「よその子」・自閉症
みんなの得意を売り買い・coconala(ココナラ)、超おもしろい。
いやもう、このフレームを考えついたひとがすごい。
以前一度利用したことがある。
オルゴナイトに興味を持って、ネイルパーツとして使えるオルゴナイトが売っていないかな、と検索したときに辿りついて、購入した。
で、ふとそういえばパーソナルカラー診断っていうのをやってもらいたいなあと思っていたのを思い出して、
ネットで色々見ていると、
実地にマンツーマンでやるのは4~5時間で38000円、また別のお店では2時間で8000円、
さらに調べていると、ココナラというサイトでは500円からとかあるそうで、
500円って大丈夫ですか、
その大丈夫っていうのは信憑性とかいうよりも、それでその商売、ビジネスって採算とれるの、っていう、自分の損得よりもそれを展開している相手方への不審感。
ブログで知り、実際に見てみたら、評判も高く口コミ数も多く、いまは4000円に値上げしていた。
ああよかった、と思う。
なんかわかんないけど。
それで何がおもしろいって、ココナラではパーソナルカラー診断だけじゃなくて、あなたのインナーチャイルドを癒します(遠隔で)、とかいう「商品」も売っているの。
いや、なんかすごいな、と思って圧倒されてしまった。
なんでも売っていますね。
ビジネスがおもしろい。
損得がおもしろい。
夢がおもしろい。
夢を追いかけるよりも、
もっといえば夢を貪るよりも、夢を提供するっていうことは、どういうことなんだろうって、
ここ最近ずっと、一日のうちに何度も思い出すんだ、その疑問を。
たしかに欲っていうのは、すばらしい。
わたしには欲がなくて、ただ羞恥心ばかりだった。
こないだ職場の休憩室で、テーブルを囲んでわたしを含め三人がすわり、自分が立ち上がってまわりこめば用を足せるところを、敢えて言うならば横着をして、それ取って、と頼んだひとがいる。
取って、と言われたひとも、立ち上がらなきゃどうも簡単にはそれを取れない、という状況で、
やだ、自分で取れよ、と答えた。
近いんだから取ってよ、となおも頼まれ、立ち上がらずに無理にとった結果、それを止めていたマグネットがはじけて転がった。
わたしはそれらのやりとりを聞いていて、いやだ、自分で取れよって言った子に、あなたはだって、自分の用は自分で足そうとするものね、と言った。
頼んだ方はなんで?人をつかうって必要なことじゃない?なんていう。
それらもそれらで追及すればおもしろそうではあったが、
わたしはふと、思いついて、
わたしは小学校低学年のころ、消しゴム貸してって言えない子だったと言った。
なんで?と聞かれる。
さあ、なんでだろう、それが謎だったから今もこうして覚えているのだ。
消しゴム貸してって平気で言える子ってどんな気持ちでそれを言えるんだろうって不思議だったっていうと、
いや、そりゃ貸してほしいっていう気持ちでだろ、と言われて、
そういえばそうだけどさ。
わたしだってそれを貸してほしいという気持ちはあったよ。
でもなんか気後れする。
その気後れするわけを、ずっと色々と思い返したりするのだ。
こないだまたそれを蒸し返して思いついたのは、
ようするにわたしが、「消しゴム貸して」と自発的に他人に働きかける以前には、まったくひとつもわたしは自分から他人と交流を持とうとしなかったから、
そして持とうとしなかったのに今ふいに必要にかられて持とうとするのは、自分の都合、自分の不便さを解消するためによるものなのか、と気づくとなんかもう気後れしちゃって、どうしても言えない、というようなこと、かもしれなかった。
わたしはまだ覚えているんだ。
それで結局どうしたかって、指でこすり、唾をつけてこすり、なんとか消した上で答えを書いたことを。
でもそれはとても醜かった。
消しゴムがあればそんなに醜いものにはならなかった。
むりやりに消したそれ、はとても汚れてしまった。
こんなふうに汚してしまうくらいなら、どうして消しゴムを貸して、というたった一言が言えなかったのだろうと。
自分が実に馬鹿げたことに労力を費やしているのだってことが、汚してしまったそれ、を見てわかっていた。
「よその子」を読み終えた。
わたしはやっぱり泣いてしまった。
場面として印象に残るのは、トリイと、ロリと、裸のブーがロッキングチェアでほとんど一体の像のようになっている姿、(美しい)
トマソがクマのぬいぐるみをプレゼントされてめちゃくちゃ攻撃的になってしまうその心情、(わからなくはない)
それから、ロリの双子の姉、リジーが不意に登場する場面の前後。
ロリは識字障害、その担任の定年間際の先生は、わたしからすればとんでもなく傲慢だ。
とんでもなく傲慢で、とんでもなく羞恥心に欠けていて、とんでもなくただ、むなしいまでに弱い。
リジーはいう。
わたし、ロリを傷つけたあの先生に絶対に唾を吐いてやる。
あんな先生なんて車に轢かれて死んでしまえばいいと。
わたしはロリがなぜ字を読めなくなってしまったのか知っているの。
お父さんがひどくロリを殴った。
わたしのことも殴ったけど、ロリのことは特にひどく殴ったの。
(ロリは殴られて頭蓋骨骨折をしている)
わたしはお父さんのことを絶対に殺してやるって決めているの。…
でも。
でもなぜ、ロリなの。
なぜ、ロリだけがそうなの。
わたしたちは双子で、双子の間に秘密はない。
なのになぜ、わたしには字が読めて、ロリには字が読めないの。
なぜロリは字が読めないことによって、あんなにも悲しく辛い思いをして、その決して本当には共有できない思いが、
秘密がないはずの二人の間に秘密を作ってしまうの?
