午前2時に起きちゃったから徒然に。

 オーラについてネットで読んでいると、猛烈に眠くなって、バシャールのいう活動期である今頃目が覚めるという。
 今日はほとんど本じゃなくネットばかり読んでいた。
 見える妻と見えない夫、のブログは全部読んだ。
 
 最近、幽霊が見えるひとは統合失調症だと思えという言い切りを読んで、
 いや、なんだろう、そうじゃないというか、
 幽霊が見えるか見えないかが統合失調症を分かつというより、
 そもそも誰だって統合失調症だというほうが腑に落ちる。
 
 統合失調症である誰か、とそうではないわたし、を敢えて分けるのは、
 なんのために?と思って不思議だ。
 幽霊見えたっていいじゃん。
 わたしは見えないけど。
 
 中学生のときに買った本に、「正常と異常のはざま」というのがある。
「時間の本質とは」というのもある。
 これらは同じ出版社から出ている同じシリーズの装丁だった。
 何が正常で何が異常かということが、昔から実に不可解だった。
 つまりその人自身、の立場から、心の目ん玉から世界を眺めたときに、
 誰だって自分自身を基点とせざるを得ない。
 病識がある、ない、ということがあるけど、
 あろうがなかろうが、
 自分の見えたことを単に見えたこととして、表現することに、
 社会的な抑圧がかかるのは、わたしは、
 いやかけるのは結局自分自身なのであれ、
 
 あ、そうか、じゃあ関係ないなあ。
 
 幽霊が見えるのは統合失調症だ、という人からすればオーラが見えるなんていうのも統合失調症に分類されるのだろうか。
 見えないはずのものが見える。
 はずってのがどこから出てきたのか知らないが。
 
 気の迷い、なんていうけど、「気」の及ぼすものを、
 そんなに軽視してしまっていいのだろうか、という「気」が、わたしはするけど。
 
 オーラの人は前世療法をする人だ。
 わたしは前世はあるかないか、というと、あるでいいんだけど、
 自分としてはまったく記憶にないし、
 思い出せるのなら思い出したいような、
 つまりあるのならばカルマを解消したいし、その手助けになるものとして前世療法がある、というのはまったく、そんな方法もあっていいな、というくらいに思う。
 でも前世から持ち越したカルマ、その痕跡が、
 今も影響を及ぼしているのだとすれば、
 今という素材、今という情報からそれを解ける可能性はもちろんある。よって、必ずしもそれがわたしにとって必要かどうかでいえば、
 必要ないのかな、と思う。
 
 幽霊が見える知人で、見えてよかったと思えるのは、危ないものに近寄らずに済むからだという。
 わたしはこれを聞いてそんなものかなと思いつつ、
 なんだろうなそれは、という疑問がわいてきて仕方がないものだった。
 これはふと掴んだ糸口でまだ消化しきれていないもの。
 
 統合失調症といえば、「わかっちゃった人たち」だったか、他の本だったか失念したけど、
 現実感が乖離するとか、
 現実と自分の間に薄いガラスが一枚あるようだとか、
 そんなふうに表現される経験が誰かや誰かにあり、わたしにも感覚的にわかるような思いがある。
 ビリー・ミリガンが、ベールを感じてそれを通して現実を認識している、といった感覚が、なんとなくわかる。
 それって病気っぽいと思うと同時に、
 果たしてそれは病気なのだろうか。
 目覚めへの一歩を前向きに踏み出したとは言わないが、敢えて一歩後退することによって、
 現実と一体化している自分に変容を与えたというべきじゃないだろうか、という気がする。
 皆、ベールを被っているんです、わたしは思わずそれを取りなさい、と怒鳴りつけたい気持ちになりました、と言っていた人がいる。
 それは感覚としてわかる。
 つまり、ベールを感じることが異常なのではなくて、
 むしろ逆説的に、ベールの存在に気づかないことが、異常とは言わないが、この世にありふれた光景なのではないだろうか。
 OSHOはこのベールをいたずらに、
 というのは、同じ音だけど徒に、ではなく悪戯に、
 外しちゃってごめんなさい、と言ってこの世を去ったという気もする。