記憶喪失が面白い。

   間が見えない。
 間を描写できない。
 結論はわかるが結論を導くことができない。
 答えはわかるが式がわからない。
 
 つまり、何かについて他人に(何なら自分にも)わかるような説明が出来なくてこの何日か困っている。
 発達障害に躓いたかな。

 アウトプットじゃなくてインプットの時期なのかもしれない。

 鏡像反転、鏡像認知も興味がありすぎてとても総括じみたことは言えない。
 この鏡の不思議、については昔から議論されているが結論はない、らしく、そういう点でも興味をそそる。
 昔から問われているがいまだ決定的な答えはない、
 ということの他の例を挙げれば、
 人は何のために生まれ、何のために生きるのだろうか、というような問いなども共通項があるのではないだろうか。

 しかし、それについては思うところがある。
 結局のところ、人を突き動かすものは、人を感動させるものは、
 結論じゃなくて過程なのである。
 たいそう評判になった本とか映画とかがあるとして、内容を一言で言ってくださいって、それ一言で聞いても感動するかって言ったらしないよね。
 流れを追わないことには、感動を獲得することもできない。
 だって所詮、他人が創った話だぜ?ってことだ。
 そもそも自分が無自覚に持っている前提からして違う物語を、たった一言で聞いてそれを理解できるか、体感できるか、って言ったらまあたいていは出来ないよね。
 まず前提を呑み込まないことには、その後の展開にもついていけない。

 FF11の世界を実にリリカルにかつ面白おかしく語ってくれた人(永井泰大)が、
 サッカー観戦についても語っていて、
 やはり実況中継的に、参加するということ、
 その試合の流れを「省略なし」に臨場感をもって、「その場にいるかのようにして」感じるということ、
 これが、まあ面白さのキモだよねと。
 
 人は何のために生まれ、何のために生きるのだろうか。
「そんなこと知らないよ」という世界にわれわれは生きているのだ。
 実際のところ、その「答え」など、知る必要はないんだと思うの。
 それはいわば、目的と手段とを取り違える愚、に通ずる何か、
「答え」を知るためにわれわれ、生きているわけじゃないんだと思う。
 まあ、わたしはそう思う、とまでしか言えないことだが。
 
 手段は目的であり、目的は手段である、というような「逆転」を、わたしたちは、しているのではないだろうか。

 記憶ってあるじゃないですか、
 記憶。
 それはわたしたちにとって、かけがえのないものである、と思う。
 いわばそれは、わたしたちを形作る大切な物語(アイディンティティ)なのである。
 最近、記憶について調べていて、それならこういう面白い小説があるよ、という、
 記憶喪失になった人が主人公の小説を、たまたまブックオフで見つけてちょっと立ち読みしていたら、
 名前を聞かれて、名前が思い出せない、
 ていうか何もかも思い出せない、ということに気づいて、地面から崩れ去るような恐怖を覚えた、
 という記述があり、
 
 これは、「記憶を保持しているわれわれ」からすれば、まったく共感できる「恐怖」であるが、
 本当に記憶喪失になってしまった人、からすれば、
 果たしてそこに焦燥を感じるのだろうか、という点は疑念を残す。
 
 つまり、まったく自分が「誰」だかわからない、自分の名前がわからない、出自がわからない、住所も職業も、それまでにあった日常もわからない、
 という状態を「恐ろしい」と感じるのは、
 本当にわからなくなってしまった人、ではなくて、本当はわかっているんだけど一時的にわからなくなってしまった状態、を想像するわれわれ、でしかないのではないか。
 
 本当にわからなくなってしまった人、からすれば、名前はなんていうんだ?と聞かれて、名前がわからないことに恐怖する、というより、「名前って何だ?」と思うのが「自然」なんじゃないか、と思うのだ。
「おまえ、名前何ていうんだ?」
 と聞かれて、
 そもそも「名前」とは何か、
 ということは「わかっている」とすれば、それは果たして、「記憶喪失」と言えるのかどうか。
 
 飛ぶようだが、たとえば、
 税関でパスポート、
 いやもっと卑近な例でいえば、電車に乗っていて、下車しようとして、改札口で切符はと言われて、切符がないことに焦るのは、
 切符がなきゃここを通れないと認識している人でしかありえない。
 
 つまりそれは「中途半端な記憶喪失」である。
 切符がなきゃ困ったことになる、ということは記憶しているが、切符がどこにいってしまったかは記憶にない、
 という状態ではじめて、改札口で「困った」ことになる、のである。
 
 これはだからわたしが抱く「〈他者の前提〉による物語」を聞くときの「違和感」なんだな。
 
 それが「怖い」に、すっと入り込めない。

 記憶喪失、はだからたいへん面白い。
 そんなことを言い出せばそもそもじゃあ、なんで生まれてから獲得したに違いない「日本語」はわかるんだよ、覚えているんだよ、とも突っ込めるわけで。
 だから、記憶喪失、記憶というのは多分に恣意的であると思われる。
 
 どこかでふっと抜けるというか、
 あまりに荒唐無稽ならば人は覚めてしまうが、ある程度荒唐無稽さを排すれば覚めずに入り込める、という、
 何らかの了承があるんだな。
 もちろんそれは人によるんだけどさ。

 

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