親子関係とか、カルマの続きとかについて。

 わたしが不思議だなあと思うことは多々あるのだが、
 親子関係の問題というか確執というか、そういうものも、
 なんだってわたしが気になるんだろうなあと、
 なぜってわたしは自分自身としてはそれを特に問題にした覚えはないからだ。
 なのになぜ、気になるんだろうなあと。
 おそらくだが、意外とそういう問題に、躓いているという自覚もなしに、躓いている人って多いのではないだろうかと感じているからかもしれない。
 自覚もない人は手に負えないが、
 まあじゃあいいじゃん、いずれ時が満ちればおのずと、なるようになるだろうと思うからそれは置いておくとして、
 わりと明らかに親子関係の問題が透いて見えるというとき。
 
 ああ、いわゆる親子問題、親と子によくある確執、というかすれ違いというか、インナーチャイルドだとか、アダルトチャイルドだとか、負の連鎖とか、
 なんかそういう表現をされる一連の問題のやつだな、
 と思うんだけど、
 わたし自身が、実はいくら読み聞きしてもあんまり具体的にそれについて理解していないものだから、
 とうてい人に説明しうるような知識も経験もいまだない。
 
 本などを読んでいてなるほどなあって興奮したり、しみじみ感じたり、
 そういうことはちょくちょくあるけど、
 いったい何が「なるほどなあ」なのか、
 ということを説明しようと思うとこれが実は難しい。
 自分の「なるほど」回路は確かにあってそれが開通したから、「なるほどなあ」なんだけど、
 じゃ、その回路を他人にわかるように説明して、と言われると、
 無自覚な部分があったとしても回路は開通するので、
 その無自覚な部分は、なにせ無自覚なままだから、説明しようがなかったりする。
 
 身も蓋もない、という表現があるが、
 結論だけっていうのは、だいたい身も蓋もないものだ。
 あなたのその苦痛とか苦悩とかは親子関係に問題があるから、それを見直した方がいいよ、
 とかいうのは実際、身も蓋もない。
 ぶっちゃけ、何も言葉をかけていないのに等しい。
 それは、なんでもない。
 相手に響かない言葉というのは、発するだけ無駄だなあと思う。
 別に一人でツボって笑うのも、一人で詩を吟ずるのも、いいんだけど、
 相手のためと思いながら発したことが、相手に響かない、
 とすれば、
 それは無駄というか、試みの失敗であるという他はない。
 
 わたしは怖がりだということを人に言われたり自分でも言ったりするんだけど、
 いや、そうだけど、そもそも怖がりでない人なんているのかなあと思う。
 これは人にもよくする話だけど、わたしが小学校四年生のとき、ちょうど同い年くらいの女の子が浮浪者をしている、という記事を載せた新聞があって、
「親の言うことを聞かないとこんなことになるぞ」
 ということを冗談じみた言い方ではあったが、父親がした。
 わたしはそれを聞いて、怒りと失望とない交ぜになった気持ちを抱いたが要するに、お父さんそれはアカン、と思ったのだ。
 当時子を支配とか、そういう概念はなかったけど、
 一番近いのは、それは大人気がない、という気持ちだ。
 そして、親を大人気がない、と思うと、子供っていうのは一つ成長するのです。
 親は間違ったことは言わない、という、そうした自覚さえもなく、単純に自分はそう信じていたらしい、ということに気づくのは、
 親が間違ったことを言った、と感じる瞬間なのだ。
 それはアカンやろう、というのは、どこか突き放した感じがある。
 親の態度によって自分が傷ついた、ということではなくて、
 そういう姿勢や発言はどう考えてもよろしくはない、と冷静に親を見ている自分がいる。
 彼はどういう意図があってそんな発言をするのだろうか、といぶかしむ自分がいる。
 でもなかには、そういう親の姿勢や発言を真に受ける、というか、
 深刻に受け止める、非常にショックを感じる、実際に恐怖を感じる、怖がってしまう、
 という人もいるんだなあと、
 いうことは成人してから知ったことだ。
 それでわたしは怖がりっていうのはこういうことじゃないのと思ったりするんだけど、
 いや、書きながら思ったけど、それはちょっと違うか。
 ともかくわたしはそういうのは怖がれない体質なので、
 そんなことに怖がれちゃうんだ、というのは半信半疑な驚きである。
 
 そんな馬鹿な、というのが正直な感想だ。
 でもそれじゃ他人に歩み寄るということが出来ないんだな、ということも感じる。
 怖いって、相対的というより、絶対的なものだと思う。
 人それぞれ怖いものは違う、でも怖いということがどういう感じかということを人は実感として知っている。
 それで、例えば、自分が怖くないものを他人が怖がっているのを見ると、
 馬鹿じゃないのかとか、フリじゃないのかとか、
 そんなふうに思ってしまう、陥りがちな悪癖がある。
 何が悲しいと感じるか、ということもそうだけど、
 こういうのはとても個人的なことなんだろうなと思う。
 本人にしかわからない痛み、本人にしかわからない恐怖、というのは、
 人それぞれ、多かれ少なかれある。
 それで、他人のことが自分のこととして感じられない、感じにくいからといって、
 安易に他人の言うことを馬鹿にしたり、蔑んだりすると、
 結局そのツケは自分が支払うことになる、と思う。
 一気に道徳とか宗教じみてきたが、
 因果応報チックになってしまうが、
「自分の蒔いた種は自分が刈り取る」
 というのは真理だと思う。
 それは一般的に悪いとされていることだけじゃなくて、良いことだってそうで、
 そもそも悪いとか良いとかいうものこそ相対的なので、
 対する絶対的とは何か、
 というと、
 真理曰く、悪いとか良いとかそんなことはどうでもいいけどさあ、「自分の蒔いた種は自分が刈り取る」し、「他人の蒔いた種を自分が刈り取ることは出来ない」んだよね、ということだと思う。
 まあ、いわゆるカルマっぽいやつ。
 カルマについて思うのは、悪いことをすれば悪いことが、良いことをすれば良いことが、
 というのは、
 いや、悪いとか良いとかいうのは結局のところ自分が勝手に決めているに過ぎないものだから、どうでもいいわけ。
 そんな些細なことは知らんけど、という感じだと思うの、
 真理からすれば。
 良かろうが悪かろうがそれは真理からすれば興味もないし、そっちの判断に任せるから、好きにすればいいんじゃね、という感じ。

 

 ともかく、「怖い」に関して言えば、
「怖い」がわからないやつはいない、人は誰だって怖がりだし、
 格別怖がり、特別怖がり、人一倍怖がり、なんていうのは、何でもない、何も言い得ていないに等しいんだよ。
 だってそれを同じ土俵に並べて、たしかにこっちの方が数値が高いですね、というように、数値化することは出来ないからだ。
 それは出来ない。
 そして出来ない、ということは素晴らしい。