わたしは、心の神棚に「我」を祀っておく。
わたしの心は豊かだ。
わたしは豊かさと繋がっているから、環境や時代や周囲の人がどうであるかは関係がない。
ここに齟齬がある。
なんでそんなことで簡単に貧しくなれちゃうんだろう、と不思議だった。
死にかけているひとの病床を訪れて、まだ与えられないことへの不平を言い、嘆いている姿を見て、
自分でも実に説得力がないなという無力感と遠慮を感じながら、
ほかにかける言葉も思いつかず、
感謝できることを見つけるほうがいいってわたしはどこか躊躇いながら言うんだ。
あなたはこんな病室、というけど、布団もある、屋根もある、空調もきいている、
満たされているという感覚、いわば感謝の気持ちをもつかもたないかは、
もう、自分の選択によるとしか、いいようがない。
そしてどこまでいっても自分の選択から離れる、逃げるってことは、ただできない。
そんなことはできないじゃんっていう心の悲痛な悲鳴、
こういうのは、
ほんとに逆なんだなあと思う。
だから何を見ていようが自分の限界は自分で決めている。
わたしが何を見ていようが、あなたが何を見ていようが、自分の限界は自分で決めている。
そこは同じことだ。
小学生や中学生で、いじめに遭っていて、そんなの相手にしなきゃいいんじゃん、なんて言われても、無理だ、できない、
そんなのできないじゃんっていう追い詰められ方を、わたしは、
いまにも死にそうなひとが「何を求めて」かは自分には推し量ることも躊躇われ、
まして、相手の感じ方を自分が決めつけることなどもっと無理だと思えて、
たじろいでしまって、
そこでようやく理解するの。
なるほど自殺するまで追いつめられるひとの心境は、こうもあるのかなと。
あなたの求めていることは単に不可能だ、と宣言するくらいならその場を逃げ出したく思ってしまう。
もしそれをするだけなら、わたしが、いまここ、に立ち会っている意味は果たしてあるんだろうか、と思うんだ。
なぜわかってあげられないんだろう、という、怖いような泣きたいような気持になる。
自分がすごく弱い人間だっていう気がしてしまうんだ。
ネガティブに弱い。
ネガティブなものに共感する気持ちを、保てないんだ。
もっと大きなものになって、相手を丸呑みにして、叱りつけるくらいの器があれば、
相手の全部を引き受けられるくらい、肚が座っていたら、覚悟ができていたなら、
あのひとは安心して、それで治るものも治ったのかもしれない、
と思うと、
もうカルマだよな、どこか。
忸怩たる気持ちを、忘れられずにいる。
わたしが意気地ないんだ、という思いを忘れられずにいるんだ。
治るも治らないも自分の選択の結果だ、という立場から離れることはできなかった。
わたしには何も他に言葉がない。
感謝できないことへの共感はとても難しい。
死のような圧倒的なイベントなら、なおさら。
些細なことなら、言えるんだよ、おまえなんでそんな不味そうに飯を食べるの、感謝が足りんわ、とかなら。
我を脱ぎたい。
我はもうそれこそ、神棚にでも飾っておきたい。
毎日わたしは、心の神棚に我を祀っておいて、それを脱いだまま過ごしたい。