なんだか深刻そうな顔をして、
「本当に娘のことを心配していたら、そんな提案しないはずだよね」という。
 いや、ちがうって。
 でもこの「ちがう」感じを、どう説明すればいいのか、わたしにはさっぱり思いつかなかった。
 そういうことじゃないんだけど、それにしてもいったいなんで彼はそんなふうに受け取るんだろう?ということに興味が向いた。

 わたしはわたしの母親が「自分のことを本当に心配していない」かもしれない、なんていうことに対して不安になったことはない。
 いや、幼い頃にそんなふうな不安をまったく一つも感じたことがない、とは言えないが、
 少なくともその当時、そんな不安を持つことはとっくになくて、
「それって、本当に娘の身を案じている態度っていえる?」と遠慮がちにではあるが迫ってこられても、
 どこかちぐはぐな心配をされているようにしか、思えなかった。
 このことは、実に不思議だったし、不可解だったし、興味を惹かれたので今もってよく覚えている。
 
 そもそもわたしは心配されたくないんだよね。
 それに、心配したくもない。
 あなたは、あなたでちゃんと(か適当にか知らないけど)やっているんだね、と信頼するのが、尊重するのが要するに好ましい。
 控え目にいって、そう思っている。

 もちろんよっぽどSOSのサインを出しているひとを目の前にして、何もせずにいられるってことはできない。
 できないけど、
 

 なんていうか要するに、他者のSOSのサインって、
 自分がそう受け取ったかどうか、でしかないものだ。
 
 自分が、助けてくれ、というサインとしてそれを見たときには、それを助けたいと咄嗟に思ってしまうのが、
 ひとの本性なんだろうと思う。
 それはいわば、ミラーニューロンの仕業なのかもしれない。
 ゴキブリが死にかけているのを見て、助けたいと思うひとは稀かもしれないが、
 たとえば実に愛らしい子猫が、
 たとえば実に愛らしい人間の子供が、
 まして彼らとの親密で気軽で安らかな思い出のあるものが、
 目の前で溺れかけていたり、助けようと思えば助けられるような困難な状況に陥っているときに、
 手を差し伸べないでいられるには、よっぽどな何か、たとえば、「無自覚な共感力」に対する克己心がいる。

 いや、助けちゃだめだって話じゃない。
 そうではない。たぶん。

 とにかく、たばこの件に関して、わたしは母親の心配を必要とはしていないの。
 それは母親が認めようが認めまいが、称揚しようがしまいが、わたしは勝手にするものだからだ。
 母親がしてくる心配に対して困るほど迷惑だとも思わない、多少はわずらわしく感じたとしても。
 だから、彼がそうやって案ずるふうに言ってきたことっていうのは、
 むしろ彼自身の問題あるいは不安を浮き上がらせるものだったのではないかと思った。
 だってわたしがもし、自分自身の不安を訴えるつもりでその話をしたのだとしたら、わたしはそんなふうに気に懸けられて、嬉しくないはずがないからだ。
 やっとわたしの気持ちをわかってくれるひとが現れた、とでも感動するであろうような場面であって、
 なにそれ頓珍漢だな、とは思わないはずなのだ。

 たしかに刺激されるものがある。
 そうじゃないよって、その彼にも言い続けた。(つまり親に返済すべき明らかなものなど本来、本当にないのだとか)
 たとえば、
 その彼は、母一人子二人で育てられて、母は十代の若いうちに自分たちを産んだから、
 若く楽しく美しくある時代を、子育てに忙殺されて苦労をしてきたから、
 自分としてはその苦労に報いなくてはならないんだ、と思っていた。
 自分は親に恩返しをしなくてはならないんだと。


 わたしはまるで嫌いなレーズンを、おもてなしとして目の前にテンコ盛り積まれた気分だった。
  
 相手の気分を害したくはないし、かといって、美味しそうにそれを食べるには修養も足りない 、
 実際のところそれを嬉しそうに食べてみせる、どんな必要性があるのかはさっぱりわからない、とでもいうべき、ぶざまな立ち往生だけがそこにはあった。

 とはいえどことない気まずさはあった。

 わたしが彼を訪れたのか?
 それとも、彼がわたしを訪れたのか?
 
