鉄格子は憂鬱だ、でもそれは完全に閉め切られているわけではない。

 わたしはわたしの「人生」が波風を立てぬ穏やかなものであればそれが最上だとは信じていない、ということは確かだ。


 誰か、自分以外の何かのせいにしておく方が楽、という信念の真逆を、わたしは信じている。
 そんなもんが楽なわけがない。
 
 鉄格子は憂鬱だ、でもそれは完全に閉め切られてはいない。
 壁に窓があることを喜ぼう、たとえそこに鉄格子が嵌め込まれていようとも。

 わたしは今日ふいに気づいたことがあるんだけど、
 教えてほしい?
 教えてあげようか?
 8時間仕事をしていたときは、休日の休みも8時間で、
 10時間仕事をしている今は、休日の休みも10時間なんだってこと。

 わたしの仕事は半分「ふざけている」ようなものだけど、実際にはとてもシビア。
 昨日何人かできたお客さんのうちの一人、こんな場所ははじめて、という人が、
 遊び興じている連れの子をつかまえて、
「そんな嬉しそうな顔、見たことがない。
 そんなに楽しそうにしている〇〇くん、見たことない」
 という。
 まあそんな仕事なんだと言っておこう。
 つまり常々、わたしは自分の仕事を、要するに娯楽を提供する、サービス業だと認識していた。
 それをあらためて思い出させてくれるような、一幕だった。

 カードを操れるか?
 おそらく、操れる。
 それは、ほとんど、こじつけかもしれない。
 でも、ほんとうに、こじつけでないものなどむしろ、あるのだろうか、と思う。

 インチョンを入れたときに7が立て続けに出てくる、あるいは3と4。
 3は3であり4は4なのだからこれを足して7にするってことは実にこじつけめいている。
 でもわたしにとって7は、2と5でもなく1と6でもない。
 ゲームを開始してもそうだ、やたら7が出る。
 しまいには質屋へ走る、その質屋の店名は「ダイヤモンド・セブン」というわけ。
 こんなときに感ずる嬉しさとか可笑しさ、高揚っていうのは、おそらくほかの誰にも、わからないだろうと思う。
 それらは実にこじつけめいている以外の何物でもないからだ。
  
 猫は(犬も)、夢と現実の区別がついていない、という話が好きだ。
 それは即ち、わたしたちが「現実」だと思っているものは、何だろう?という示唆を与えてくれる。

「愛されない子」の中でまだ序盤だけど、気になるひとりに、ドクター・テイラーがいる。
 圧倒的に美しくて、高慢で、二言以上は喋らず、しかもへべれけに酔って娘を迎えにくる。
「彼女の飲酒問題の深刻さと、ほかの人がみんなそのことを完全に受け容れていることの両方にわたしは驚いた」というところで、オードリ(わたしの創造上の人物)を思い出した。
 オードリは寮の規則をまるで無視して自由に外出をし、外泊さえし、好きなときにお酒をのむ。
 生徒会長であるヴィクトリアは怒っていた。
 院長先生に直談判をしても、彼女のことはあなたの責任の範疇にはないし、放っておきなさいと言われるだけ。
 そんな状況に、「腰が抜けるかと思うほど」彼女は仰天するのだ。

 いや、彼女は「腰が抜けるかと思った」なんて剽軽な、笑っちゃうようなことは決して言わないの。
 わたしはここで、「トリイの目」が欲しくなる、すごく。
 それは実に優秀で気位の高いヴィクトリアと、決して優秀ではないがともかく物に動じない、底抜けに明るくてシンプルな、ブリジェッタをあわせたような人物だ。
 さらに、非常に洞察力があって同情的でもあるカースティンも追加しよう。
 
 わたしはトリイのファンだ。
 彼女の姿勢、やりくちには確かにわたしも知っている何かがある。
 彼女がしようとしていることは、わたしにはほとんど完全に理解できる。共感できる。
 そして、なおかつ、彼女にはわたしにはない明らかな積極性がある。
 わたしはどこかで、そうした積極性に出ることを恐れている、あるいは、同じことかもしれないが、億劫がっているところがある。
 ものすごく繊細で、洞察力があって、共感力もある。
 それはとても素敵な資質だ。
 でもそれだけじゃ何かを成すってことはできない。
 自分が出ていく、自分を差し出す勇気がなければ、どんなに優れた、どんなに尊い資質も要は、ゴミと見分けのつかない何かでしかない。

 

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