ほとんど哲学的なまでに圧倒的に迫ってくる、深遠で心を震わせる謎。
そして、ブーだ。
ブーは自閉症だから、ほんのたまに見せる、外側から観察できる徴候をしか記されてはいないが、
わたしはなんだか、その意味不明な行動のわけをわかるような気がする。
クローディアと二人のときに暴れ狂った、というか、ほとんど狂気のように他人にはわからない振る舞いをしたブー、
血を流すまで肌を引っ掻き、裸になり。
わたしにはある。
それは足の方からやってくる感覚だ。
足の方からやってきて、頭の先まで浸食しようとして。
自分の皮膚が、自分の身体が、まるで違和感そのもののようになって、ものすごく気持ちが悪い。
この肌を剥ぎ取りたい。
いや、剥ぎ取りたいのは肌、なのだろうか。
この表面的な肌を叩いても掻いても解消されない違和感に満ちた不快さ。
それを引っ掻く指だってこの気持ちの悪い皮膚の延長にすぎない。
その感覚がふいにわたしを襲ってくるとわたしは身悶えして、ただそれに堪えるしかなかった。
そうした感覚が子供のころには、何度かあった。
ああ、また、どうしようもなく不快なこれが来た、とわたしは察する。
いまはない。
もうずっと、ない。
でも覚えている。
わたしが皆、
皆とは言わないが少なくとも、わたしだって程度の差はあれ自閉症だ、と思うのは、
例えばそうした感覚を覚えているからだ。
いまだにあれは、なんだったんだろうって不思議で仕方がないからだ。
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「ミラーニューロンがあなたを救う!」
「ミラーニューロンがあなたを救う!」これ、一冊目だったんだね。
著者の本は何冊か読んでいる。
この、面白いんだけどどうしてもつきまとう読みづらさについて他の人はどう感じているのかを知りたくてレビューなんかも見る。
レビューの数が多い。
そして実に高評価。
それだけ、やっぱり面白いし需要があるんだなあと思う。
レビューにあったように、「この本を気持ち悪いとかネガティブって感じる人は、温かくて幸せな人生を歩んできたんだろうなあと思ってうらやましくなります」
っていうたぶんこれが正解なんだろうな。
わたしのことを恵まれている、とか羨ましい、とか言ってきたひとに超おすすめしたくなる。
わたしでは暗示を解くのは難しいから、このひとの話を読んで是非暗示を解いてください。
いや、この本はだいぶアクが強いし、実に面白いんだけど引き込まれると同時に拒絶されている(と敢えて言おう、この本にならって)感があって、
そうだな、著者のいう「下の二割」のひとにとってはものすごく素晴らしい本だってことはわかる。
すごい、敏感で影響を受けやすい体質っていうのが、
あるのかもしれない、あるんだろうなと思わせられる。
幽霊見えるとかもそうだよな。
わたしは幽霊は見えない。
プラスとか、マイナスとかさ。
つまりこれは幽霊を見える子が言っていたのだが、彼女はマイナスなんだって。
もちろん幽霊の見えるひとがすべてマイナスだってわけじゃない。
幽霊が見えて、あるいは見えなくても、それを祓(払)えるひとはいる。
そういうひとはプラスなんだってさ。
わたしは、その子に言わせるとプラスでもマイナスでもなく、そのどっちでもありうるんだってさ。
怒りや汚物の話が出てきて思い出したのは、
わたしは怒っているひとがとにかく苦手で、
それはなんていうか、
自分が相手の怒りに怯えてしまうから苦手、なんじゃなくてもうただただ面倒臭いから苦手。
なんで怒る必要があるんだ?と思う。
それは本人からすれば最悪の事態を避けるためのベターなんだろうな、でもベストじゃないよね、と思ってしまう。
人間には怒る、という機能が備わっているし、わたしも瞬発的な怒りにかられることはある。
でもそのときに、自分が何をしようとしているのか、ということは、わかっている。
壊そうとしている。
怒りを覚えた対象を叩き潰そうとしている、ということがわかっている。
なにかで読んだが、怒りの持続時間っていうのはほんの何秒か、十秒程度なんだってね。
なるほど、そうだなと思った。
でもこれをしつこくしつこく思い出して再創造する行為に及ぶひとがいる。
いや、わたしにもまったく覚えがないわけじゃないから、わかるんだよ、わかるんだけど、それってまったく無為なんだよね。
どこかで気づかなきゃならない。
気づかなきゃならないのは、自分の真意、自分の瞋恚についてだ。
わたしは、わたしの瞋恚はひとを殺すほどのものだってことをわかっている。
自分がそれだけの力を持っていること、あるいは瞋恚にはそれだけの力があることを、知っている。
このご時勢、現代日本では物理的には殺しませんがね。
これが刀を携えている時代だったら問答無用で殺しているよね。
切るか、切られるかなら、間違いなくわたしは切ると思う。
でもいまは時代がちがう。
瞬発的におこる瞋恚、怒りっていうのはほとんど美しくさえあるから、わたしは息をのんでそれを見つめることができる。
でもその美しさっていうのは、せいぜいもって十数秒なんだよ。
あとはがらくた、十数秒のちにはそれは腐臭を放つものに成り下がってしまう。
怒っているひとが苦手、ということを言い続けて、それよく言っているよね、と友達に言われて、
だってさ、とあるとき思いついて、
道端にゲロがあるときにわざわざそれを踏みにいこうなんて思う?