 あるいはまた、そのどちらでもなく、そのどちらでもあるように、
 すべては邂逅なのかと。

 わたしは「反対」なんてしたくはなかった。
 ただ、学びたかっただけだ、知りたかった。
 でもどこかで、彼が、なすすべもなく溺れかけている子猫のように感じられてしまったことも、
 虚しさか、痛切さか、憐情なのか、いまいましさなのか、わからないけど、
 否定しようがない。そして、
 そのことが、いまだにやっぱりわたしを、

 痛めつけるとまではいわない、ただ、なんていうか、「不意にとらえて放さない」気持ちにさせることがある、それだけ。
 
 だってそこには、謎がある。
 単純明快に、簡単明朗に、まるで自分のことのようには理解できないという謎がそこにはある。

トリイ・ヘイデン、または「美しさとはかえりみないこと」について。

 ラドブルック

 それは「愛されない子」で問題を抱えた子供の母親として登場する。

 ラドブルック。
 まるでブルドッグを麗しく表現してみたような、どことなくちぐはぐで滑稽さのある響き。
 トリイが描写する彼女のことを、嫌いになれる人間なんているだろうか、という気がする。
 いや、もちろん、いないとは限らない。
 わたしが今でも心に残っているのは、「よその子」で、あの男の子が、自らの悲嘆に実に集中してひたっていたとき、皆おれのこと嫌いなんだ、と頑なになっているとき、トリイにロリの名前を出されて、ロリはあなたのことを嫌っていないでしょ?あなたもロリのことを嫌いじゃないでしょ?
 と問われて、ほとんど諦めたかのように力なく、
「ロリのことを嫌いになれるやつなんていないよ。そうだろ?たとえそうしたいと切実に願ったとしてもさ」
 というこのセリフがわたしは大好きだ。
 まったく胸を切なくさせる。

 トリイはまだたった六歳か七歳の、識字障害を抱えた少女であるロリのことを、

「わたしはたまに本当にロリの精神を詰め込んだ瓶を精神安定剤代わりに持ち歩けたら、どんなにいいだろうかと思う」と言っている。

 ロリは、自閉症の少年ブーを見て、びっくりして、

「あの子って変わっているね。でも、それでもいいよね。わたしだって変わっているところあるもの」と言うんだ。

 ロリは天使のようというよりも、むしろ、驚くほど成熟した精神の持ち主だ。

 

 わたしは本当に情に深い人間なのだと、実は思っている。
 それはほとんど、非常識なまでに、そうなのだと。
 非常識なまでに、非現実的なまでに。
 わたしのことを実に醒めている、というひとが一定数いる。
 まったくの初対面で、会話したことすらないのに、たった一目見て、そんなふうに言うひともいる。
「自分(関西ではあなた、の意)、何もかもどうでもいいって思っているんでしょ?わかるよ。そういうの、嫌いじゃないよ」とまるで感動したかのように言ってきたひともいる。
 わたしはそういうとき、なんて見当はずれなことを言うんだろう?とは思わない。
 実際、彼の言わんとすることはわからないでもない、と思っている。
 彼はわたしの姿を、目に見える姿かたちではなく、なんていうか性質ともいうべき目には見えない真意の欠片を、端的に見抜いてはいるのだ、と思う。
 
 わたしは実際のところ、自分に備わった情の篤さを、自分でもどう扱っていいのか、どう表現すべきなのか、いまだにちゃんとわかっていないんだと思う。
 そのせいで、不器用に見える、なんて決してわたしを高揚させはしない形容を頂戴することもある。
 
 わたしは物心がついた頃から、自分の感情をあからさまにする、ということに対して羞恥心を抱くようになった。
 誰にも自分が本当に感じていることを、見透かされたくはない、という断固たる思いがあった。
 そしてそれがなぜなのか、というと、思い当たることはいくらでもあれ、決定的にこうだ、という答えは見つけ出せずにいた。
 
