あなたはすでに「悟り」を経験したことがある。もとい、あるいは、あなたはすでに「お金持ち」である。

 つまりですね。
 悟りは日常的にひらかれている。
 ふと我に返る瞬間、可能性は、誰にでもある。
 でもその瞬間に立ち止まらず、ちょっと瞬きでもして忘れて、またさっきの続きをはじめる。
「今」「ここ」「わたし」
 に立ち会うことをやめて、昨日や明日や誰かのことを考えはじめる。
 
 わたしが言いたいのは、それが悪いということじゃなく、
 あなたはすでにこれまでに何度でも、実は立ち止まったことがある。
 目を覚ましたことがある。
 ということだ。
 要するに「悟り」は誰だって経験しているし、決して特別なことじゃない。
 だって、
「悟ったようなことを言ってないで、仕事しなさい、勉強しなさい、楽しみなさい」
 とかいう、
「悟ったようなこと」
 というのが、どんなニュアンスか、どんな意味合いかってことは、
 なんとなく人はわかっているでしょう。
 慣用句として定着しているくらいには、通じるわけです。
 決して立ち止まって考えこんだり、感じつくしたりはしていないけど、瞬き程度になら、誰だって「悟り」を経験したことはあるのです。
 
 何が言いたいかというと、
「幸せ」とか「豊かさ」というものがありますね。
 モノっていうか、概念ね。
 幸せになりたい、豊かになりたい、というその、あなたの求めるところの、
「豊かな状態」とはどういうことか、というと、
 自分は豊かであると「気づく」こと、それだけです。

 

 どんどん逸れていきますよ、大丈夫ですか。ついてきてますか。

 たとえば、「お金持ち」ってあるでしょう。

 あなたは「お金持ち」と聞いてどういうのが「お金持ち」だと思いますか?

 純粋にお金のお金持ちね。

 精神の豊かさ、とかはいったんこっち降ろしといてね。

 円です。ドルでもいいけど。

 いったい、いくらくらい所持していたら「お金持ち」と言えるだろうか?

 百万円?一億円?一兆円?

 答えはどれでもありうる。

 実際一円でも持っていたら「お金持ち」です。

 間違いない。だってゼロじゃないもん。

 でもそうじゃないって声が聞こえてくるね。

 一円しか持っていないなら貧乏じゃん、どうやって家賃払ったり携帯代払ったり、そもそも食べたりするのさ。

 そうですね。

 でもそれはどこまでいっても「あなた」や「あなた以外の誰か」にとってはそうだ、というだけです。

 極端な話、

 一円しか持っていなくてもお金持ち

 だし、

 百億円持っていても貧乏

 だということが言えるのです。

 なぜなら「お金持ち」か「貧乏」かは、

 あなたの主観が決めることだから

 です。

 

 そんな頼りない、って声が聞こえてきそうですね。

 ああもっと話したい。

 もっと喩えたい。

 もっと教えてあげたい。WAO!!

 

 がらっと話は変わるけど、ブログと日記ってやっぱり違うんだね、と気づいた。今気づいた。

 わたしは日記がアウトプットだと思っていたけど、そうじゃないんだね。

 

 もうちょっとアレ(アレってドレだよ、いやもう日記が恋しくなった)なので一気に結論すると、

 

 あなたは悟ったことがあるし、お金持ちになったこともあるんだけど、

 単にそれに気づいていないだけ、忘れているだけ、そうじゃないと思いたいだけってことです。

 なんでそうじゃないと思いたいのかは知らないよ、あなたはわたしじゃないから。

 あなたのことはあなたにしかわからないし、あなたがどうしたいかはあなたしか決定できない。

 

 だってわたしがあなたの目を通して世界を見ることは出来ないし、

 あなたの心を通して何であれ何か、を感じることは出来ないからだ。

 いったん切ります。