傷を負った自分を認めることは、豊かさを引き受けること
「『母と子』という病」高橋和己・著を読んだ。
最初、こっちが病気になりそうだという気がしたが、最後のDタイプの母親から「生き直す」娘二人のケースには泣いた。
あとがきも気になった。
「あなたは地球上の人である。火星や他の銀河の惑星にいるわけではない。〈…中略〉地球上で自分の位置を知るには、他人との関係(距離)を計測する以外にない」
えっ唐突に、どういうことですか。
あなたはまさか地球外惑星の人なのでは。
とか思ってしまうじゃん。
「金星人のオムネク・オネク」を読んだ直後のわたしからすれば。
わたしはこういう母と子のなにか、とか、
DVとか、
性にまつわる幻想、あるいは病、ファンタジー、悪夢、とか、
なんだろう、
支配被支配、あるいは単に愛の変形、
とかいうものが好きでしょうがない。
強い関心がある、などという表現ではまったく十分ではない。
支配被支配の関係自体を好むわけじゃなくて、つまり、その構造、からくりを知ることに、たいへん腐心している。
ほとんど執着していると言えるのではないか。
もうこれは「好きでしょうがない」のではないか、ということです。
まあ同時に強い恐れもあるのかもしれない。
特殊なケースでしょ、関係ない、意味わからん、
で済ませるのではなくて、
こういうもの、を落とし込んでおかないとヤバイ気がする、という何故か危機管理能力に訴えてくるものがある。
でも、あのD(Disability=障害持ち)タイプの母親に育てられた二人の娘のケースを読んで、ぐっと心を動かされるとか、泣かない人っているかなあ、と思うんだ。
いや、いるだろうけど。
わたしは昔、中学生の頃だったかと思うが「永遠の仔」(天童荒太・著)という小説を母親、母親の妹(叔母)などと回し読みしていて、それぞれが「泣いた」というようなことを言っていたのを、不思議に思った。
いやわたしも泣いた。
「義憤」に燃えたし、哀しかった。
でもあの小説のような極端な(悲惨ともいえる)体験はわたしたちの中では誰もしていない。
なのに、共感できる。
これはどういうことだろう?と思った。
おそらく、誰しも子供の頃に負った傷というものがあるのだ。
それは何も親にたばこの火を押し付けられるとか、親に性的暴行を加えられるといった、「目に余る」過剰な暴力ではなくとも、
どんなに些細に思えるようなことにでも、子供って傷つけるものなのだ。
別に子供の頃じゃなくても、大人になってからでもいいが。
その記憶があれば、悲惨だな、ありえない、気持ち悪い、自分には関係ない、とかではなくて、自分なりに感情移入して物語に入り込めるものなのだ、と思った。
でも「『母と子』という病」を読み終えて思うのは、
傷を自覚できるのは幸せだ、ということだ。
傷は、「カルマ」にも似ているけど、
必ずつくよね。
必ずある。
それは不幸なことじゃない。
あって当たり前、むしろ幸いとも言える、なぜなら、
わたしたちは自分自身の痛みによってのみ、他人の痛みを窺い知ることが出来るからだ。
それはどこかでどうしても必要なステップなんだろうな、と思う。
傷ついたことがない人は、傷ついた人が陥る心境や苦境というものを、わかることがない。
それの何がいけないか、というと、
別にいけないわけでもないが、
それは要するに停滞であるからだ、という他はない。
停滞の何がいけないか、
となると、いや、わたしは遠慮したいとしか言い様がないのだが。
むしろ傷はどんどん引き受けるべきだ、そこに傷があることに気づくべきだ、という気さえするね。
それは誰かに賠償責任を求めなさいということではなくてさ。
わかるでしょう。
わかるはずだ。
それは傷を負った自分が悪いのだ、不注意なのだ、と自分を責めなさいと言っているわけでもなくてさ。
傷を負った自分を認めることは、豊かさを引き受けることだ。
傷を負う、ということは何らマイナス因子ではないんだよ。
右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、というのは、
そういう意味ではないかな。
わたしも昔、子供の頃にそれを聞いたときには、「は?無理」と思ったけどな。
今だって無理だろうなあ。
どつかれたら、どつき返すでしょ。わたしって人は。反射的に。
でも、どこか、そうじゃない気がする、という後ろ髪を引かれる感じはある。
ていうか、「怒り」って、
わたしは苦手だが、
苦手なのは、親しい人に向かって怒りを爆発させるのも、爆発させられるのも両方だ、もっとマシなコミュニケーションがある、と思えてしまう。
でも「自己否定=自己に向けられた怒り・攻撃」よりかは「他者否定=他者に向けられた怒り・攻撃」の方が、
「自己実現」が実行されている、というのはわかる。
それは今日読んだ本(母と子)にも段階的進歩として、書かれている。
わたしはほとんどニュースは見ないけど、アメリカが北朝鮮に向かって核を捨てなさいって、無理でしょと思う。
それはどこか北朝鮮を侮っているのかもしれないが、
つまりそんな崇高な行いは出来ないであろうと思っているのかもしれないが、
普通に考えて無理だろう、と思う。
真に平和を求めるのならば、自分がまず武器を捨てなければならない。
いやもう、そうだよね。
あなたが警戒する限り、相手もまた警戒し続ける。
あなたには警戒しない相手は見えない(認知できない)か、見えたとしても馬鹿にしか思えないだろう。
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