 なんていうかそれは一つ言えば、謎が残るって素晴らしいことだよね、という気持ちに通ずるものなのかもしれない。
 
 ある人はわたしを、まったく地に足のついていない夢見がちなひと、と言い、
 またある人はわたしのことを、リアリストすぎる、夢がなさすぎる、と評する。
 
 ドナルド・トランプが著したものをいくつか読んで、
 すごくよくわかるんだよ、と思う。
 あなたがいったい何をひとに教えたいのか、その情熱の源が何であるのか、わたしにはとてもよくわかる。
 そしてふいに、その情熱が何でもないものに思えてくる。
 つまり、わたしにも彼と似たような情熱があった。
 その情熱を、情熱のままにストレートにではないが、他人に訴えかけることに腐心していたのだと、つくづくと、つぶさに感じることができた。
 わたしは彼の情熱に接して、ようやく、
 ここにもわたしと同じようにひりひりとした、切羽詰まった情熱を感じ続けているひとがいることを知り、
 なんかそれで満足しちゃうというか、気が済むというか。
 ああ、そうか、わたしはわたしの問題、わたしはわたしの課題とだけ真摯に向き合うべきなんじゃないかな、と安らかな気持ちで思えたのだ。


 ラドブルックは美しいのだとトリイはいう。トリイだけじゃない。
 トリイがほとんど嫉妬のようにラドブルックの美しさ、強靭さをいまいましく思うところは、個人的にはちょっと微笑ましいほどに人間臭くって、好きだ。
 そこの記述を読んで思うのは、美しさとは省みないこと、なんじゃないかなと。
 ラドブルックは誰が見ても否定しようのない圧倒的な美しさを身に備えながら、美しいなんて何でもないことだわ、という。
 それはあなたがほとんど誰から見ても美しいと称賛されるから、あなたは美しさをすでに手に入れているからこそ、そんなふうに傲慢なまでに、何でもないことだと言えるのだ、と言うこともできる。
 でもさ。

 でも、なんていうか、そういうのって、どこからどう見ても、美しい発想とは言えない。
 美しさとは、妬みではない。
 美しさとは、自己卑下からは生まれえない。
 美しさって、そんなこと何でもないことだわ、ということから生まれるんじゃないかな。

 美しさって、そんなことあたりまえだわ、という態度から本当にはじめて、生き生きとした躍動感をもって、圧倒的な輝かしさで周囲を照らすのではないかな。
 美しさとは、何物をもかえりみないことから生まれるんだという気がする。
 つまりそこには、罪悪感とか、劣等感とか、気が退けるとかいう精神は存在しないんだ、という意味において。
 

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多数派なのか、少数派なのか、ということだけが問題だ。

 わたしという人間は何だって平気で、心が傷ついたりせず、強く楽々と乗り越えていけるのだと信じていた、(というかそうであってほしかった)
 と親しくしていた友人に言われたとき、わたしはまさに人生最大の危機ともいえるほど傷ついている最中だったので、腹を立てた。
 怒ったし、自分が怒ったことによって、相手の物の捉え方に驚きもし、結局心配もした。
 昔の話だ。
 わたしは、その起きた出来事をどうにも完璧に説明しつくした、という感じがしなくて、
 こないだふとまた、その話を別な友人に話したら、
 ずいぶん引きずるのね、まだわだかまりがあるのねというふうな反応をされた。
 まるでわたしがいまだにその彼女を許していない、というかのようだった。

 そういうことではないんだけどな、と実に残念な気持ちになった。
 許すとか許さないとかではないし、わたしがいまだに傷ついていたり怒っていたりするわけじゃない。
 ともかく、その発言をした友人に謝ってもらいたい、というような話ではないんだ。
 こういうことは、おそらく、手っ取り早く言ってしまえば、彼女のひきだしにはない謎であり、関心なのだと思う。
 彼女にはわたしが本当には何について知りたがっているのか、ということが、少なくとも易々とはわからないのだと思った。
 わたしの説明がまずいせいもあるだろう。
 わたしが自分自身に起きたことについて「誤解なく完璧に」話すことが不可能だというせいもある。
 
