しんだこと かんしゃ しているよ

 来るんなら殺す気で来いよ、と思っている。
 わたしは容赦しない、容赦するような身分じゃないと思っているから。
 容赦しないことを誠実さだと考えているから。
 ここは、考え違いをしているんだから、というニュアンスもある。
 
 子どもだった弟が阪神野田駅の線路へと落ちる。
 目を瞑りながらホームぎりぎりを歩くゲームをしていた。わたしもしていた。
 弟は落ちた。
 お母さんが悲鳴を上げ、そのへんにいたスーツ姿の男のひとが弟を引っ張りあげてくれていた。
 わたしは後ろから、ちょっと息を呑むような思いで、それを凝視していた。
 いま起きたことを、理解しようとしてじっと見つめていた。
 わたしは落ちられない、ということがわかった。
 それはどこか、痛みにも似ていた。
 弟は落ちることができる。
 わたしはとても落ちられない、それはどこか、敗北感にも似た青ざめた、痛切に突き刺さるような実感だった。
 たった、こんな駅のホームからさえも。

 弟に子どもがいる。
 生まれてすぐ、例によってわたしは生年月日を足してみる。
 22だ。
 なるほど、と嬉しく感じた。
 それなら、いずれまた会おう、と思った。 
 おばあちゃんの通夜で会うと、明後日六歳になるんだという。
 棺桶に死者へのメッセージを入れて焼くことができます、とメッセージカードが配られてくる。
 わたしはその甥っ子が手で隠すように熱心に書いているところへ、
 見せて、とちょっと弾むような挑む調子でいうと、
 つと眼鏡をかけた顔を上げて、いいよ、と彼も元気よく答える。
 そこに書かれていた文字がこうだ、
「しんだこと
 かんしゃ
 しているよ」
 いや、すっごいな。
 わたしは嬉しくなるくらい感心して、賢いねって叫ぶ。
 賢いってこと知ってたで、と彼の目を覗きこんでいうの。
 
 

殺さずに殺す方法を考え中。

 言葉は二重に響かせなければ、一重では捉えきれなくてふらふらする、ということを思った。
 このことを、どうしても言葉は裏切る、あらかじめ矛盾する、言葉では言い表せないものがある、とわたしは感じていた。
 二重にしなきゃ終わることなくメビウスの輪を回り続けることになる、自分がそうしているとも気づかず、どこかそうであることを気づきながら打つ手もなく。
 
 わたしは言葉を二重に響かせる。
 三重、四重ということもある。
 そうして安定感と、重なり合った和音の響きを楽しむ。

 どこかふざけたような余白、遊びを残しておかないと、詰まる。
 彼らは一重を拾って響く。
 そして勝手に崖から転がり落ちる。
 わたしは落ちない。
 
 公衆の面前で汚らしくオナニーをしているやつ。 
 あんなもの痴漢と変わりない、とわたしがいう。
 触られたんですか、というから、身体に触るだけが痴漢じゃないやろ、と返す。
 また別のひとにも同じようなことを言ったら、
 いまにはじまったことじゃないやろ、と返ってくる。
 いや、
 いまにはじまったことじゃない、だから何。
 いつはじまって、なぜいまもそうしているの。
 そんなありきたりな逃げ口上で、わかったふうな口をきくおまえはなんや。
 とちょっと向かう相手を変えたかのように向き直る。
 いわば、物騒で後先のないことだが、喧嘩に備えた小手調べをしていた。
 
 負ける喧嘩はできないし、相手を負かすことは自分に負けているようでいやだ、などと生温いことを言うのはやめだ、
 喧嘩上等だ、と思い決めていた、勝手に。
 だいたい、復讐だとか、仕返しだとか、思っている時点で甘いんだよ。 
 それは単に喧嘩でいい。
 人殺しもできないようなやつが、人殺しに勝てることはない。
 絶対に勝てないんだよ。
 だからって実際に殺せというわけじゃない、覚悟の問題なんだよ、
 人を殺しちゃうやつは覚悟を決めているようでそうじゃない、
 あれは単に喧嘩に勝ちに行っているだけ、
 そうして、勝つことで自分に負けている。
 
