「仕事は我慢すること」ってのは違う。

 友人の話ね。
 本人にも言ったけど、「仕事だからイヤだけどする」って思ってほしくないんだ。
 我慢しなくちゃならないんだ、それが正しいんだ、それが世の中で通用するやり方なんだって思ってほしくはないの。
「ほんまはそんなこと通らないってわかっているけど、無駄な抵抗してみてん(笑)」と、彼女。
 もうイタイ子っていうより、もはや痛々しいっていうか、
 そうじゃないよって。
 もう、全然そうじゃない、ちがう。
 なんだろう、この、自分を騙す言動に周囲を巻き込む感じ。
 それを聞いて、

「周りが、苦手なことは無理させずに、フォローし合える世の中だったらいいのに」と泣く、また別な友人、の哀しみに共感はする。
 いやもう、彼女が他人の苦境に対して我が事のように「哀しみを感じて」くれたのなら、わたしは小さな成功を果たしている。
 
 無駄な抵抗してみてん(笑)に対して、
 そっか、仕事は仕事だけどそうやって、なんでも抱え込まずに小出しに不満をぶつけるくらい、いいよね、
 とは、わたしには返せなかった。
 そんな見当違いの場で小出しにしてるからあかんねん。
 と言っちゃう。
 いや、あかんねんとは言ってないな、そんなことをしていても見当違いでしかない、と言った。
 イヤなことをイヤだと感じてはダメって言ってるんじゃないの。
 イヤなことはともかく間違いなくイヤなの。
 ちゃんと理由があるの。
 その理由を見つめてほしいんだよ、他人に肩代わりさせずに。
 あるいは、それが「仕事」であること、をスケープゴートにはせずに。
    
 哀しむことってすごい大切だとわたしは思っている。 
 哀しみは浄化だから。
 というか、なんであれ自分の思いを「感じ切る」ってことは浄化になる。
 嬉しい、楽しい時間ならあっという間に経ってしまってもっと、もっとってなるのに、 悲しい、苦しい、やりきれない、ってことには、
 皆それを「感じ切る」前に、逃げ出しがち。
 哀しみに圧し潰される前にそこから逃げ出す、これは生存本能、防衛反応なのかもしれないけど、
 それ、逃げても同じこと、なにも変わらない。
 環境とか他人とか状況が、その哀しみを抱えて不意に現れて、自分に押しつけてきた、んじゃないんだよ、それはあらかじめ「自分の中にある課題」みたいなものなの。

「新・ハトホルの書」を読んでいたら、
 あなたはイニシエーションを授かるためにどこへ赴く必要もありません、
 とあって、すごいわかる、とほんわかした。
 あれ、これ前も書いたっけ。


 実践が大事なんだって聞いて、そうか、と張り切って「実践できる場所」へ出かけていく必要なんてないんだよな。
 いや、うーん、まあわたしは、そうだな。
 よく「水泳法」の本をいくら読んでも実際に水に飛び込む勇気がなければ泳げるようにはなりませんっていうアドバイスがあるじゃん。
 これは、まあ、半分ほんとで半分ほんとではない、というか「片手落ち」である、というふうに思う。
 いや、それで、納得して実際に水に飛び込んでしまえるなら、それはそれでいいんだ。
 でもいまどき、イメトレなんて言葉も耳にする世の中で、
 
 なんていうのかな、
 水場へ出かけなくても自分の中にもちゃんと水場は存在しているんだよ。

 わたしは自分の話が自分にしかわからないんだ、ということが、よく「わかって」いて、
 それこそ小出しに、どころか封じ込めてきたようなところがある。
 うん、だから、そうやって、あからさまにまずいやり方でもオープンになれるひとっていうのが、羨ましいはテンコ盛りにしすぎだけど、
 単純にすごいな、なんなの、っていう気持ちはあった。
 なにがあなたの背中を押したんだ、というような。
 
 でも、もう、いいかなあと思ってる。
 わたしは誰に、何に背中を押されなくても構わないや、
 自分が語りたいことを語ればいいのかなと。
 めちゃくちゃ徹底して空気を読む。的なところがある。
 到底そうは思えないんですけど、というのはわたしの「恰好」に騙されてくれているひとだ。
 いや、言い換えれば、たいていのひとがそうであるように、自分の弱点については徹底的に隠したがるところがわたしにもある、というようなことだ。

 職場の友人にもそうしたところがある。
 いや、見えています、って周りはなるんだよな、けっこう。
 わたしだっておそらくそう、なんだろうなと。
 ならもう、隠すことにはそれほど大した意味なんてないんだと思い切ってしまうほうがいい。
 そこに意味があると感じているのは、ほかの誰でもなく自分だけなんだから究極。

 結局、何が好きとか、嫌いとか、こう感じるとか、なにがどうとか、
 語る内容なんてどうでもいいんだよな。
 大事なのは「語り方」だ。
 姿勢というか。
 モチベーションというか。
 コミュニケーションスキルというか。

 共感することは得意だけど、共感させることは苦手、
 そういうひとは多いんだと思う。

 その友人だって、自分には共感能力がないんだとか言いながら、職場の彼女の話をしただけで、勝手に彼女に取って代わってしまうわけでさ、
 共感能力がない、相手の立場で物を考えられないってのは、そう言い切るのはむしろ嘘だよねっていうくらい、優しさを発揮することがある。
 共感。
 てのも不思議だけどなあ。

 いやそれ、誰だってするだろう。
 しなきゃたぶんとっくに死んでるよね。
 だって。
 それがいわば、プラーナ・生命力を取り込む行為というか。
 
 わたしがいま不意に思うに、相手にプレッシャーを与えないような話し方、伝え方をできるひとは素晴らしいってことだ。

 そして、そういうひとがなぜそんな伝え方をできるかっていうと、
 やっぱり、
 自分もまたそれだけプレッシャーを鋭敏に感じ取る感性を培ってきたからだと思うの。
 そして、そのことに自覚的である。
 自分が苦しんだこと、悲しんだこと、辛かったことを「感じ切って」いるひと。

 わたしはよく思うんだけど、誰だって昔は子どもだったよねってこと。
 誰だって老人からはじめて、若返って、最後に赤ちゃんをやるわけじゃないでしょ。
 誰だって最初は赤ちゃんだったよね。
 もうよく覚えていないかもしれないけどさ。

 ならもう、「思い出せばいい」だけのことなんだよな。

 

「もったいない」っておもしろいよな。
 わたしもある。
 ひとを見ていて、そう頻繁にではないけど、もったいないなあと。
 いや、それテメエがテメエに言ってやれって話、なんだけどな。

 わたしは実はよく、というか、ちょっと仲良くなった子から、もったいない、と言われることがあって、
 おまえ見当違いすんなよ、と見栄を切っていたわけです、本人にはそうまでダイレクトには返さないけど。
 でもどこか、彼女や彼が言っていることは、まあわかるよという気もしている。

 もったいない。
 ほんと、
 もったいないよなあ。