ネガティブをポジティブへ変換させるときに、置いていってはならないこともある。
もう二時だ。
二時から四時が一番フレキシブルというか、松果体が活性化されるというか、
なんかそんな時間なんだと「あのひと」たちはいうのだが、
そういう意味では、まもなく二時だ。
数字を上げることがディーラーの仕事ではない。
と友人に言い切ったあと、わたしは先月の成績一位だったよって一位賞与をもらった。
なんか、嬉しいんだけどその嬉しさが単純ではない気分を味わった。
不思議なもんだな、というか、やっぱりそうか、というような。
今日は、仕事の話。
まだまとまりがないんだけど、
要するにわたしが、お客さんのペアを当たったのに引いちゃった、ということが二回続けて起きた。
二回目でお客さんが物申す。
わたしはディーラーをチェンジ。
一回目のときには笑ってやり過ごしてくれたお客さんが、二回目のときには本当に立ち上がって、というのは物理的にではなく、
おまえそれはないやろ、と。
おまえら、それはないやろう。
うん、ニュアンスとしては、こっち。
以前からちょいちょいあることだけど、わたしがミスをしたら、客はわたしではなく張り付き、つまり、わたし以外のそこらの方へ怒る。
ここでの客の真意はともかく、
わたしにではなく、それを見過ごした方へ怒る、ということについて、
わたしはもっと真摯に受け止めなくてはならないな、と今日思った。
だいたい、わたしがそのミスをする時点でどこか、軽んじている、軽く見ているというところがある、そうした事態を招くことに対して。
いわば、そうしたウッカリはあったところで不思議じゃないだろう、という真剣でなさで処しているところがある。
いや、それだけはしないと心に決めていることって、やっぱりしない、んだよな。
しなければラッキー、みたいな態度、どっちつかずの心持ちだからこそ、それこそ必然のように、やっちゃうんだ。
運ではない。必然だ。
というような姿勢でミスが起きることに取り組んでいないというかね。
とはいえこれはあとあと思ったことで、
最初にはわたしは神さまに感謝さえしていた。
また物事が動き出した、ということを粛々と感じていたからだ。
起きる物事が次の段階へ進んだんだな、ということを単純に喜んでさえいた。
トラブルはチャンス、困ったこともチャンス、そんなことを先取りし過ぎてちょっと浮かれさえした。
ミスだとかトラブルは起きてナンボだ、とわたしは思っていたけど、
それを瞬時に対応しきれない同僚がいることに対しての、わたしは、配慮が足りないんだよな。
それを即座にプラスに捉えられないひとのことを置き去りにしすぎる。
まあ、いわば、梟カフェのオーナーに冷蔵庫のリース・ローンの連帯保証人を持ち掛けられたときに、お母さんに反対されたけど、いやもういいよってわたしは肚をどこかでくくって引き受けたが、お母さんはそうではない、
そうではないから、支払いが滞ったときにめちゃくちゃ心配する。
お母さんは肚をくくってはいないんだ。
最悪、の見極め点が違う、ということにわたしは、雑な対応をしすぎる。
そして、心配するひとを馬鹿だな、は言い過ぎだが、それはわたしの課題ではないって若干苛立つというか、説教さえしたくなる、
こういうことは、
やめなきゃならないんだな、そういうところまで来たんだな、と思った。
今日帰りが遅くなったのは、わたしに服をくれるという女のお客の家に行って、話こんでいたからだ。
彼女がいう。
わたしもどれだけひとに借金を踏み倒されているか、と。
わたしは、「あなたね」と腰を浮かせつつぐっと堪えてきくと、
ひとを信用できない自分なんて、というんだ。
ひとを信用できない自分にまだなお生きていて価値があるのか、というほどの気迫に満ちたその一言をきいて、わたしは浮かせかけた腰をおろして、
なるほどな、なるほどね、としみじみ言った。
いや、わかるよ。
わたしもそうだ。
わたしもそうなんだ、どこかしらね。
彼女も本当に男前というか気風の良いひとで、やくざ男五人に女一人で刃物片手に渡り合っちゃうようなひとなんだ、
それで自分も女だてらに、惨憺たる傷を負いながら、やくざの親分を通して、お金で解決なんてしない、お金なんていくらでも要求できるけど、お金が欲しいわけじゃない、土下座しろ、そうしたら許してやるなんて見得を切って、啖呵切って、実際に土下座させたりしてさ。
退くくらいなら一歩前に出る、と言った茨城のよっちゃんを思い出すようだった。
その彼女に、あなたも気が強いと最初見たときにわかった、と言われたのと、
彼女55歳なんだけど本当に肌がきれいで髪は健やかに艶やかで、スタイルも抜群に良くて、その彼女に、
あなた最近肌にも張りが出て、最初に見た三年前よりも若い、と言われたことが、
ああ、家まで行ってよかったなあと思えた点。個人的に。
つまり、単純に嬉しかったんだ。
それで、戻るとそのお客が怒り出したとき、
そりゃま、当然なわけで、
こういうものを厄介がっていては何の何でもありはしない。
むしろ、こういうことを拾ってものすごく怒ってくれるお客っていうのは貴重なわけで、
だって皆そういうことを億劫がっちゃうじゃん、そうでしょ。
それを億劫がらずに、臆さずに、鬱陶しいとか嫌われるかもとかそういうことを辞さずにちゃんと怒ってくれる、
そういうひとってやっぱり、すごいと思うんだ。
いわば、皆が気が引けてモヤモヤを抱えたまま、あるいは自分だけで自己解決してしまって、敢えて表には出さないことを、
嫌われ役みたいなことを引き受けられるひとっていうのは、わたしはすごいと思う、
だって、わたしにはやっぱり、できないもん。
それで、それをできないわたしには、わたしなりの、返しどころがあると思うの。
阿吽の呼吸じゃないけどね。
最近、「舐めてる」ってのがわたしの旬な言葉。
以前流行ったのは、「下心」だった。
舐めている、舐めていない、で一刀両断しようとする。
いやさ、舐めていちゃいけないな、と思うんだ。
汚いからそれ、ともかく。