思わないよね、怒っているひとが苦手っていうのはそういう感覚、というと、
実にいやあな顔をされたな、とこの本を読んでいてふと、思い出した。
いじめの構造とかもすごい、なんか、嫌いなんだよ。
ゲロみたいで。
それでわたしは気持ち悪いなあと思って決して関わり合いにはならなかったんだけど、
大人になり皆わりと冷静に話せるようになって、
あのとき、の感じを、
だっていじめなかったらいじめられる、とかって相手が説明するんだよ。
ちょっとわかるような感覚のあと、もっと意味がわからないってなる。
いやもうそんな裏表しかないコインは投げ捨ててしまえよって思う。
この著者が、グループ分けみたいなことになったときに、要するに下2割に配属されてしまう、
とかいう流れでわたしが思い出したのは、
わたしもグループ分けっていうのが超のつくほど苦手だった。
そこで、すごく純粋にというか、欲望に忠実にというか、
わたしはこの子と一緒になる!と宣言する子をほとんど眩しいくらいの気持ちで、すげーな、と思っていた。
わたしにはとてもできない。
この感覚は長じてもあって、猫が家にいるじゃん。家にいるんですよ。
わたしが家に連れてきたのは一匹だ。
その一匹目の猫が雌だったので、子どもを五匹産んだ。
それで一気に六匹に増えた。
そのうちに、家を出たっきり帰ってこない子とかがいるわけですよ。
わたしは心配をして、事故で死んだのなら、痛ましくはあるが今さらどうしようもない、と思う。
願うことは、外の世界って広くて素晴らしくて家なんて詰まらないぜって飛び出して元気に過ごしてくれているのならそれが一番いい、と本当に思うんだ。
でもわたしにすれば最悪の事態として、保健所に捕まっているのだとすれば?なんて想像する。
わたしが迎えに行けば殺処分を逃れられるのだとすれば?
でもわたしはここにものすごい葛藤がある。
わたしが迎えに行くでしょ?そこは殺処分される猫だらけなわけでしょ?
わたしはそこで、この子はうちの子って言って、うちの子だけを連れて帰るわけ?
わたしはその何ともいえない罪悪感と無力感に打ちひしがれてしまって、自分にはそんなこと絶対に無理だ!と思ってしまうの。
そういうわけで保健所まで探しに行くってことはできないの。
しかもさ、それってなんなんだろうなって本当に思うんだよ。
わたしはこの子と一緒になる!って迷いもなく言える子がものすごく眩しいんだよ。
それはすべてに対する正解などではないが、あまたある正解の一端を担っているなってことは、わかる。
わたしは要するに、ものすごく子どもらしくない子どもだった。
すごい、覚めているんだよね。
その覚めている感じっていうのが、どうしても他人との齟齬を生んでしまって、
わたしはものすごく孤立するの。
確かに孤立はするが、わたしは、いじめられたことはない。
いじめたこともない。
そのどちらにせよ身に覚えがないだけってことはあるかもしれないが、
ともかく自分のストーリーとしては、どっちもないんだよね。
どっちを踏むのもゲロを踏む感覚ですごい嫌だった。
どっちの役もしたくない。
攻撃を仕掛けられたことはある。
わたしはその瞬間、びっくり仰天して穴のあくほど相手を見つめてしまう。
相手の真意をはかりかねて、いるうちに数秒が過ぎる。
そのうちに、ああ、相手はわたしを攻撃しているんだなと理解する。
なるほど、喧嘩を売られているわけね、わたしがそれを買えば喧嘩がはじまるわけね、と思う。
それで、わたしは買っちゃうんだよなあ。
でもわたしは買った喧嘩で負けたりはしない。
負けない方法がわかっているから、というよりも、
負ければ自分が自分のすべてを失うことがわかっているからだ。
これは自分でも悪い癖だと思う。
売られた喧嘩を買わないことが慈悲、ということだっておおいにありうるからだ。
でも多くの場面では、そうではない。
わたしは最近でも、店に来る客のひとりに、すごい馬鹿にされている気分、と冗談まじりにだが、言われた。
彼氏と喧嘩してても流すんでしょって。
わたしは、彼氏となんか喧嘩しないでしょって返した。
そうしたら、喧嘩にならないってこと?ときかれた。
いや、喧嘩する必要、要素なんてないでしょって、わたし。
そういうとこやで、と追及され、
その客の退店際にも、頼むから男と喧嘩してあげて、というようなことを言われた。
そのときにも思った、だってわたし怒っているひとがともかく苦手なんだってと。
わたしは、わたしの慈しむ相手をわたしが責める、あるいはわたしを慈しむ相手がわたしを責める、みたいな場面ってどうしても思い描けないんだよ。
そういえばレビューを読んでいると、ひとに媚びてばかりいる自分はやめよう、みたいなことを書いているひとがいて、
いや、媚びているっていうのは違うんだよって思った。
なんでそこを媚びるってふうに捉えちゃうのかな。
いやもうそれはたった一言でいえば「劣等感」なんだけどさ。
なんていうか。
人の下に立つっていうのは、ものすごく、なんていうか、これ以上を思い描けないほど完璧な何か、なんだとわたしは思うんだけど、
なんせ孤立しているもので、他者を納得させるのは難しいね。
うん、たぶん、孤立しているというよりも、親切心のなさ、なんだろうなあ。
今日職場のひとと話していたら、そのひとは、太っているので、ダイエットをしているんだって。
でも努力するのは嫌なんだって。
そのひとのしているダイエットっていうのは、ご飯を、炭水化物を取らない方法。
筋トレがいいよってわたしが言うと、
努力するのが嫌、我慢するのが嫌、無理をするのが嫌、という。
筋トレしているってナルシストみたいじゃない?ナルシストはいやだって。
いや、わからん。
どうもこの人にとっては、ナルシストっていうのがキイワードみたいなのだ。
もう二三年かそれ以上ほどの付き合いがあるけど、
そういえばそれ、よく言っているな、と思い返されるのだ。
あのひとはナルシストなところがあるから苦手、とかさ。
ナルシストでいてはいけない、という暗示を誰かから植え付けられたんですか?と思う。
いやもう、わたしの好みからいえば、誰かからというよりも、自分で自分に、と言いたいところだが。
限界を設定するのは他人じゃなくて自分なんだよ。
こう言うとわたしって下2割じゃなくて上2割みたいだよねと思う。
うん。
でも、そうじゃないよ。
だってわたしはフラットなのが好きで、それ以外を認める気はないから。
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謎が残る、のは素晴らしいこと。
UFOが見えた話っていうのはおもしろくて、本当にそうなのかどうなのか、ということを確かめるすべはない。
こんなことはUFOに限った話だけじゃないが。
クオリアにも通ずるような、個人的というか主観的な話で、
他人が納得しなければ真実ではない、とかいう定義など馬鹿げている以前に存在しえない、みたいなことでもある。
他人が納得しようがしまいが、認めようが認めまいが、あなたにとっての真実は、ただ存在する。
それにもっといえば、自分でもあれは何だったんだろうって、それが飛行機ではない、ということは断言できてもじゃあ何だっていうと、なんだかわからないもの、UFOとよぶしかないもので、
錯覚かもしれない、幻視かもしれない、
そうじゃないのかもしれない、要するに何もわからない。
わたしにはそれを錯覚だと断定するだけの証拠の持ち合わせがない。
ここでそれは錯覚だ、と断定するひとがいることにわたしはむしろ驚愕する。
恐れおののく、と言ってもいい。
そのあまりの愚かしさ、傲慢さゆえに。
数学の、不完全性定理を思い出す。
ゲーテ、みたいな名前のひと。
なにものも、それ自身によってそれ自身が正しいということを証明するのは不可能だ。
みたいな話。
これは、超意訳だけど、真実は瞬間の檻の中にしかいない、ということ。
真実は、瞬間Aと瞬間Bをまたぐってことはできない。
違う表現をすれば、真実を証明なんてする必要はただ、ただ、ないのだ、ということ。
それで、わたしは思うに、あれは気の迷いとか錯覚とかではなくて、UFOってことにしておくのがいいな、という気持ちがある。
だってそのほうが謎が残るじゃない?
