ヤモリ死にそうじゃん!?
ブラシが好きなんだよね。
例えば洗顔ブラシ。
マジでこれ良い。
アレッポ石鹸を少し含ませて顔を洗ったら、つるつるになる。
アレッポで洗ったかどうかじゃないの、指では叶いようもないほど繊細なブラシで洗うってことがいいの。
筋トレにハマっている、というより、身体をメイクすることに嵌っている。
身体を創造すること、身体を可塑性に満ちた粘土のように愛することを。
いまふと見上げたら部屋の天井近くに、ヤモリが。
どうして入ってきたんだろ。
今日はふと思いついて、というか、「ひなちゃんねる」で戸締りをちゃんと、のフレーズを聞いて戸締りしてみたんだけど、
この家に住んで三年目くらいだけど、戸締りしたのは10回に満たないと思う。
それにしても、ヤモリって。
わたしの家はまあまあ都会と思っていた。
大阪市内の、徒歩20秒で出られる大通りに出てめっちゃ遅くても五分も根気よく待てばタクシーが通りがかるくらいには。
戸締りしてしまったけど、どうやって出ていくのかなあ。
二階の窓は開いているから、まあいいか。
ひなちゃんねる、で毎日筋トレしています。
ひなちゃん、ラブ。
とにかく明るい。
明るいって、ものすごくいいよね。
わたしはどこか突き抜けた、あるいは突き抜けえない昏さがあるので、明るさに触れるととても嬉しくなる。
こうでなくちゃな、と思う。ほんとうに。
しかも、よく見たらヤモリの尻尾がない。
うちにいる猫が、というか、猫と一戦交えたのでしょうか。
大丈夫かなあ。
助けてあげたいけど。
そう。
この、助けてあげたいけど、というのは実に厄介というか困難だよね。
いや。
こういうのが、あかんのかもしれないよな。
どうにも難しく、むずむずするような感覚を、あの感覚を最近また味わっていて、
ちょっとばかりジリジリする。
極端な話、わたしは助けないために、助けないことの葛藤を味わうために、
今回やってきたはずかもしれないんだけど。
という、両極へと引っ張られる感じ。
結論からいえば、迷うくらいなら他人は二の次にしてまず自分を助けてあげな、という話なんだけどな。
昨日会った友人が、「ウエイトレスのことなんて誰も見てへんって」と言ったのが印象的すぎてやばい。
咄嗟にその場でも返した、
いいえ、冗談じゃないぜ、見ているよって。
なんで自分が見られてなどいない、なんて思うんだろう、不思議。
見えているし、見られているに決まっているじゃん。
それはしかも、自分が見られていないだろうと勝手に、無意識に決め込んでいることに関してほどよく、見られているんだよ。
自分が「見られている」と意識して麗々しく着飾った、もしくは無頓着に楚々淡々として着飾らなかった事柄よりも、
他人が一方的に、かつ遠慮会釈なく「見ている」ことは確実にある、んだよ。
実際こういうことの齟齬を埋めていかなきゃならないってわたしは感じている。
わたしは「意識高い系」じゃなくて「自意識高い系」です。
それが従業員であれ、つまり接客側であれ、客側であれ、
お互い自分では見せていないつもり、のことが相手側からは見えているの。
なんなら、自分でも見えていない、ことが他人からは簡単に見える。
このお客さんいつも自慢ばかりだな、ワガママきついな、というのと、
この従業員どこか「ぞんざい」で配慮が足りないな、というのは、
おんなじことなの。
お互い、自分のことは見えていなくても他人のことは見えていますからね。
客観性を確立する、というのは、
他人の目に振り回されるってことじゃない。
エゴは好き。
0:06 2019/05/25
聞くこと。
聞くことに徹するのは本当に困難だ。
わたしは、あるとき、モデルのないことをするのは、ほとんど不可能に近いということを肌身で悟って、絶望的な呆然とした境地に立ったことがある。
それで、自分が自分のモデルになろうと思ったの。
2:38 2019/05/26
常に自分の捉えた他人が見える。
自分の捉えた他人だけが見える。
「現実とはなんだろう?あなたの現実とは、存在するものの知覚にすぎない」
「平和を本気で願うなら、戦争反対キャンペーンをする代わりに、平和な状態を視覚化するほうがいだろう。ほとんどの人は状況のマイナスの面に焦点を当て、改善しようとして逆にその状況を長引かせる」
「あなたは外側の問題を攻撃することによって、喜びの状態にたどり着くことはできない」
「わたしの観察によれば、大多数の人が不適切な思考を補うために行動を活用している」