 というか、そんなことは要するに不可能なんだろうとわたしが信じているせい、もあるかもしれない。
 
 わたしが傷ついたりすることはなく、強い人間なのだと信じていたかった、と言った友人は、
 最近になって、ほとんど流行りの、「発達障害」認定を受けている。

 わたしが「発達障害」に関心があるのはそんな理由からでもある。
 
 障害っていうのは不思議なものだ。
 それは本当に「障害」(欠陥のようなニュアンス)なのかどうかはともかく、「少数派」を意味する言葉であることは間違いない。
 目が見えないひとよりも、目が見えるひとの方が多い。
 突き詰めれば、ただそれだけのことだ、とわたしは、思っている。
 問題は、目が見えるか見えないかじゃない。
 そうである性質が、「多数派」なのか「少数派」なのか、ということだけが問題なのだ。

 誰にとってもこうなのか、それとも自分だけがこうなのか、ということが。

 

 人間にはほとんど誰にも逃れようのない自己中心性があって、
 それはおもに「身体的な限定」から来るものだと思える。
 誰だって、一人に一つの身体を持って生まれてくる。
 エゴ・フレームも実に個人的で、いわば自己中心的なものだ。

 おそらく、「多数派」であることが「勝者」「不安のなさ」「皆と一緒」「天真爛漫なまでの無自覚な自己肯定」「赤ん坊のような全能感」につながっている。
 こうしたものは、まったく人間の不思議さを象徴していると思えて、わたしは感嘆さえ覚える。

 昔は、どことなく軽蔑していた。
 つまり、皆と一緒なら安心、というまるで馬鹿みたいな「根拠のない」安心を。
 そう、もう、ありていに言って、馬鹿みたいだとしか思えなかった。
 
 わたしは思春期のある頃まで、周囲の人間をまったく皆変わっている、と一抹の疑問もなく感じ取っていた。
 ところがあるときふと、周囲の人間が皆変わっているのだとすれば、むしろ本当に変わっているのはわたしなのではないか、と気づいて愕然とした。
 周りがすべて狂人だと思うなら、狂っているのは自分の方なのだ、という言葉を知ったからかもしれない。
 
 わたしには確かに目に見えるような障害はない。
 ちゃんと手も足も二本ずつあるし、目鼻立ちにも特に変わったところはない。
 持病もなく、健康診断の結果はいたって良好だ。
 目も見えるし、耳も聞こえる。
 ぱっと見、あるいは一言二言、言葉を交わして、相手を即座にぎょっとさせるような人間ではないのは確かだ、と思う。
 まあ若干冷たいというか、シビアなまでに事務的すぎるというか、無愛想なところがあるのは否定しない。
 そういうのって、ふとした拍子に出てくるんだよね、まったく無自覚なときに。
 わたしの素の態度っていうのは本当に、なんていうか、何の飾り気もない殺風景なものなの。
 敢えて冷たい態度を取るときには、わたしは自分にとって相手は大袈裟にいえば敵なのだということを、相手自身に知らしめようとしているわけで、完全に自覚的にそれをしているわけで、
 こういう態度がまったく友好的でも親切でもない、頑なな態度だということは十分承知していながら、
 わたしとしては最大限、いやむしろ最低限かもしれないが、フェアなやり方なのだと自分を納得させているところがある。

 そうだな、わたしはわたし自身のことをこういう場では語りすぎるね。
 文章ならばまったくそれは容易く、抑制を欠いたものになりがちだ。
 でも普段、誰かと接しているときには、むしろ、どちらかといえば無口で、ほとんどお高くとまっているほどに親しみにくく、ガードの固い人間だと思われがちなのだ、
 ということくらいはこの歳になれば無視せざるを得ない客観的事実として、了解してもいる。

 

鉄格子は憂鬱だ、でもそれは完全に閉め切られているわけではない。

 わたしはわたしの「人生」が波風を立てぬ穏やかなものであればそれが最上だとは信じていない、ということは確かだ。


 誰か、自分以外の何かのせいにしておく方が楽、という信念の真逆を、わたしは信じている。
 そんなもんが楽なわけがない。
 
 鉄格子は憂鬱だ、でもそれは完全に閉め切られてはいない。
 壁に窓があることを喜ぼう、たとえそこに鉄格子が嵌め込まれていようとも。

 わたしは今日ふいに気づいたことがあるんだけど、
 教えてほしい?
 教えてあげようか?
 8時間仕事をしていたときは、休日の休みも8時間で、
 10時間仕事をしている今は、休日の休みも10時間なんだってこと。