 自分に負ければいいんだ、と思った。
 上等じゃないか。
 自分に負けもできないやつが、何を言える。

 とはいえ、自分から唐突にふっかけるなんていう早まったことはやめにして、刃を鋭利に研ぎながら、機を伺うことにした。
 向こうからやってくる機を捉えて、一刀のもとに殺したら相手が負けを噛み締める時間もないだろうから、二刀目で必ずやる。
 こんな策でどうだろうか。
 誰にきいているんだろうか。
 周りの目もあるからな。

 あんな、公衆の面前で汚らしくオナニーをしているやつ、と罵っているとまわりがちょっと引く。
 その引きを実際の手応えとして量っている。
 これは、やつだけがそう、という話じゃないので実に物騒なんだ。

 下手したら周りが全部敵になっちゃうようなことに手を出している。
 まあ、下手にはやらないつもりだけど、
 わたしは100対1でもいく。
 死ににはいかない。
 自殺を相手に手伝ってもらうなんて、公衆の面前でオナニーをしているやつより罪深いものがある。
 そんなことはできないよな。

 

わたしは、心の神棚に「我」を祀っておく。

 わたしの心は豊かだ。
 わたしは豊かさと繋がっているから、環境や時代や周囲の人がどうであるかは関係がない。

 ここに齟齬がある。
 なんでそんなことで簡単に貧しくなれちゃうんだろう、と不思議だった。
 
 死にかけているひとの病床を訪れて、まだ与えられないことへの不平を言い、嘆いている姿を見て、
 自分でも実に説得力がないなという無力感と遠慮を感じながら、
 ほかにかける言葉も思いつかず、
 感謝できることを見つけるほうがいいってわたしはどこか躊躇いながら言うんだ。
 あなたはこんな病室、というけど、布団もある、屋根もある、空調もきいている、
 満たされているという感覚、いわば感謝の気持ちをもつかもたないかは、
 もう、自分の選択によるとしか、いいようがない。
 そしてどこまでいっても自分の選択から離れる、逃げるってことは、ただできない。

 そんなことはできないじゃんっていう心の悲痛な悲鳴、
 こういうのは、
 
 ほんとに逆なんだなあと思う。

 だから何を見ていようが自分の限界は自分で決めている。
 わたしが何を見ていようが、あなたが何を見ていようが、自分の限界は自分で決めている。
 そこは同じことだ。

 小学生や中学生で、いじめに遭っていて、そんなの相手にしなきゃいいんじゃん、なんて言われても、無理だ、できない、
 そんなのできないじゃんっていう追い詰められ方を、わたしは、
 いまにも死にそうなひとが「何を求めて」かは自分には推し量ることも躊躇われ、
 まして、相手の感じ方を自分が決めつけることなどもっと無理だと思えて、
 たじろいでしまって、
 そこでようやく理解するの。
 なるほど自殺するまで追いつめられるひとの心境は、こうもあるのかなと。
 
 あなたの求めていることは単に不可能だ、と宣言するくらいならその場を逃げ出したく思ってしまう。

 もしそれをするだけなら、わたしが、いまここ、に立ち会っている意味は果たしてあるんだろうか、と思うんだ。

 なぜわかってあげられないんだろう、という、怖いような泣きたいような気持になる。
 自分がすごく弱い人間だっていう気がしてしまうんだ。


 ネガティブに弱い。

 ネガティブなものに共感する気持ちを、保てないんだ。

 もっと大きなものになって、相手を丸呑みにして、叱りつけるくらいの器があれば、
 相手の全部を引き受けられるくらい、肚が座っていたら、覚悟ができていたなら、
 あのひとは安心して、それで治るものも治ったのかもしれない、
 と思うと、
 もうカルマだよな、どこか。

 忸怩たる気持ちを、忘れられずにいる。

 わたしが意気地ないんだ、という思いを忘れられずにいるんだ。

 治るも治らないも自分の選択の結果だ、という立場から離れることはできなかった。 
 わたしには何も他に言葉がない。

 感謝できないことへの共感はとても難しい。

 死のような圧倒的なイベントなら、なおさら。

 些細なことなら、言えるんだよ、おまえなんでそんな不味そうに飯を食べるの、感謝が足りんわ、とかなら。
 
 我を脱ぎたい。
 我はもうそれこそ、神棚にでも飾っておきたい。
 毎日わたしは、心の神棚に我を祀っておいて、それを脱いだまま過ごしたい。

 

