エゴには、「行きたい場所」なんてない。

 エゴについて、出勤時歩きながら思いついて、やっぱリンカーンみたいに帽子の中にメモを挟んで持ち歩くべきだよな、と痛感してから、
 いやいまはスマホのメモ機能があるじゃんと思い直してメモした内容って、
 覚えているんだよなあ。
 わざわざ読み返さなくても。
 うん、メモって読み返すためにする、わけじゃないわ。
 
 エゴに自分を操縦させているひと。
 というのがいる。
 いや、ほとんどそうかもしれない。
 というか、そうであるひと、とそうではないひと、に分かれるという話ではなくて、
 自分の中で、
 自分をエゴに操縦させている時間の割合が長いか、短いか、という話。

 わたしは、目覚めたことのないひとなんていないと思っている。
 誰だって、目覚めたことくらいはある。
 ふと目覚めてあたりを見渡して、また眠りに落ちる。
 目覚めたことにも眠りに落ちたことにも要するに、気づかないまま。

 犬や猫も睡眠中に夢をみるけど、彼らは夢と現実の区別がついていない、という話はおもしろい。
 なるほどなあ、と思った。
 いったい、われわれが「現実」だと思っている、感じているところの実体とは何なのだろう?という話だ。

 エゴに自分を操縦させて何もいいことはない、その理由は、
 エゴにはどこへ行きたいという衝動も目的も、要するにないってことなんだよ。
 
 エゴには行きたい場所なんてない。

 車に喩えれば、ハンドルにもエンジンにもシートにも、あるいはバックミラーにも、「行きたい場所」なんてないんだよ。
 行きたい場所があるのはただ「あなた」なの。
 ハンドルを握るのはあなた、
 ハンドル自体に向かって、行きたいところへ行ってくれていいよってお任せするなんて、それは無理なんだよ。
 無理っていうか、なんだろう、馬鹿げている。滑稽だ。
 そんなこと言われたってハンドルだって困るだろ?