 わたしの仕事は半分「ふざけている」ようなものだけど、実際にはとてもシビア。
 昨日何人かできたお客さんのうちの一人、こんな場所ははじめて、という人が、
 遊び興じている連れの子をつかまえて、
「そんな嬉しそうな顔、見たことがない。
 そんなに楽しそうにしている〇〇くん、見たことない」
 という。
 まあそんな仕事なんだと言っておこう。
 つまり常々、わたしは自分の仕事を、要するに娯楽を提供する、サービス業だと認識していた。
 それをあらためて思い出させてくれるような、一幕だった。

 カードを操れるか?
 おそらく、操れる。
 それは、ほとんど、こじつけかもしれない。
 でも、ほんとうに、こじつけでないものなどむしろ、あるのだろうか、と思う。

 インチョンを入れたときに7が立て続けに出てくる、あるいは3と4。
 3は3であり4は4なのだからこれを足して7にするってことは実にこじつけめいている。
 でもわたしにとって7は、2と5でもなく1と6でもない。
 ゲームを開始してもそうだ、やたら7が出る。
 しまいには質屋へ走る、その質屋の店名は「ダイヤモンド・セブン」というわけ。
 こんなときに感ずる嬉しさとか可笑しさ、高揚っていうのは、おそらくほかの誰にも、わからないだろうと思う。
 それらは実にこじつけめいている以外の何物でもないからだ。
  
 猫は(犬も)、夢と現実の区別がついていない、という話が好きだ。
 それは即ち、わたしたちが「現実」だと思っているものは、何だろう?という示唆を与えてくれる。

「愛されない子」の中でまだ序盤だけど、気になるひとりに、ドクター・テイラーがいる。
 圧倒的に美しくて、高慢で、二言以上は喋らず、しかもへべれけに酔って娘を迎えにくる。
「彼女の飲酒問題の深刻さと、ほかの人がみんなそのことを完全に受け容れていることの両方にわたしは驚いた」というところで、オードリ(わたしの創造上の人物)を思い出した。
 オードリは寮の規則をまるで無視して自由に外出をし、外泊さえし、好きなときにお酒をのむ。
 生徒会長であるヴィクトリアは怒っていた。
 院長先生に直談判をしても、彼女のことはあなたの責任の範疇にはないし、放っておきなさいと言われるだけ。
 そんな状況に、「腰が抜けるかと思うほど」彼女は仰天するのだ。

 いや、彼女は「腰が抜けるかと思った」なんて剽軽な、笑っちゃうようなことは決して言わないの。
 わたしはここで、「トリイの目」が欲しくなる、すごく。
 それは実に優秀で気位の高いヴィクトリアと、決して優秀ではないがともかく物に動じない、底抜けに明るくてシンプルな、ブリジェッタをあわせたような人物だ。
 さらに、非常に洞察力があって同情的でもあるカースティンも追加しよう。
 
 わたしはトリイのファンだ。
 彼女の姿勢、やりくちには確かにわたしも知っている何かがある。
 彼女がしようとしていることは、わたしにはほとんど完全に理解できる。共感できる。
 そして、なおかつ、彼女にはわたしにはない明らかな積極性がある。
 わたしはどこかで、そうした積極性に出ることを恐れている、あるいは、同じことかもしれないが、億劫がっているところがある。
 ものすごく繊細で、洞察力があって、共感力もある。
 それはとても素敵な資質だ。
 でもそれだけじゃ何かを成すってことはできない。
 自分が出ていく、自分を差し出す勇気がなければ、どんなに優れた、どんなに尊い資質も要は、ゴミと見分けのつかない何かでしかない。

 

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愛されたいのなら、先だって愛すること。なぜなら、わたしたちは、誰しも本来「主体的」「能動的」な存在だからだ。