カルマは愛だよ。

  

   友人にこないだ、のんちゃんよく主語がないって言われてたの覚えてる、とおかしそうに言われて、
 いやさ。
 よく言われてるのならたしかに問題というか、
 要するにわたしのほうでも相手に対する無関心があったのだと思うが、
 なにも期待していないというか、
 お父さんがよく言っていた「見てわからんもんは聞いてもわからん」的な投げやりさがあった、というか。
 
 
 こういうことは、なんていうか、
 照れではないが、
 美意識ではないが、
 いえば、言葉は少ない方がいい。
 省けるものは省いていったほうがいい。
 わたしはよく一回ですむところを二回するのは嫌いなの、ということをいう。
「あ」で通じるのなら「い」まで言わなくていい。
 新人の子の研修をしているときにも、
 90ドルナイスキャッチ、100ドルから参ります、ショート10ドル失礼します、コミッション10ドルから失礼しますって、
 いまなんで二回失礼しますって言った、と思って、
 そういうときは、ショート10ドル、コミッション10ドルから失礼しますって言うのと教えてあげる。
 整理するの、ちゃんと、文章を。
 二回も三回も言う効用、というのはある場合もあるのかもしれないけど、
 無自覚になんとなくやってるんなら、一回にまとめましょう。
 効果がないのなら重複は避けましょう。
 
 美意識っていうか、美意識で合ってると思うけど、
 効率が悪いことは美しくない。
 必然性のないことは美しくない。
 
 起きる物事はなんだって必然で、その必然性は絶対に後付けではあるのだが、先付けはできないから、(先付けもできるんだけども)
 ここをなんとなくとか偶然にしておいては、
 なんとなくならなんとなくの効果、偶然ならばそれが偶然である効果、を感じていないのなら、
 必然に置き換えていってもらいたい。
 その方が潔いし、美しいから。
 
 コミュニケーションにおいて、わからんやつが馬鹿、となど言っていたら、そいつこそ馬鹿、なのは間違いないんだけど、
 たしかに、通じる相手と通じない相手がいるんだよな。
 
 勘が鈍い。
 これは、もう、そうだなあ、馬鹿にしていては自分が馬鹿になるからやめておくとして、
 馬鹿にしているわけじゃないが、
 勘が鈍いことは、往々にして勘違いへと発展しがち。
 
 なんだろうな、勘って。
 馬鹿にすることには意味がないが、勘が鈍いと、勘の鋭いひとから、一定の状況下においては見透かされがち。
 勘だけじゃだめなのだが。
 愛がないとな。
 愛というか、関心だな、相手への関心もなく勘が鋭いばかりでは、その勘の鋭さが自分を苦しめるだろう。
 勘が鋭くても、相手への関心がなければ、それは勘違いへと発展していくだろう。
 わたしも人の子なので、自分にわかることは相手もわかるだろうということを、まあやってしまうことはある。
 そしてさっき言ったようにそこには美意識も絡んでくるので、
 言葉少なに通じ合える仲への気持ちよさを感じるってことは当然のようにある。
  
 友人の一人にものすごく言葉数の多い子がいる。
 東京だったか忘れたけどバスで行ったとき、ずっっっと、喋るの、自分ばっかり。
 話の切れ目もなく。
 話がどんどん展開していって、枝葉まで太くしていって、もはや根幹に戻るのにも一苦労、みたいな、
 要するに全然整理されていない、思いつくままの話をする。
 いやわれわれ喋りのプロじゃないですから、にしても常人の比ではない。
 だれだれっていう子がいて、だれだれっていうひとがいて、そのひとをなんでだれだれって呼んでいるかというと、こういうことがあって、そこにいたのはだれだれで、
 いやドストエフスキー読んでるんじゃないんだからっていうくらい名前さえもが煩雑にして量が多い。
 いや、それでいったい何の話をしようとしてこの話をはじめたの?と何度軌道修正を促しても、やっぱり枝葉を育てちゃう。
 わたしも相当辛抱強いと思うが、次第に疲れてきて、
 いったいこういうのは何だろうな、という自分の思考へと意識が向かう。
 
