荒唐無稽が真実。

 ドクタードルフィンこと松久正の「地球人革命」を読んで、これは荒唐無稽だと思って嬉しくなった。

アガスティアの葉」とか、サイババについて書いたひとの話を読んだときにも思ったし、本人も言及していたが、
 知っている、ってなんだろう、信じているってなんだろうって。

 わたしは自閉症に興味がある。
 自分が実際に、そうだとされる、いわば「重篤」な自閉症のひとと接したことはないんだけど、
 わたしたちって皆、程度差はあれ、自閉症みたいだよね?と思う、という意味において興味がある。
 トリイ・ヘイデンの「よその子」を読んでいると、
 識字障害の子が出てくる。
 話すことはできる。
 計算をすることだって数を数えることだってできる。
 他者に関心をもち、思いやることもできる。
 でも、字が読めない。
 それが先天的なものなのか、頭蓋骨を骨折し脳への損傷も認められた、事件による後遺症のせいなのかは、わからない。
 ともかく、字を識別することができない。
 わたしはこういう話を聞くと本当に感に堪えない。

「レトリックと人生」という本を読んだときにも思ったが、
 比喩って、
 目に見えないネットワークなんだよね、要するに。

 発達障害とされるひとが、言葉通り、額面通りにしか受け取れない、という話は、
 言葉の裏を読んであたりまえ、醸される空気を感じ取ってあたりまえ、としてそのあたりまえに無自覚に過ごして生きていると、額面通りにしか受け取らないひとに対して、

「本気?嘘だよね」、と驚愕するような、
 戸惑いの半端ない具体例がいくつも出てくる。

 肝心なのは、わたしたちは、わたしたちがどうやって字を識別しているのかってことを、
 実はわかっていないってこと。
 わかってもいないくせに、どうしても字が読めない、というひとを目の前にしたときに、


 ものすごく不適切な態度で接してしまうことがある。

 これは自閉症に対してもそうだし、発達障害に対してもそうだ。

 実際のところコミュニケーションっていうのは、目に見えないネットワークそのものだ。
 究極的には、人生それ自体が比喩そのものだ。

 字は見える。
 話す声は聞こえる。
 でも、いったい自分たちがどうやってこれらのツールを駆使しているのかという「からくり」を知っているひとは、いない。

 それはいわば、なぜ、どうやってわたしたちは呼吸しているのか、ということが「わかっていない」のと同じくらい、要するにわかってなどいない。
 いったいどうやって意思疎通をはかっているのかをわかっているひとなどいない。
 字であれ、言葉であれ、感情であれ。

 わかっていないのに、わかっていなくても、それを習得している、というだけ。
 呼吸しなくても生きていけるひとが、いるかいないかは知らないが、これは極端すぎる例なのでいったん置くとして、
 字が読める。
 とか、別に字が読めなくても死にはしない、というようなことにおいては、
 なんていうか。

 字が読めないという選択をすることは(習ったことがないからとかではなくて!)、決して容易ではないが、まったく不可能というわけでもない。

 そもそも、なぜ字が読めるのか、ということを、
 なぜ空気を読めるのか、ということを、
 なぜ比喩を理解できるのか、ということを、
 
 そうはできない、理解不能だというひとに完璧な説明をできるひとはいない。

 相貌失認症とかいうのも同じだ。
 わたしたちはおそらく、顔そのものだけを見て相手を相手本人だと認識しているわけではない。
 もっと全体的なもの、顔に宿る表情とか、動きとか、シルエットだとか、あるいはもっと目には見えないし無自覚でもある情報に頼って、
 顔の造形それ自体ではなくもっと説明不能な本質的なものに頼って、
 人と人とを区別している。

 相貌失認は、どことなく自閉症に似ている。

 そしてわれわれ、皆程度差はあれ、自閉症じみている。

 字が読めないってどういうこと?
 顔が認識できないってどういうこと?
 一字一句言葉通りの指示がなきゃ動けないってどういうこと?
 
 相手を責めたり見下したり、あるいは拒絶したりする前に、
 自分にはなぜそれらが可能なのかという説明を自分自身に対して試みてほしい。
 
 たぶん、説明できないよ。
 だってこれは本当に難しいことだから。

 自分には可能、でも他人には不可能、
 いったい何が自分には可能にさせているのか、という回路、このからくりを説明することは、ほとんどのひとにとってひじょうに困難な試みだ。

 だってあのひとは出来ないかもしれないけど、このひとは自分と同じように出来ているよ、なんていうのは幼稚園児的な発想だよ。

 共感の世界に安住するだけでは成しえないことがある。 

 それで、冒頭に戻ると、
 荒唐無稽な話って、すごく嬉しくなる。
 実際のところ、わたしは彼の話にほとんど全面的に「共感」している。
 わたしの前世はイルカじゃないし、UFOもものすごく遠くから一度きりしか見ていないし、過去世なんてまるっきり一つも覚えていないし、幽霊は見えないし、鉱物のエネルギーは受け取れないし、医者でもないし、物理学者でもないし。

 でも共感はしている。
 あんたの言う通りだって、あまりにそうだから笑い出したくなるほどだ。

 地球が丸い、なんていうのもある意味、荒唐無稽なんだよ。
 いったいあんたそれをこの目見たの、実感したの、と思う。

 あたりまえはあたりまえじゃないんだよ。

 わたしは前世を覚えていないのと同様、自分が赤ちゃんだったころとか、まして生まれてきたときのことを覚えていない。
 それでふと子どものころに、いったいお母さんは本当にお母さんで、お父さんは本当にお父さんなのかな、
 と実に素朴に疑問に思ったことがある。
 だって、自分では記憶にないからだ。

 もし完全に騙されていたとしても自分にはそれを見破る手立てはないじゃないか、と思った。
 だって、記憶がないんだもん。

 それで、いまもし、実はあなたのお母さんはわたしなのよとかいう見も知らぬ人が出てきたら、どうしよう、と思った。
 わたしは自分のその空想に真剣に取り組むと同時になんだか笑ってしまった。
 いや、だってほんとに困っちゃうじゃん、そんなのって。
 
 でもそのときに思った、
 誰が本当に自分のお母さんなのか、ということなど、本当に何でもないのだと。

 わたしはわりと本当に何でもかんでも空想で片付けちゃうんだよ。
 もちろんそうじゃないことだって思い起こせばいっぱい、あるけど。
 手を出さなきゃ気が済まないことだっていっぱいあった。

 この荒唐無稽が面白いのは、要するにあなたは何も知らないってことを、突きつけてくるからだ。