 デキた人間になりたい。
 人から尊敬されるには、自分がまず膝を折って、人を尊敬することだ。
 愛されたいのなら、先だって愛すること。
 
 まことに、思うけれど、
 自分自身を愛する以上に他人を愛せるものではない、それは単に不可能なのだ。
 他人の目を借りて世界を見るってことは要するに不可能だ、
 他人の心を借りて世界を感じるってことは、もうとにかく不可能なんだ。

 自分が観じうる世界を広げれば広げただけ、他者に寄り添える、ただただそれだけ、他の選択肢はない、それしか方法はない。
 自分自身をわかることをおろそかにして、他者のことをわかりたいなんて、まったく嘘なんだから。
 そんなショートカットはできない、そんなインチキまがい、チートじみたことはできない。

 今朝ふと思い出した好きな話がある。
 地球において最初に登場したのは鉱物だ。
 鉱物は、「存在すること」をした。
 次に現れたのは、植物だ。
 植物は、「存在し、成長すること」をした。(地中へも空へも、ありとあらゆる表面を覆うようにも生い茂った)
 次に現れたのは、動物だ。
 動物は、「存在し、成長し、動き回ること」をした。
 動物の参入にあたって、先人たる植物は、花をつけ実をつけることで動物を歓迎することにした。(それまでは植物には花も実もなかったのだ)

 という話、すごく素敵だし、感動的だと思った。

 最後にやってきたのが、人間だ。
 人間は、「存在し、成長し、動き回り、思惟すること」をした。

 思惟することをした。
 それが人間と、人間以外とを分け隔てる性質であり、本質だ。
 だからわたしたちは、与えられた特質であるところの「思惟すること」を、たゆまない努力あるいは冒険心でもって、日々新たな発見をする、
 もうもはや、義務/責任がある。

 
 愛されたいのならば、先だって愛すること。

 これはどういうことかというと、
 人間っていうのはどこまでいっても、「自主的」「能動的」でしかありえないからだってことだと思う。

 人間って決して本当は受け身ではない、
 受け身ではないことが本質だ。
 だからこそ、受け身であるとはどういうことかを学ぶ。
 自分の本来の性質とは異なるあり方を学ぶ。
 そうして他を学ぶことによって、自分自身を知る
 より深く、やり甲斐のある、歓喜の微笑は永劫に途絶えない、満ち足りたものとして。

営業、セールス、鬼束ちひろ、自閉症、トリイ・ヘイデン。あるいは病。

0:08 2019/03/02
 要するに、わたしは癌ではない。
 だから実際に癌を抱えたひとに、たとえ親切心からであれ、あれやこれやと批判的な気持ちを抱くことは所詮すべて間違いなのだ、という気がする。

 ゆでたまごを今日、職場の何人かで食べているとき、アジシオは化学物質、と言い切ったことも、
 おそらく余計なお世話なのだ。
 
23:51 2019/03/03
 ビジネスとはセールスだ、という言葉になるほど、もっともかもしれないと膝を打ち、さっそくセールス(営業)の本を読む。
 
 それで二冊読み、自閉症もやっぱり気になるので自閉症スペクトラムがわかる本ってのを読み、
 その支援方法なんていうくだりへきて、根本的にはなんかこれ一緒かな、という気がした。

 つまり自閉症であるのは皆、程度の差はあれそうなのだし、

 営業が人生を通じて関わってくることも、そうなのだし。
 
 鬼束ちひろの2002年の特集番組を動画サイトで観て、ウィキペディアも読む。
 わたしは気になるひとの、生年月日を見るとそれを全部足してしまうのだが、
 鬼束ちひろが22ということを知ってなんだか、そうなんだなあと思った。
 それで、2000年2月にデビュー(また22だ)、
 わたしのブログのタイトルにも22が。
 わたしの甥も22だ。
 こういうのはこじつけだとか偶然だとか、気のせいだとか、いろいろあるが、
 実際のところ、じゃあ、こじつけでないものって何があるだろうか、という気がする。
 
 よく(実際にはそんなによく、というほど頻繁じゃないと思うけど)、恋に落ちて運命を感じるとか、
 そういうのも、他人からすれば、そうか?盲目とか思い込み、単なる願望じゃないの?
 と感じられがちなのと似ている。
 