 いま思い返すに、もう、そうなんだよな、彼女自身が、枝葉を生きている。
 枝葉を生やすためには根幹を育てなきゃならないし、あなたはそもそも根幹でもあるんだということを、忘れてしまって、蔑ろにして、まるで糸の切れた凧のように風に任せて宙を舞うばかり、起きた物事に簡単に一喜一憂して、それがあたりまえだと思っている。


 仕事を飛びたい、というんだ。
 なんで飛ぶんだよ、辞めるでいいじゃん。
 ここを整骨院の先生は、何かに毒されているんじゃないですか、テレビとかに、というんだけど、それはまたちょっと違う、と感じている。
 辞める、ということさえもストレスなんだよね、おそらく。
 辞める、ということで起きるあれやこれやのコミュニケーションさえもがストレス。


 それは結局あなたが、自分の気持ちに嘘を吐いているからだ、とわたしは思う。
 厳しく言うと嘘、やわらかく言うと、誤魔化している。
 もう、他にもそういうひとはいるだんけど、
 というかだれでもなのかもしれないけど、
 仮面は仮面でしかない。
 嘘は嘘でしかない。
 過去の古傷、いわばカルマは、
 自分の手によって解消されるその日まで、この世にある何物よりも力強くそこに横たわり続けて、決してあなたを手放すことはない。
 カルマは愛だよ。
 あなたは愛を受け取ることをただ拒んでいるだけなんだ。
 ほんとうなんだよ。

無人島に持っていくスキンケアは、化粧水なんかじゃなくて、オイル一択!


 わたしを羨ましいとかいうひとって、舐めてるな、と思うんだ。

 おまえももうちょっと気概持てよ、というかさ。
 わたしは表面上、結果的に、笑っているだけに見えるかもしれないけど、常に真剣で勝負してるんだよ。
 小刀じゃなくて、真剣。

10:02 2019/08/09
 怯えたら、負け。
 そうだよなあ。
 相手を負かすことが勝つことだと思ってるうちは、そうだな、もう何にもわかっていない。

 わたしは迂闊に攻撃はしない、返り討ちに遭ったらイヤじゃん。

 愛の告白を怖がるのは傷つくのがいやだからっていうの、よくわかるよ、
 愛を打ち明ける行為は、本来攻撃ではない。
 おなじことだが、懇願でもない。
 要求ではない。
 
 愛の告白をまるで攻撃のように、懇願するように、要求するかのように、やってしまうとそれは、受け容れてもらえない、拒絶される、という返り討ちが怖いよな、と思う。

 わたしの真似は簡単そうに見えるかもしれないが決して簡単にはできない。
 わたしは遊んでいるように見えるだろう、ふざけているように見えるだろう、
 笑っちゃいけないようなところで笑ってそれを誰も、笑われた客が咎めないので、のんちゃんだから許されるってずるい、なんていうのは、
 まるでわかっちゃいないな、と思う。

 わたしは関係を築いている。
 関係を築いた上で遊んでいるわけで、ひとの上にあぐらをかくように自分だけ楽しんでいるわけじゃない。
 
 わたしは自分が唾を吐いた門を平気でくぐれるやつは嫌いなの。

 客がチップに見えているんだろう、なんて間の抜けたことは言うな、
 わたしは人間だと思って見ている。
 わたしがいつ油断したよ。
 
 だから、舐めているっていうのは、そういうことだよな。
 
 油断したらUFOが見えちゃう、わたしは油断しないからそれらを見ない。
 全部わたしの手柄にしたい欲張り者なの。

 迂闊な攻撃はしない、
 無自覚にはそれをしない、意図的にしかしない。
 落ちどころまで見据えた攻撃ではない、相手任せの無神経な攻撃をするなんて、
「自分が唾を吐いた門を平気でくぐれる」無礼者、愚か者だ。

 