謎が残るっていうのは本当に素晴らしいことだ。
先ほどのゲーテみたいな名前のひとは、クルト・ゲーデル。
わたしはこのひと、なんか好きなんだ。
アインシュタインがあの世界大戦のゴタゴタ時に、ゲーデルのアメリカへの「亡命」だか「移民」の手伝いをしたときに、あまりにゲーデルが「世智に長けていない(馬鹿正直な)」ので、まごまごしたっていう逸話とかを聞くに、ああ、ああ、例のあれでしょ、と思ったりする。
いわゆる自閉症・発達障害・統合失調症・純粋みたいな何か。
「第一不完全性定理…自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が(何言ってんだ?)ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第二不完全性定理…自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。」
わたしは言葉には堪能な方だが(日本語に限る)、これは正直言って何を言っているのかまったくわからない。
荒唐無稽が真実。
ドクタードルフィンこと松久正の「地球人革命」を読んで、これは荒唐無稽だと思って嬉しくなった。
「アガスティアの葉」とか、サイババについて書いたひとの話を読んだときにも思ったし、本人も言及していたが、
知っている、ってなんだろう、信じているってなんだろうって。
わたしは自閉症に興味がある。
自分が実際に、そうだとされる、いわば「重篤」な自閉症のひとと接したことはないんだけど、
わたしたちって皆、程度差はあれ、自閉症みたいだよね?と思う、という意味において興味がある。
トリイ・ヘイデンの「よその子」を読んでいると、
識字障害の子が出てくる。
話すことはできる。
計算をすることだって数を数えることだってできる。
他者に関心をもち、思いやることもできる。
でも、字が読めない。
それが先天的なものなのか、頭蓋骨を骨折し脳への損傷も認められた、事件による後遺症のせいなのかは、わからない。
ともかく、字を識別することができない。
わたしはこういう話を聞くと本当に感に堪えない。
「レトリックと人生」という本を読んだときにも思ったが、
比喩って、
目に見えないネットワークなんだよね、要するに。
発達障害とされるひとが、言葉通り、額面通りにしか受け取れない、という話は、
言葉の裏を読んであたりまえ、醸される空気を感じ取ってあたりまえ、としてそのあたりまえに無自覚に過ごして生きていると、額面通りにしか受け取らないひとに対して、
「本気?嘘だよね」、と驚愕するような、
戸惑いの半端ない具体例がいくつも出てくる。
肝心なのは、わたしたちは、わたしたちがどうやって字を識別しているのかってことを、
実はわかっていないってこと。
わかってもいないくせに、どうしても字が読めない、というひとを目の前にしたときに、
ものすごく不適切な態度で接してしまうことがある。
実際のところコミュニケーションっていうのは、目に見えないネットワークそのものだ。
究極的には、人生それ自体が比喩そのものだ。
字は見える。
話す声は聞こえる。
でも、いったい自分たちがどうやってこれらのツールを駆使しているのかという「からくり」を知っているひとは、いない。
それはいわば、なぜ、どうやってわたしたちは呼吸しているのか、ということが「わかっていない」のと同じくらい、要するにわかってなどいない。
いったいどうやって意思疎通をはかっているのかをわかっているひとなどいない。
字であれ、言葉であれ、感情であれ。
わかっていないのに、わかっていなくても、それを習得している、というだけ。
呼吸しなくても生きていけるひとが、いるかいないかは知らないが、これは極端すぎる例なのでいったん置くとして、
字が読める。
とか、別に字が読めなくても死にはしない、というようなことにおいては、
なんていうか。
字が読めないという選択をすることは(習ったことがないからとかではなくて!)、決して容易ではないが、まったく不可能というわけでもない。
そもそも、なぜ字が読めるのか、ということを、
なぜ空気を読めるのか、ということを、
なぜ比喩を理解できるのか、ということを、
そうはできない、理解不能だというひとに完璧な説明をできるひとはいない。
相貌失認症とかいうのも同じだ。
わたしたちはおそらく、顔そのものだけを見て相手を相手本人だと認識しているわけではない。
もっと全体的なもの、顔に宿る表情とか、動きとか、シルエットだとか、あるいはもっと目には見えないし無自覚でもある情報に頼って、
顔の造形それ自体ではなくもっと説明不能な本質的なものに頼って、
人と人とを区別している。
相貌失認は、どことなく自閉症に似ている。
そしてわれわれ、皆程度差はあれ、自閉症じみている。
字が読めないってどういうこと?
顔が認識できないってどういうこと?
一字一句言葉通りの指示がなきゃ動けないってどういうこと?