「行動は、あなたが思考を通して生み出したものを楽しむ方法なのだ」
「ほかの誰もあなたのために考えることはできないので、その立場は奪えない。したがって、誰もあなたのために感じることはできないし、あなたのために引き寄せることもできない」
by.エイブラハム
3:02 2019/05/31
超まっとう。
エイブラハムの話で、あなたは見えないところにも繋がっていて、見えないところにも影響を及ぼすことができるのだ、というのが、なんだか印象的すぎて忘れられない。
あるいは、あなたは「この宇宙」だけじゃなくて「別の宇宙」にも繋がっている、という話が。
まあ、なんだろう。そうだろうなあと、何だか知らないが、なんでだか知らないが、腑に落ちる。
自分ってものに捉われる。
でも、自分はどこまでも広がれる。
皆、エンターテイナーなんだよって思っている。
自分の楽しみが溢れ出て結果的に他人をも楽しませることができる。
ここは「自分の楽しみ」が純粋であればあるほどよく、
じゃあ純粋がどういうことかといえば、
他人に自分の下駄を預けないことかな。
エゴが問題なんだよね。
いや、わたしはエゴが大好きだ。
その切り離されたもの、分離されたものが、本当に大好き。
問題っていうのは、要するに単にチャンスなんだよ。
あなたは全体の源から切り離された、あなた自身であるところのエゴを、奇跡のように愛おしむのがいい。
決して他人に下駄を預けることはなく。
他者からの承認は、実際のところまるで必要ない。
本当は必要がない、というのは、
他者に喜びを与えることが必要ないって言っているんじゃなくてさ。
必死に自分を正当化するような真似はただ、いらないというだけ。
その残骸は彼ではない。
表現することがすべて。
といっても、言いたいことは全部言え、というようなこととは限らず。
もちろんそれでもいいんだけど、
つまり、
思いをいかに伝えうるか。ということ以前に、思いそのものをいかに形作るか。
もっと根掘り葉掘りいきたい。
いきたいんだけど、要は表現がすべて。
知っているだけじゃだめ。
知っているというだけでは。
知っていることをいかに表現するか、昇華するか。
なんだって循環するようにできている。
自分のところに溜め込んでおいてもそれは遅かれ早かれ腐って朽ちる、
もちろんそれさえも循環はする。
ともかく、溜め込んだままに永遠に置いておける、ということはない。
置いておけない、それらはいずれ畢竟、循環しはじめる、
あなたの意図に反して、むしろあなたが意図しないうちに、あなたの手を離れて、循環しはじめる。
ある日蓋を開けるとそこにはもはや、まだ今はあるというだけの残骸しか、形を留めては、いない。
そうしてやっと遅まきに後悔するくらいならば、
それらが残骸となる前に、自らの意図によって生き生きと循環させたかった。
まだあるという残骸にふと気づくくらいなら、それが跡形もなくなるまで忘れている方が、そして思い出しもしない方が、いっそ話は簡単だった。
残骸に憐憫はいらない。ふさわしくない。
残骸に対して謝罪はいらない、後悔はいらない。似つかわしくない。
残骸はもはやあなたのものではない、あなたの手から放たれて、もう随分たっていた。
焦って嘆いて引き止めるような真似はしないことだ。
相手はきっと引き止められやしないのだから。
足掻くように引き止める、相手を勝手に憐れんで引き止めてあげるなんていう尊大さは、
二度手間、三度手間、とにかく空回り、いわば無駄。
あるいは鏡の中の自分を自分だと思い込むような、途方もない無為さ。
水に映ったあなたはあなたじゃない、
鏡に映ったあなたはあなたじゃない、
あなたはそっちにはいない、ここにいる。
そこにいるはずだと思っていたものが残骸へと化していたときには、
あっしまった、そうか、ごめんね、別れを言えてよかった、ありがとう、またいつかね、と言って気持ちよくお別れするの。
死体を揺さぶっても彼の魂は戻らない。
彼は死体ではないからだ。
不自由さは自分が作った檻。鍵を持っているのは自分だけ。
女3人で韓国へ。
関西空港で待ち合わせをしたが、わたしは日根野駅で切り離された車輌の、関空行きではなく和歌山行きへ乗ったまま、通り過ぎてしまい引き返すはめになるし、(なんとか間に合いました、ホントすいません)
もう一人の子は、
「両親が空港へ来ていて行けなくなりました」
とか、わけのわからないことをいう。
両親が来ていて?何それ、お見送り?