ネガティブをポジティブへ変換させるときに、置いていってはならないこともある。

 もう二時だ。
 二時から四時が一番フレキシブルというか、松果体が活性化されるというか、 
 なんかそんな時間なんだと「あのひと」たちはいうのだが、
 そういう意味では、まもなく二時だ。

 数字を上げることがディーラーの仕事ではない。
 と友人に言い切ったあと、わたしは先月の成績一位だったよって一位賞与をもらった。
 なんか、嬉しいんだけどその嬉しさが単純ではない気分を味わった。
 不思議なもんだな、というか、やっぱりそうか、というような。
 
 今日は、仕事の話。
 まだまとまりがないんだけど、
 要するにわたしが、お客さんのペアを当たったのに引いちゃった、ということが二回続けて起きた。
 二回目でお客さんが物申す。
 わたしはディーラーをチェンジ。
 
 一回目のときには笑ってやり過ごしてくれたお客さんが、二回目のときには本当に立ち上がって、というのは物理的にではなく、
 おまえそれはないやろ、と。
 おまえら、それはないやろう。
 うん、ニュアンスとしては、こっち。
 以前からちょいちょいあることだけど、わたしがミスをしたら、客はわたしではなく張り付き、つまり、わたし以外のそこらの方へ怒る。
 ここでの客の真意はともかく、
 わたしにではなく、それを見過ごした方へ怒る、ということについて、
 わたしはもっと真摯に受け止めなくてはならないな、と今日思った。
 だいたい、わたしがそのミスをする時点でどこか、軽んじている、軽く見ているというところがある、そうした事態を招くことに対して。
 いわば、そうしたウッカリはあったところで不思議じゃないだろう、という真剣でなさで処しているところがある。
 いや、それだけはしないと心に決めていることって、やっぱりしない、んだよな。
 しなければラッキー、みたいな態度、どっちつかずの心持ちだからこそ、それこそ必然のように、やっちゃうんだ。
 運ではない。必然だ。
 というような姿勢でミスが起きることに取り組んでいないというかね。

 とはいえこれはあとあと思ったことで、
 最初にはわたしは神さまに感謝さえしていた。
 また物事が動き出した、ということを粛々と感じていたからだ。
 起きる物事が次の段階へ進んだんだな、ということを単純に喜んでさえいた。
 
 トラブルはチャンス、困ったこともチャンス、そんなことを先取りし過ぎてちょっと浮かれさえした。
 
 ミスだとかトラブルは起きてナンボだ、とわたしは思っていたけど、
 それを瞬時に対応しきれない同僚がいることに対しての、わたしは、配慮が足りないんだよな。
 それを即座にプラスに捉えられないひとのことを置き去りにしすぎる。
 
 まあ、いわば、梟カフェのオーナーに冷蔵庫のリース・ローンの連帯保証人を持ち掛けられたときに、お母さんに反対されたけど、いやもういいよってわたしは肚をどこかでくくって引き受けたが、お母さんはそうではない、
 そうではないから、支払いが滞ったときにめちゃくちゃ心配する。
 お母さんは肚をくくってはいないんだ。
 最悪、の見極め点が違う、ということにわたしは、雑な対応をしすぎる。
 そして、心配するひとを馬鹿だな、は言い過ぎだが、それはわたしの課題ではないって若干苛立つというか、説教さえしたくなる、
 こういうことは、
 やめなきゃならないんだな、そういうところまで来たんだな、と思った。

 今日帰りが遅くなったのは、わたしに服をくれるという女のお客の家に行って、話こんでいたからだ。
 彼女がいう。
 わたしもどれだけひとに借金を踏み倒されているか、と。
 わたしは、「あなたね」と腰を浮かせつつぐっと堪えてきくと、
 ひとを信用できない自分なんて、というんだ。
 ひとを信用できない自分にまだなお生きていて価値があるのか、というほどの気迫に満ちたその一言をきいて、わたしは浮かせかけた腰をおろして、
 なるほどな、なるほどね、としみじみ言った。
 いや、わかるよ。
 わたしもそうだ。
 わたしもそうなんだ、どこかしらね。