 ちなみにわたしは生年月日を足すと33なんですが、ならなんでタイトルに22を持ってきたかというと、
 なんだろう、その方がキレッキレな感じがするから、というか。
 あるいはまたここでも核心をなんとなく避ける性分が顔を出したというか。

 そうかあ、鬼束ちひろは22なのか。
 歌うときは裸足なのか。
 アインシュタインも靴下を嫌っていたよね。
 グラウディングしているのかな。
 足の指で拍子を取るのに便利なんて言っていたが、足の底から地球のエネルギーを貰っているよね。
 そんな気がする。

 彼女の「眩暈」という歌、
 貴方はどこまでも追ってくるってわかるから、
 というところの貴方、
 これは、恋人かもしれないし、親あるいはまた、もしかすると子どもかもしれない、または超絶ウザイことに借金取りかもしれない、でも、
 わたしはここを神と捉えると、なんだか、泣けてしまう。
 神の愛がどこまでもわたしを追ってくる。
 逃げることなどできない。
 そんなふうに聴くと、この詩はとてもわたしの心をつかんで揺り動かして離さない。

 神っていう考え方/概念はおもしろいよね。

 わたしは昔、なんで人を殺しちゃいけないんだろう?と考えたことがある。
 いや、殺したいわけでも殺されたいわけでもない。
 むしろ、生きて、生きて、生きまくりたいんだ。
 殺すの殺されるのって、そんな血腥い、生のやり取りはむしろ真っ平御免だが、
 それにしても、じゃあなぜいけないんだろうか?
 ありとあらゆる宗教の原則いわく、神さまが禁止しているから?

 いや、それは嘘っ八だと咄嗟に強く感じた。
 笑いがこみ上げてくるほどに。
 神が、いわば全知全能なる神がそれを絶対に禁止するくらいなら、絶対に望まないのなら、そもそも、わたしたちは人を殺める手、人を殺める道具、人を殺めようなどという発想を持ち得ないはずだ。

 むしろ神は殺しを禁止するどころか、奨励しているのかもしれないよ。
 もしかしたらね。

 わたしたちは自分も殺されたくないから他人を殺してはいけないのだ、という言説を読んだことがあるけど、
 なんかそれ、インパクトに欠けるよね。
 そういうアプローチも効果的かもしれないけど、ちょっと詰まらない。
 いっそ自分を殺してくれ、というほど自己=世界を引き裂かれているひとだって、この世にはいるのだから。
 そういうひとはまるで自殺するかのように人を殺すよね。


 営業っていうのは、
 実際のところ営業職にあるひと、だけが関わっている課題じゃなくて、そもそも誰でも、仕事に就く前から経験していることだよねっていうのが、ほんとうに腑に落ちる。
 それは人間が人間と関わるときのマナーみたいなものだと。

 マナー、まあそれも一つの表現、考え方かもしれない。
 もちろん、マナーでもいい。
 というか、要するにマナーなのかもしれない。

 マナーで一つ思い出すのは、
 有名なフィンガーボールの話、
 いわゆる上流階級の会食に招待された場違いな人間が、指を洗うための水を入れたボールを、飲むものだと思って飲み干してしまった、
 周囲はなんて無知で行儀(マナー)知らずの田舎者だろうと、冷ややかに見つめている、
 そこへその会を主催したひとが、自分もその水を飲み干す、という話。

 マナーっていうのはわたしは、
 要するにコミュニケーションを円滑にする手段、お互いが、一方的ではなくお互いが、気持ちよく過ごすためのものだと思っている。
 決して相手に恥をかかせるためのものではない。

 そういう意味では、マナーが功を奏する。
 つまり、営業の基本とは。


 相手に心の底から寄り添うことによって個たる自己が呑み込まれてしまう、恐怖心/嫌悪感に打ち克つことが、
 わたしの課題であり、望んだことだった。

「あんたのためにいい子になるよ」
「いいえ、わたしのためじゃないわ、あなた自身のために、いい子になるのよ」

 

 

 なんという、断絶がここにはあることか。

 いつでも正しいことができるとは限らない。

 自己を差し出す勇気がないことには。

 

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