「いえ、来ないでって言っていたのに勝手に来るんです、前にもあったんです、それでもう頭にきて、じゃあもう行かないってなって。」
いやあ、わからん。
わかるけどわからん、いやわからん。
「普通それだけ、こっちが嫌がっていることをします?
頭に来ないですか?」
この「普通」ってのが実に厄介ですよね。
わたしの普通はあなたの普通ではないし逆もまたそう。
でもたしかに、重なる、共感できることはある。
たとえば、家のポストに鳩の死骸とか放り込まれていたら誰だって不気味だし怖いし気分が悪いってなる、
まあそうだよね。
こういう例えを出せばたしかにそこをマイナスからプラスへと切り替えるのは、なかなか大変なことだよなあと思う。
でもたぶん、そこじゃない。
大変なんだからマイナスに受け取ってしまってもしょうがないよね、という話じゃないはずなんだよ。
自分の力だけじゃどうにもできないことがあるんだと強調するような側面に、光を当てるメリット/デメリットを考えてみる。
というか、自分の力だけではどうにもならないことを、どうにもならないって嘆くんじゃなくて、腹を立てるんじゃなくて、ともかくそうなんだと受け容れる。
そして、ならば自分の力だけで変えられることは何だろう、自分がこの困難な局面において変えられることは何があるんだろうって、
そっちに意識を向ける。
たしかに、どうにもならないことについて、どうにもならないことを拒みながらいつまでも何とかならないものだろうか、
といつか天気が変わるのを待つように悶々とジリジリ待っていても、足掻いても、まあなんだろう、気の長い話だよね、それってともかく。
もちろん、あなたが、彼が、彼女が、それでいいなら、まったくそれでもいいんだ。
それでもいいんです。
実際、時は決して止まらない。
変わらないものは何もない。
他人たとえば親の、行動をあなたがコントロールすることはできない。
あなたにコントロールできるのは、親の行動によってあなたが抱きうる感情をも含めた、受け取り方だけ。
わたしがあれこれ他人の心情を予測しても意味がない。
少なくとも他人にとって意味あるものにすることはできない。
わたしにとっては意義あることかもしれないが。
言葉では言い表せないものがいまだある。
それはいつまで待とうとも、どう言葉がけしようとも結局、彼女が彼女自身の言葉で表現する時がこなければ、まったく意味をなさないんだ。
言葉尻をつかまえれば、いつだって空回りの遠回りをするだけ。
面白いよなあとそれこそ他人事だけに思う。まるで、
なんていうか、自作自演じゃないかと、
枠の外から見ればそう見えるんだ。
「だって腹が立ちませんか?
わたしはそれをされるのは絶対に嫌だってあれほど断ったのに、こっちの意向をまるで蔑ろにして、いったいどういうつもりなんだって思いません?」
いや思わない。
多少は咄嗟には思うよそれは。でもケツから言えばまあ、思わない。
腹が立つだけ損、というか無益だと思う。
あなたに変えられるのは自分だけ、相手の行動を変えることはできない。
「えええ、そうですか?