 彼女も本当に男前というか気風の良いひとで、やくざ男五人に女一人で刃物片手に渡り合っちゃうようなひとなんだ、
 それで自分も女だてらに、惨憺たる傷を負いながら、やくざの親分を通して、お金で解決なんてしない、お金なんていくらでも要求できるけど、お金が欲しいわけじゃない、土下座しろ、そうしたら許してやるなんて見得を切って、啖呵切って、実際に土下座させたりしてさ。
 退くくらいなら一歩前に出る、と言った茨城のよっちゃんを思い出すようだった。
 その彼女に、あなたも気が強いと最初見たときにわかった、と言われたのと、
 彼女55歳なんだけど本当に肌がきれいで髪は健やかに艶やかで、スタイルも抜群に良くて、その彼女に、
 あなた最近肌にも張りが出て、最初に見た三年前よりも若い、と言われたことが、
 ああ、家まで行ってよかったなあと思えた点。個人的に。
 つまり、単純に嬉しかったんだ。

 それで、戻るとそのお客が怒り出したとき、
 そりゃま、当然なわけで、
 こういうものを厄介がっていては何の何でもありはしない。
 むしろ、こういうことを拾ってものすごく怒ってくれるお客っていうのは貴重なわけで、
 だって皆そういうことを億劫がっちゃうじゃん、そうでしょ。
 それを億劫がらずに、臆さずに、鬱陶しいとか嫌われるかもとかそういうことを辞さずにちゃんと怒ってくれる、
 そういうひとってやっぱり、すごいと思うんだ。
 いわば、皆が気が引けてモヤモヤを抱えたまま、あるいは自分だけで自己解決してしまって、敢えて表には出さないことを、
 嫌われ役みたいなことを引き受けられるひとっていうのは、わたしはすごいと思う、
 だって、わたしにはやっぱり、できないもん。
 それで、それをできないわたしには、わたしなりの、返しどころがあると思うの。
 阿吽の呼吸じゃないけどね。
 
 最近、「舐めてる」ってのがわたしの旬な言葉。
 以前流行ったのは、「下心」だった。
 舐めている、舐めていない、で一刀両断しようとする。
 いやさ、舐めていちゃいけないな、と思うんだ。
 汚いからそれ、ともかく。

エゴには、「行きたい場所」なんてない。

 エゴについて、出勤時歩きながら思いついて、やっぱリンカーンみたいに帽子の中にメモを挟んで持ち歩くべきだよな、と痛感してから、
 いやいまはスマホのメモ機能があるじゃんと思い直してメモした内容って、
 覚えているんだよなあ。
 わざわざ読み返さなくても。
 うん、メモって読み返すためにする、わけじゃないわ。
 
 エゴに自分を操縦させているひと。
 というのがいる。
 いや、ほとんどそうかもしれない。
 というか、そうであるひと、とそうではないひと、に分かれるという話ではなくて、
 自分の中で、
 自分をエゴに操縦させている時間の割合が長いか、短いか、という話。

 わたしは、目覚めたことのないひとなんていないと思っている。
 誰だって、目覚めたことくらいはある。
 ふと目覚めてあたりを見渡して、また眠りに落ちる。
 目覚めたことにも眠りに落ちたことにも要するに、気づかないまま。

 犬や猫も睡眠中に夢をみるけど、彼らは夢と現実の区別がついていない、という話はおもしろい。
 なるほどなあ、と思った。
 いったい、われわれが「現実」だと思っている、感じているところの実体とは何なのだろう?という話だ。

 エゴに自分を操縦させて何もいいことはない、その理由は、
 エゴにはどこへ行きたいという衝動も目的も、要するにないってことなんだよ。
 
 エゴには行きたい場所なんてない。

 車に喩えれば、ハンドルにもエンジンにもシートにも、あるいはバックミラーにも、「行きたい場所」なんてないんだよ。
 行きたい場所があるのはただ「あなた」なの。
 ハンドルを握るのはあなた、
 ハンドル自体に向かって、行きたいところへ行ってくれていいよってお任せするなんて、それは無理なんだよ。
 無理っていうか、なんだろう、馬鹿げている。滑稽だ。
 そんなこと言われたってハンドルだって困るだろ?