相手を責めたり見下したり、あるいは拒絶したりする前に、
自分にはなぜそれらが可能なのかという説明を自分自身に対して試みてほしい。
たぶん、説明できないよ。
だってこれは本当に難しいことだから。
自分には可能、でも他人には不可能、
いったい何が自分には可能にさせているのか、という回路、このからくりを説明することは、ほとんどのひとにとってひじょうに困難な試みだ。
だってあのひとは出来ないかもしれないけど、このひとは自分と同じように出来ているよ、なんていうのは幼稚園児的な発想だよ。
共感の世界に安住するだけでは成しえないことがある。
それで、冒頭に戻ると、
荒唐無稽な話って、すごく嬉しくなる。
実際のところ、わたしは彼の話にほとんど全面的に「共感」している。
わたしの前世はイルカじゃないし、UFOもものすごく遠くから一度きりしか見ていないし、過去世なんてまるっきり一つも覚えていないし、幽霊は見えないし、鉱物のエネルギーは受け取れないし、医者でもないし、物理学者でもないし。
でも共感はしている。
あんたの言う通りだって、あまりにそうだから笑い出したくなるほどだ。
地球が丸い、なんていうのもある意味、荒唐無稽なんだよ。
いったいあんたそれをこの目見たの、実感したの、と思う。
あたりまえはあたりまえじゃないんだよ。
わたしは前世を覚えていないのと同様、自分が赤ちゃんだったころとか、まして生まれてきたときのことを覚えていない。
それでふと子どものころに、いったいお母さんは本当にお母さんで、お父さんは本当にお父さんなのかな、
と実に素朴に疑問に思ったことがある。
だって、自分では記憶にないからだ。
もし完全に騙されていたとしても自分にはそれを見破る手立てはないじゃないか、と思った。
だって、記憶がないんだもん。
それで、いまもし、実はあなたのお母さんはわたしなのよとかいう見も知らぬ人が出てきたら、どうしよう、と思った。
わたしは自分のその空想に真剣に取り組むと同時になんだか笑ってしまった。
いや、だってほんとに困っちゃうじゃん、そんなのって。
でもそのときに思った、
誰が本当に自分のお母さんなのか、ということなど、本当に何でもないのだと。
わたしはわりと本当に何でもかんでも空想で片付けちゃうんだよ。
もちろんそうじゃないことだって思い起こせばいっぱい、あるけど。
手を出さなきゃ気が済まないことだっていっぱいあった。
この荒唐無稽が面白いのは、要するにあなたは何も知らないってことを、突きつけてくるからだ。
「ヴィーナスという子」
わたしは、自分の親がわたしに話してくれたことを、断片的にではあるが、よく覚えている。
とんでもないこと、も多少は言っていたが、わたしはそれらに目を瞑る。
そんなのは置いておくとして、自分にとって印象的だったこと。
お父さんが子どものころ、アメリカ軍がヒロシマの離島(江田島に連なる能美島)にまで姿を見せていた。
子どものお父さんは、臆することなく、覚えようとして覚えた英語を駆使して、チョコレートやガムなんていう、当時の贅沢品を彼らから引き出すことに成功していた。
お父さんは1945年、終戦の前三月に、中国の大連で生まれた。
引き上げは二、三年後。
自分が知っていて相手は知らない、ことを生意気にというか、臆しもせず、先生に指摘するような子どもだった。
最後(1960年)の就職列車で十五、もしかするとまだ十四の歳、大阪に出てきた。
最初に就職した先は、スプリングを作る会社だった。
夜間高校に通わせてあげるという契約のはずだったのに、まったくその気配もないので、夜間高校に行ける会社へと乗り換えた。
わたしは、お父さんが描いてくれた馬の絵を忘れることが出来ない。
それは実にユーモラスで、漫画的な可笑しみがあって、上手だった。
お母さんに絵を描いて、と頼んだら、わたしは下手、お父さんの方が上手だから、と言っていたことも。
わたしが赤ちゃんのころには、トラックを運転していて、トラックの中でおしめを換えたというわたしが覚えてもいない話をいつまでもしていた。
わたしが子どもだったころ、お父さんは一人社長、雇われるわけではなく契約を結んでトラックの運転手をしていた。
それでは足りないと思ったのだろう、タクシーの運転手を副業でしていた。
中之島のロイヤルホテルでウェイターのアルバイトもしていた。
そのときに得意の英語で、得意の冗談で、客に話しかけて仲良くなったイギリス人、オランダ人、アメリカ人のもとへ、
わたしは高校生のとき家族皆で訪ねる旅をした。
わたしは、なぜだかものすごく覚えている。
お父さんとお母さんが、お母さんの両親に頼み込んで、会社を設立するための出資金を願い出たときの光景、
そのときに錯綜する感情のやりとりを。
そもそも、なぜそんな席にまだ幼いわたしが同席していたのかもわからない。
同席なんて言えるものでなかったのは確かだ。
でもわたしは、少なからずその気配を感じ取っていて、それを実に印象的なものとして覚えている。
そうして、会社を設立し、いまもなお、それはある。
わたしは一時期、その会社にいたことがある。
こんなことをしていちゃダメだし退屈だ、と思って結局辞めたけれど。
お父さんは、毎月必ず五万円を前借する社員が、取引先とトラブルばかりを引き起こすので、
このままではクビにするよりない、というときに、
自分の仕事を大切にした方がいい、と助言していた。
お父さんは耳が遠いし、相手方は心が遠いのでまったくちぐはぐな会話をしていて、聞き耳を立てていたわたしはひそかに笑った。
でも本当に、その通りだと思った。
自分の仕事をもっと大切にしなければ。
話は変わるけど、ずっと、ほんとうにここずっと、何年もの間、
要するに自分の波動を変えるしかないのだ、と感じていた。
付き合う相手を選ばなければ、なんていうのはまったく嘘出鱈目だと感じていた。
いまもそう思う。
なぜそう思うの?と問われて相手を説得することに腐心すれば、するほど、真実からかけ離れてしまうであろう。
彼が彼のようであり、彼女が彼女のようである、その根底、その基底をも覆し、コントロールするようなことは、わたしには出来ない。
そもそも出来ない、不可能だし、試みる必要もないことだ。
助言さえするなってわけじゃないし、
相手のことを慮る必要もない、というわけじゃない。
ただ、相手が変わることを手伝いする最大限の効果を上げる方法とは、相手には相手自身の力で変わる自由があると自分は信じる、知っていること、それだけなのだ。
20:31 2019/02/10
わたしは変わった子、とんでもない子が好きだった。
怒ってさえいなければ。
怒りに対抗するのは、相手よりもっとものすごい怒りしかない。
しかないというのは、それが唯一の誠実な手段だからだ。
そしてわたしは、怒るのがそこそこ得意でもあり、実際のところは苦手なのだった。
わたしは勝ち目のない戦いをするのが嫌いだ。
そりゃもうどうしようもないところまで追い込まれて勝ち目が見えなくてもやるしかない、ということはありうる。
勝ち目が見えなくてもやるしかない、というのは戦いを放棄すればこの先自分は生きる希望を失うだろう、ということがわかっているときだ。
でも誰がそんな状況にすすんで自分の身を置きたいだろう?