わたしは気になっちゃう。」
この途切れることなく、ふりだしへと戻るメビウスの輪ときたら!:-/
この輪は、自分自身の手によってしか決して断ち切ることはできない。
足掻くのもいい。
足掻いただけ、苦しみを知っただけ、
同じように苦しんでいるひとに寄り添うことができるからね。
そうした価値だけはある。
そうした価値だけがある。
でも寄り添って共倒れしないということには実際たいへんな技倆がいる。
相当な器量がいる。
あなたにそんな覚悟があるのなら、明かりの見えない絶望にも希望を見出すことはできる、きっと。
覚悟さえあれば、つまり何があっても自分は希望しか見ないんだと思い決めているのならば。
そうではないのなら、やめときな。
他人の、それが例え親であれ面倒を看るより前に自分の埃を払った方がいい。
他人に対する心配/配慮を口実にして自分自身から目をそらすのは、うまくない、不味い。食えない。
「スカーフェイス」という物語。
事実は小説より奇なり、なんていう。
実際には、小説とは事実を、現実を適宜に抽出することだ。
勝手に登場人物が動き出して、なんていうでしょう、あれはわかる。
整合性っていうのは普通、物語の生む流れに抵抗しなければ自然と出てくるものだ。
物語は面白いよね。
昨日、映画「スカーフェイス」を再度観ていたら結局最後まで観てしまって朝だった。
予約していたジムには行けず、仕事の時間に目がさめると同時に職場から電話が。
うん。おはよう、今起きた。
というと相手は笑っていた。
わたしは夢の続きが見たくて二度寝することはよくあるけど、寝起きはいいほうで、母親が言っていたが、まだ幼い頃、のんちゃんおやすみ、というとコトンと寝て、のんちゃん朝やで、というとスッと起きるので実に手がかからなかったと。
じゃなくて、スカーフェイスね。
ある意味相当、暴力的な映画だが、あれはなんだか、切なくもあるが可愛いよな。
役者として生きるって素晴らしいな。
職業・役者じゃなくても、誰だって要するに役者ではあるんだけど。
ユマ・サーマンもすごくいい。
美人ってこうでなくちゃね、という一つの極地だ。
実に頽廃的で、矛盾するようだが生き生きとしていて、いい。
アル・パチーノがチビなんだけどそれがまたいいんだよな。
それがいい、と思わせたらまあ勝ち、というか一つの成功だよね。
自閉症は病ではなく、障害ではなく、個性だなんていうが、
いや、たしかに個性でないものなど実のところ、一つとしてない。
すべてはただ単純に個性だ。
こういうのが良くてこういうのが悪い、なんていう話を聞いていたらすごく退屈してくるじゃない?
いや、わたしはしてくる。
なるほど、あなたはそういうふうにおもうんだね、と話を聞くけど、あまりにくどいと、面倒くさくなってくる。
どうでもいい。
筋トレにはまっているわたしが最近好きなモデルの、エミ・レナータがyoutubeであげていた動画で、
有酸素運動のあとで筋トレがいいの?前がいいの?
という質問に、どっちでもいい、とにかく、して、と答えていたところ、すごく好き。笑っちゃった。
どっちでもいいことって、いっぱいあるよな。
ありすぎるくらいだ。
物語が好きだ。
小説もそうだが、物語っていうのは、
みんな持っているんだよね。
起きたものごとをありのままに忠実に描き出せばそれは一編の美しく躍動的な、感動的な物語になる。
他者をコントロールしようとしない限りはね。
つまり、自然と動き出す物語をコントロールしようとしなければそれは、
素晴らしいタペストリーになる。
持たなきゃ失うこともない。
恋さえ追い風にしようとしている。
努力する必要はありません、というのはわかる。
でもここは前後の文脈というか、語彙のもつ限界が混乱させるものだという気がする。
つまり、努力が悪いわけじゃない。
それを、努力と呼ぶとして、だが。
と、いうようなね。
ここには重力がある。
ということだと、おもう。
重力から完全に自由になっちゃったら地球から飛び出てしまうよね。知らんけど。
そういうことだとしましょうや。
地球にいるという選択をするのなら、重力の影響は浴びざるを得ない。
そしてたしかに重力が悪者だなどということは、できないよね。
存在する、ということが、いわばもうそれだけで、重力との関係を断つというようなわけにはいかないのだし、
日焼けしたくないから太陽が嫌いだって言ったって太陽なかったら死んじゃうじゃんというか。
