相手の訴えをエゴに邪魔されずに聞く話。

 焦りはね。
 ないな。
 ないなっていうのは、もう心のどこを探してもない、どんな状況に陥ってもない、ということじゃなくて、
 それはないわあ、という感じ。
 この道を行けば目的地にたどり着くことを知っているのに、そしてただ辿り着けばいいというときに、楽しみもなく喜びもなく好奇心もないにも拘らず余計な寄り道をする?
 いや、ないでしょ、という感じ。
 百円玉で買えるものを、千円でお釣りを貰ってもいいところを、
 一円玉百枚で払いたい、というような、
 でも財布に一円玉百枚はないから、いったんレジを退いて一円玉を集めてまた出直します、という、
 なにそれっていうわけわからないこだわりは要らないでしょうっていうような感じ。
 いやそれが楽しいならいいんだけど、
 なぜか知らないけどそうしなきゃいけない、とかいうような、
 何の強迫観念だか知らないけど、
 みたいなのっていらないでしょう。
 
 わたしはそうだ。
 でも他人のことは確かにわからない。

 今日、「豊かさの波に乗るお金の法則」という本を読んでいたら、
 お金持ちとかセレブの話を聞くと、自分には無理だとか、遠い世界の話だとかいうように線を引き溝を作る人がいるけれども、
 という記述を見て、
 ああ、
 そういう苛立ちってあったなあと思い出し、
 お金に限らないけど、
 友達が、世界にはこんな立派な心がけで実際に行動を起こしてしまう人もいて素晴らしい、感動した、でも自分には無理だと思う、
 みたいな内容のメールを送ってくる、ということがあった。
 なにそれ。
 と思っていた。
 なにそれ、いるの、その最後の一句
 
 そしてその苛立ちっている、わたし、というものの、
 あ、ちょっとスタンスというか自分の気持ちが変わった、と思えることがあった。
 ああ、そうなんだね。で、いいことっていっぱいあるんだなと思う。
 そうなんだね、あなたはそう思うんだね、というだけでいいことって、
 あるんだなあと思う。
 それで思い出すのは、けっこう昔に書かれた本、
 徳久克己「心とカラダと運命」のなかで、
 この人は医者なのだが、自分がまだ若い頃に、
 大家のような先輩にあたる医者が、どうしても苦しいので薬が欲しい、と訴えてくる患者に手元に薬はないし、適当にパン屑を丸めたものをこれは良く効く薬ですから用量を守ってくださいよと渡したら、後日先生あれは実に助かりましたと感謝された、ということを笑い話のように話しているのを、
 不謹慎だと憤慨したことがあった。
 でも経験を積むにつれ、それは不謹慎とか不真面目だとか、そういうことではないのかもしれない、という気づきを得た。
 あるところに、自分の鼻は曲がっていると思い込んだ娘がいた、両親に聞いても曲がってなんかいないよと言う、
 あまりにも気に病むので医者に連れていくんだけど誰も曲がってなんかいないよと言う、
 それでも娘は納得しない、
 あるとき、名医と評判の先生に診てもらうと、確かにあなたの鼻は曲がっている、という。
 それで娘は満足して、先生からこの薬で治るから試してごらんと言われて従って、曲がっている鼻は治った。
 というエピソードも一緒に紹介していて、
 なるほどなあと思った。
 これは含蓄に富むエピソードだ。
 
 つまり、患者の訴えをいったんは、そうだねと認める。
 それが無限ループを終わらせることになる。
 要するにこの場合には、かの娘は、ともかくそうだねと、自分が気に病んでいることを認めてくれる人を求めていたのだ。
 気のせいですよ、大丈夫ですよ、正常ですよ、じゃなくて、
 気のせいじゃないですよ、でも大丈夫ですよ、治りますよ、
 というのがこの際は、病の決着をつけるにおいて、実に有効だった。
 
 なんかわかる。
 なるほどなあ、と腑に落ちる。
 正しいことっていうのは何でもないんだよっていう、それまでに持っていた自分の考えとも一致する。

 誰かの話を聞いていて、実に無力だと思うと、
 わたしは腹を立ててしまう、ということがあった。
 なんていうか、
「自分は無力だ」という話全般が要するに嫌いだった。
 今だって別に好きではない。
 好きではないけど、自分が好きだろうが嫌いだろうが、
 相手の話をただ、そうなんだね、と聞くことは出来ると思うのだ。
 相手が求めていることが、自分の信条と方向性が違っていたとしても、(あなたは)そうなんだ、と応えることは出来る。
 うん、なるほど、そうだね、そうなんだね。
 これは不謹慎でも不真面目でも、不誠実でもない。
 というようなことが、ようやくなるほどなあとわかったという気持ちだ。