少なくとも、わたしはいやだ。
21:19 2019/02/11
ずっと興味があった、惹きつけられて関心のやまなかったこと、
それは差別と、子どもの問題だった。
もっと抽象的にいうなら、自分とはなんだろう、他者とはなんだろうってこと。
そこに二人以上の人がいるのなら社会がある、世間がある、ということをいつか聞いて、
うん、すごくシンプルだ、その通りだと感じ入った。
でも、人が生涯二人きりということは実際ありえないと思える。
二人いれば、というよりも、そこに三人のひとがいたほうが、より社会とよぶのに相応しい問題が浮かび上がってくるのかもしれない。
つまり、ほんとうに二人きりなら、それはなんていうか。
なんというか、自他の区別ってそこに本当に存在しうるのかしら?と思う。
互いに相手がすべてのような世界においては、いまだ相手も自分も完全に癒着していて何の齟齬もなく。
もちろん、こんなことは想像にすぎない。
だって、いったいどこの誰が、生まれてこのかた互いに自分たち以外の人間を、他の存在を知らず、目の前の相手、ただそれだけしか知らず二人っきりで過ごす、なんていうことが出来るだろうか。
つまり、そこに二人以上の人がいれば確かに社会と呼べるものはある、
でも、その二人は、お互いに目の前の相手以外にも、他者が存在していることを知っている。
知っている、というのは、思い浮かべることができる、ということだ。
ほかの可能性、ほかの在り方を。
差別の問題は、難しい、でも要するに、わたしたちが各々の身体をもち心をもっている、別々の存在として存在している、という物理的な事態がある以上、
どこまでもついてまわる問題なのかもしれない。
子どもの問題とは、
一言でいうなら、誰だって社会性を身に着けた大人としてこの世に誕生したわけじゃないってこと。
星のひとみ、という童話がある。
弟が小学校の図書室で借りてきた。
わたしは、その本が図書室の本棚にあることを知っていた。
知っていたけど手がのびなかった。
弟が借りてきたので家に転がっているのを見てもやっぱり手がのびなかった。
それを読むことは気が進まなかった、どうしてもそそられなかった。
でもものすごく覚えていた。
というわけでいま、この本はわたしの家の本棚にある。
赤ちゃんが、狼に追われて一目散に逃げているトナカイのひく雪橇から落ちてしまい、狼の群れは赤ちゃんを囲み、赤ちゃんを食べることはせずに散っていく。
すべてが凍りつきそうに澄みきった夜空の下、赤ちゃんはおくるみに包まれてただ星を見つめている。
社会が悪い、なんていう。
わたしは、そうは思わない。
変えてゆかなければならないことが何一つとしてない、素晴らしい完璧な世界だ、というつもりはない。
それらは、ただ否応もなしに変わってゆく。
時よ止まれ、なんてわたしは言わない。
死ぬつもりはない。
時も止まらない。
皆、相手を変えることに一生懸命だ。
そんなゲームをしている。
世界を変えられるという希望に、あるいは変えられはしないという絶望に、夢中になっている。
夢を与える仕事って何だろうなと思うんだ。
与えられるものは食べても食べても消え去る夢だけなのか、ほんとうに?