重力もそれと同じで、それはもうあるんだから、それをいかに自分のなかに取り込むか、どう活用するか、ということなんだとおもう。
感情なんてなくなってしまえばいい、と言ったひとがいる。
わたしは、ちょっと言葉を失ってしまった。
いや。
えっ?いや。
苦しい思いはしたくない、悲しい思いはしたくない、それはわかる。
でも、感情がなくなればそれらもなくなる、というのは、まあ、なんだろう、違いますやん。
感情って単に副産物だ。
財布を落として笑っているひともいれば泣くひともいれば、怒るひともいるわけで。
なぜそうした違いが出てくるかといえば、起きたその物事を自分がどう受け取っているか、
そしてどう受け取るのか、ということは、自分自身がコントロールできることだ、本来は。
あなたの思考は、あなたのものではない、というのも、わかる。
つまり、不幸なひとは他人の人生を生きようとしている。
という言い方もできる。
あなたが自分の考えたことだと思っている内容とは実際のところ、他人が考えたことをミラーニューロンのふるまいで、自分の考えのように思い込んでしまっているのだ。
という言い方もできよう。
目に見えないネットワークはたしかにある。
水の例えは、わかりやすくて好き。
水は、気体、液体、固体になる。
液体までは目に見えるが、気体になっちゃうと目には見えない。
目に見えないからそれは無いと思うのは実際のところ、短絡的にすぎる。
感情も、目には見えないが、実感としては「目に見える」といっていいほど、確かなものだ。
でも、もっと見えにくいものがある。
それが受け取り方であり、考え方であり、信念体系のようなもの。
感情は結果だ。
感情に先立つものがある。
財布を落としたら最悪だ、と思っていたら、財布を落とせば最悪だ、となる。
でも財布を落とすこと自体はニュートラルで、最悪でも最高でもべつにない。
えっでも財布を落としたら最悪じゃん、とかいう堂々巡りはやめましょ、というか、やめな。
人生万事塞翁が馬。
あなたは種をまいた。
種をまくってことはなかなか目には見えない。
それでそんなことはなかったことにしてしまっている。
なかったことにしてしまっている、というとまるで意図的だが、
そう、たしかに意図さえもない。
その意図を自覚的にするってことはなかなか相当できない。
別にそれはできなくてもいいの。
そこは気にするな。
肝心なのは、種をまいたってこと。
種をまけるのだと「知る」ってこと。
自分には種をまく能力があるという可能性を知ることだ。
実感できなくてもいい。
で、種をまいたからには芽が出て、花が咲き実がなる。
自分にも他人にも「目に見える」ようになるのは、花が咲いたころ。
でもそれ以前のことがある。
財布を落としたのも結果なら、それに伴う感情はもっとあとの結果なの。
感情なんてなくなればいい、というのは、財布なんて最初からなければよかった、というようなもの。
いや、財布があるってこと自体が悪いわけじゃないだろってこと。
でも、わたくしにもある。
わたしは鍵をなくして家に入れないということほど馬鹿馬鹿しいことはないと思っていて、鍵をそもそもかけないし、持たない。
これはどこか、お金を持つことにも似ている気がする。
持たなきゃ失うこともない。
じゃあそもそも持たなきゃいいじゃん。
さあ、どうだろうな、そこは。
わたしたちが賭け事はせずに手元に置いておけるもの。
わたしは美しいものが好きだ。
わたしは美しく描くのが好きだ。
なんでもないもの、見逃されがちなもののなかに美を見出すことができたらいい、そう思っている。
相手を、誰か自分以外の者を、コントロールできると思うのはまるで愚かなことだ。
馬鹿とか無能っていうのは、どんなに身近であれ目下であれ、他者に過ぎないそれを支配できる、監視下に置ける、予定外の行動を取らせまい、取らないでくれ、と思うことだ。
こうなると、自分ってどこからどこまでが自分だといえるんだろう?という気もしてくる。たしかに。
どうなんだろうね。
予想外のことは常に起こりうる。
わたしは博打場に身を置いているが、こんなことは所詮博打ごっこだと思っている、
人生そのものが壮大な博打であることに思いをやれば。
博打は怖い。
誰だって怖い。
失うかもしれないものを賭けるのなら、賭けないままに、手元に置いておきたいと思うんだ。
でも手元に置いておけるもの、いったいそれはなんという代物なんだろう?
実に不思議だ。
わたしたちが手元に置いておけるもの。