「ヴィーナスという子」を読んでいる。
わたしは最近トリイ・ヘイデンを知ってその面白さに夢中だ。
まだ途中だけど、わたしはたしかに期待して読んでいる。
ヴィーナスという子が、固く閉ざした鎧を脱いで、世界へ解き放たれる瞬間を見たい、その思いだけで。
解き放たれました、めでたしめでたし、じゃないのはわかっている。
でもいまのままでは彼女はまだ、スタートにも立っていないのに等しい。
とはいえ、スタートにも立っていない、と思わしうる彼女の選択の物凄さよ。
ものすごく重いテーマをも絡めて、彼女たちの体験は続く。
なぜひとは、世界のどことも知れない遠くの悲惨さを救うことには熱心で、目の前の、手の届くところにある悲惨さを救うことにはこうまで無関心なのだろう、というような箇所が途中にある。
ほんとうにそうだ。
自分が関わらなくては何もできない。
そういうルールなの。
それが唯一絶対のルールなの。
それ以外のことはまったく枝葉末節にすぎない。
自分が最大の謎だ。
自分が関わらなくては、
つまり自分が自分をどこかで差し出す勇気がなければ。
わたしだって勝ちの見えない勝負なんてしたくはない。
誰だって。
いや、誰だって、というのは僭越かもしれないけど。
要するに勝負事はどこにでもそれこそあたりまえにすぐ手を出せるものとして転がっているのだ。
まるで宝の山に囲まれているも同然だ、とわたしなら言いたい。
トリイと、トリイの同僚っていうか助手のジュリーの間に繰り広げられる「バトル」がわたしは興味深い。
わたしはジュリーの気持ちは、とてもよくわかる。
劣等感と優越感っていうのは、ほとんど薄皮一枚の裏表で、
いわばそれは他人から見れば区別のつかない、一卵性双生児みたいなものだ。
劣等感あるいは優越感とは、罪悪感とも言い換えられるかもしれない、そして罪悪感ってほんとうに恐ろしいものだ。
わたしたちはたしかに、見えない鎖につながれている。
たしかに、たしかに、たしかにね。
見える鎖はなんでもないものだ。
ともかく、それは「見える」。
というこの一点において、もはやなんでもない、という以外にマシな形容は思いつかないほどだ。
ヴィーナスという子は、極端に見える。
わたしたちは、トリイの目、トリイの体験を通してヴィーナスを見る。
だから彼女が生命ある子として、希望を持てる子として、その十分な確証の片鱗を見ることができる。
でも、トリイの目を通さなくては、はたして、どうだっただろう。
トリイが見なければ、トリイが見たフィルターを通してでなければ、わたしたちは、実際の彼女と接して、
いったい何ほどの関わりを持てるだろうか。
いや、持てないね、ほとんど、まったく持てない。
何なら彼女を。
ヴィーナスは極端に見える、でも、実際のところ、誰しもがヴィーナスと何ら変わりない本質を持っている。
わたしからすれば、わたしをも含めてだが、
わたしたちは皆ヴィーナスなのだ、という気がする。
トリイはヴィーナスの目を覚ましてあげたいと言った。
いや、わたしからすれば、ヴィーナスだけじゃない、誰だって目を覚ましてなどいない。
彼女がほんとうに深く眠っているのだとすれば、彼女こそ一早く眠りから完全に目覚めることができるのだ。
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「幽霊のような子」まだ途中ですが。
今朝、あっやばい、すごいと恐れ戦いたことがある。
それは要するにひとは「いいひと」でありたい、
それこそが最大にして最恐の難問なのだということ。
そして、まったく何でもないことを問題にしているのだということ。
*
シーラとは、トリイにとって本当に好敵手だったよね。
もう、要するにそうした面白さだったと、「幽霊のような子」を読みつつふと、思う。
いや、今回のジェイニィでは相手不足だってわけじゃない。
そもそも、自分に引き合う相手とめぐりあい、自分のもっているものが相手に響く、それだけのことだ。
シーラが勝つのか、トリイが勝つのか。
いや勝つの負けるのって話じゃない、とマジメぶればそうもある、でも、
実力のせめぎあい、というものは、どんなことに対してであれ、あるのだ。
わたしたち一人一人はやっぱり、戦士なんだという気がする。
自己を賭けるゲームをしている。
一見そうは見えないひとだって、
たとえば他人におもねるとか、他人の顔色を窺ってばかりだとか、あるいは、他人の望みをかなえてあげたいとか、他人を傷つけることは出来ないとか、優しい心根の持ち主だって、
そうすることによって騙し騙し、あるいは消極的に、自己を生き永らえさせている。
正直にいって、「いいひと」だと思われたいひとっていうのは、一番信用がならないひとだ。
いいひとでありたいという気持ちがあまりに強い、ということは、いいひとであるためになら、どんなことでも出来てしまう、いいひとであるために不要なものは自己を削り他者を削りでもして、切り捨てられてしまえるってことだ。
とはいえ、誰だって程度の差はあれ、そうなのだ。
いいひとっていうのは、本来のあなた自身とは程遠いってこともありうる。
いいひとっていうラベルにはある面、何の信頼すべき中身もない。
皆、自分にとっての「いいひと」を求める。
求めるし、いざ現れたとなると感動したりする。
なんていいひとなんだろう、自分には到底マネできないわ、とかなんとか、本気で感動するんだよ。
実に馬鹿げている。
実に馬鹿げている。
666とか獣の数字だとか、そんなものが特に現実的ではない、なんて思わない。
それだってこれだって、太陽は東から昇るとか、地球には重力があるとかだって、
同じように要するに物語の一部、真実の一片を担っていると思うだけだ。
ノンフィクションなんていうものは存在しない。
すべてはフィクションだ。
これは現実でこれは幻、という分け隔て自体がまったく馬鹿げているのだとしか思えない。
みにくいアヒルの子という話がある。
アヒルの中になぜか間違ってまぎれこんで育った白鳥の子は皆と違っていて、いじめられていたけど、成長するとアヒルからも羨まれる美しい白鳥となりましたってやつ。
ばかな、アヒルは白鳥を羨んだりしないよ、とかは置いておくとして、
たとえばこういう話に何らかの感銘を受けて、それを人に説明しようというときに、
アヒルと白鳥を取り違えて、白鳥の群れの中にアヒルがいて、と話し出して、
それアヒルの中に白鳥がいて、の間違いでしょ、と指摘され、
違う、白鳥の中にアヒルがいたの、と顔を真っ赤にして主張するような人の物語、
核心部分を不意にそれて物語そのもの、語りたいという衝動を自ら壊してしまうような話には、
わたしは興味がもてない。
うん、アヒルでも白鳥でもどっちでもいいけど、あなたがそうだというのならそうでいい、ともかく、続きを聞いてよ、
とほんとうに自分が心を動かされたことに関して話ができる人の物語は聞こうという気になる。
あなたは白鳥はアヒルよりも美しい、という話をしたかったわけではないはずなのだ。
そうではなく。
そう、思い出した、
わたしが本当に嫌いなのは、
「それは自分のせいではない」
「自分が自分のようであるのは自分のせいではない」っていうスタンス。
そりゃ、彼が彼のようであり、彼女が彼女のようであることの責任なんて、自分には負えやしない。
でも自分が自分であることのリスクを放棄するってのは。
なぜあまりに美しいものを見たら、涙が出てくるんだろう?
なぜあまりに勇敢なものを見たら、涙が出てくるんだろう?
バランスを取る。
昨日はお金を貸してほしいと言われた友人と電話で話しこんでしまった。
わたしが、
わたしはビジネスに興味がある、
皆がビジネスにもっと関心をもったほうがいいと思う、というと、
起業したいの、と聞かれ、
いや、先のことはわからないけど今、ともかく起業したい、みたいなことではなく、
そうじゃなくてさ、
「自分の収入をいかに遣うかということさえもビジネスだってこと」
翌朝起きても強烈に覚えていた。(自分の発言を)
自分で言い放って、自分で目の覚めるような思いがあった。
会話からぽんと飛び出す名言、ひらめき。すばらしい。
書くことはすばらしいけど、やっぱり人と会話することもすばらしい。
斎藤一人の「お金の真理」を思い出した。
こうすれば誰だってお金持ちになれますよ、主婦だって同じですよっていう、すばらしい主張があるのだが、
そう、お金持ちになる問題・課題、という言い方もできるし、
誰しもがビジネスマンであるのだし、
ここを、斎藤一人さんは、だれだって商売人なのっていう言い方をしていたが。
そう、
売る・買う問題っていうのは、たしかに妙な魅力があって惹きつけられてしまう。
闇金ウシジマ君の元ホスト編だったと思うが、
闇金なんてやめてしまえよという、かつてのホスト仲間のせりふに、
闇金っていうのは社会から信用をなくしてしまった人たちの最後の砦なんだって元ホストの闇金社員が答えていた。
やけにロマンチストだね。
いや、最後の砦、そうだと思う、でもちょっと美しすぎる。
謎多きウシジマ社長の幼少時をからめて描いた、ほとんどファンサービスみたいな何編だったか、ホスト編よりもうちょい前のやつ、
幼馴染の竹本君の最後(途中かもしれないが)を思い、見開きを使って涙は見せずに顔を覆うウシジマ君とかね。
もう、作者の方がロマンチストなんだと思うよね。
美しすぎる、で思い出すのは、画家ロートレックの手紙の一節、
女のひとが美しいのは、…
超ごめん途中忘れた。
もしそうだとすると、美しすぎる。
ということをいっていて、なんだか納得したのも思い出したんですが、
すごい中途半端で曖昧で何がなんだかわからないよな。
いや、わたし、ロートレックは好きなのです。
うん、だからなんだって言われたら困ります。
発達障害の本を読んでいると、まださわりだけど、視覚優位のひとと、聴覚優位のひとがいる、という分け方をしていて、
おそらくわたしは、聴覚優位なんだと思った。
でも、絵を描くことは子どものころから得意だった。
それは単に対象物をよく見る、ということだけで成しうる絵の上手さというか、
字でもそうだ、字がうまいっていうのは、マネをするのが上手いってことだ。
書家としてやっていく、とかまでなると、そうではないと思う。
わたしも字は習っていて上手だったけど、今は褒められないね。
殴り書きだなんだって貶されて、下手だとさえ言われたりする、馬鹿め。
ひとが見て上手と思う字を書きたいとは、ちょっとくらいは思うけど面倒臭いが勝ってしまう。
そういうとこだから、ばかなわたし。
ともかく、絵を描くことはひとよりも上手だった、
自慢だけど、小学校一年か二年かで動物園へ写実会、まあお絵かきをしに行ったときも、子どもの描いた絵とは思えないと担任の先生に言われた。
それだけ写実的だった。
わたしからすればそれは対象物をよく観察した、というだけ。
それで高校も美術系、大学も美術系へと進んだ。
でも、ほんとうはずっと知っていた、それが二番目であることを。
たぶん、自分なりにバランスを取っていたんだろうなあと今なら思う。
家具を、わたしは自分で作る。
家にあるもので自作したものではない家具は、ベッドとソファくらい。
それで家に招いたひとに、是非家具職人になればいい、絶対に売れる、何なら自分にも作ってほしい、と言われたことがある。
自分でも、なんでそこで尻込みするというか、出し渋るというか、謎だとつくづく思うんだけど、
それは出来ない、と感じた。
自分が作りたいものを自分が作る。
それだけでいい。
とどこか、そんなふうに思ってしまう自分を苦々しく感じつつ、こういうところだよなあと。
だから、なにかで読んだが、「売りたいものより売れるものを売れ」とかさ。
いや、仰るとおり、と思う。
まさに、そのとおり、なんだよな。
どこかで、自分が作りたいものを自分が作るだけ、ということにわたしは飽き飽きする必要がある。
ああ、商売人になりたい、そうでありたい。
夢を追うだけの人、ではなく夢を提供できる人でありたい。
我だよね、ようするに。
我が勝っちゃう。
別にいいんだけど、
両極端なものの中にわたしはいる。
それはおそらく自分なりにバランスを取っているのだという気がしてならない。
わたしはさ、たぶん自分には自信がある。
いやたぶんじゃないしって総ツッコミされそうな、かと思えばそれはむしろ逆なんだとかもっともらしく言い聞かせてくるひとがいたりとか、
そのどれでもないよ、と言いたいんだけど別に言うまでもない、というか、
なんだ、
つまり、わたしは自分には自信があるほうだと思っているが、まわりには、自分に自信がないひとっていうのが、いたりする。
自分に自信がないっていうのは、思えば不思議で奇妙なことだ。
そんなで生きていけるのは奇跡に近い。
そう思うと、自信がないとかいうひと、思っているひとっていうのは自分の師匠なのではないかという気さえしてくる。
どんどん、書くことのすばらしさ、を享受してゆくと、
昔からの友人で、わたしを恵まれているから、と言ったひとがいる。
いやもう、こんなに座りの悪い思いってものは、ない。
戸惑い、疑い、要するに、相手を馬っ鹿だなと思った。
ほんとうに馬鹿だなと思った。
そうじゃないよって。
でもそれをどう伝えれば伝わるのか。
わたしは、フラットなのが好きで、それ以外を認める気はない。
そうじゃないなんて認めない。
でも、ゲームには興味がある。
そして、ビジネスにも確かに興味がある。
一言でいえば、世の中は平等なのか、不平等なのか。
これに答えることは実に難しい。
実に難しいんだけど、
結論から言えば、平等だってわたしは思っている。
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