口唇口蓋裂の色んなケース。
陰謀論ってわたしは嫌いです。
他者にコントロールされうる・されている自分という、構図というか力学というか、概念がきらい。
と思いつつ、そういう話じゃないのこれ、というような記事(サイト)をでも面白いなと感じて読みつつ、
帰宅して気がつけばなぜかまったく関係のないような、口唇口蓋裂について調べていた。
いやなんでだったんだろう、わからない、でもよかった。
そのキーワードで検索するとおそらく出てくるのだが、医師による、
親の承諾が得られなくて救えなかった赤ちゃんを忘れられないという話があった。
これはまた違う問題提起かもしれないが、
つまり現に手術によってしか救えない赤ちゃんを、親が手術による再生を承諾しなかったため、
徐々に死にゆく赤ちゃんを見ているほかはなかった、という話で、
なぜ手術に保護者、親族の同意がいるのか、
確かに救えたが法的に救えなかった命がある、これは法の不備として問題なのではないか。という。
またこれとは別に、
TVで放映されたこともあるという人の、生まれたときの、手術前のまあまあショッキングな写真と、術後、
それから、本人による、コメントにも引用されていた、
「口唇口蓋裂のせいで
自分の人生が駄目なんじゃないんだよ。
口唇口蓋裂のせいにしてる
自分のせいなんだよ。」
こういう文言はたしかに、本人以外に言えないわけじゃない、言えないわけじゃないが、本人による発言のほうがはるかに説得力がある。
もちろんあなたの場合はそうだとしても、自分の場合はそうじゃない、とか、なんとか、色々あるだろうけど、
まあもう、色々あるんだなあ。
美容整形についてもちらりとよぎった。
整形はアカンのか。
これもまた複雑怪奇な問題であって、
わたしの意見をいうなら、アカンくはないよね。
もうこれは、物質的、というか、
そもそも物質次元にいるわたしたちは、物質というか、
表面的なカタチというか、
そういうものからなかなか自由な視点を得ることは難しい。
この際「自由な」というのはそれこそ神様のように次元を超えた自由な、というほどの自由さである。
まあもう何にせよ、カタチではあるが、カタチではない、ということもあり、
絶対こうだとか絶対そうだとかいうようなことは、実のところない。
絶対醜い、絶対支持されない、ということが、一夜にして(一夜じゃなくてもいいが)スーパースターになって、価値が逆転くらい飛躍的に上がる、ということだって実際にある。
だとすれば、醜いって何だったのだろうか。
忌避されるべきと思われていたことの根拠、あるいは絶対性とは、まったく絶対じゃなかったよね、としか言いようがない。
「普通でありたい」という願望が世の中には存在する。
いやもう、普通って何だろうか。
わたしのことはどうでもいいいけど、わたしは、ナンだカンだ言って図抜けて普通でない、こともないからなのか、普通でありたいと思ったことはない。
普通じゃなくなりたい、ということもなく。
いやもう、だから、普通ってなんだっていう。
そんなもん実際にはないだろうと。
むしろ、
そういうものに対して反発を覚えるクチだった。
つまり、なんていうか、
多数派のおごりみたいなものに対して。
どちらかというと、少数派を蔑ろにするということを、どこか、それはわたしはいやだ、他の誰がどうであろうとわたしはそれは、
説明しがたいが、たとえば、閻魔様の前で申し開きができないというか、
そんなふうに感じていた。
まあ平たく言えば罪悪感があった。
このでも罪悪感、というのは、実に厄介なものだよね。
いや、これは話が変わる。
ので話を戻すと、
その、口唇口蓋裂のひとの生まれたての写真なんかを見ると、
たしかに、ぎょっとする。
本人もおっしゃっていたように、観覧注意ならぬ閲覧注意なのだ。
あえていうがわたし・たちは、
こういう「異形」ともいえるカタチ、表面上の異質に関して、
なんとも曰く言い難い心のざわつき、
恐れというか、嫌悪・忌避の念を咄嗟に感じてしまうのである。
もう、そうなのです。
とりあえずそうだとしてみてください。
不調和に対してわたしたちは気持ちが悪いと感じる傾向がある。
だがここで強調しておきたいのは、「不調和」とは実際のところ、社会の不調和とまでいうのは拡大解釈であって、あくまで本人にとっての「不調和」である、ということです。
そこで、自分としては、(自分だけじゃないはずだと思っていたとしても)不調和音が気持ち悪い、
だからって、
こんな異形のものは世の中にあってはならない、とまで思いつめるのは(他者の賛同を得ようとする・正当化する・のは)間違った心の方向だとしか、わたしには、思えない。
結局、井の中蛙だと思うんだよそういうのは。
自分的に、異形のものに接したときに、ぎょっとするまでは仕方がない、だって、見たことないものを見たら誰だってびっくりする。
それが、なんだろうなあ、見たことないくらい可愛いぜ、美しいぜ、じゃないことだってそれはあるね。
この、造詣の美というものが心のどこから発するのか、というのはわたしも不思議だが、
というのは、ミロのヴィーナスとかにおける黄金比というのを昔、美学の時間に習ったが、
わたしは不思議だった。
いや、なんだろうか、そうだろうか。どこが黄金比なのかさっぱり響かねえや、と思った。
これは元素記号表をはじめて見た時の違和感にも似ている。
なんだそりゃ、誰が決めたんだいったい、という。
なんでこんなものを覚えなきゃならないんだ。
暗記は苦手じゃないが、好ましくはない。
それはただ面白くないから、自分の腑に落ちないことは、単に面白くないから好ましくはない。
自分が発見し系統付けた元素記号ならいいけど、他人のものの踏襲はいやだ、という。
大人になって思うに、いや、自分が発見し系統づけるのは可なりな労力だぞ、と思うからもうそれは、それで(既存のもので)いいんですが。
話がそれたが、
自分にとっての異形というのは、おそらくほとんど誰しもがある。
それを禍々しいものとして咄嗟に受け取ってしまう心情も、わたしにもあるからわかる。
でも、ぎょっとした(不快だ)、というときに、
ぎょっとさせた方が悪い、というのはあまりに短絡的すぎる。
突き詰めれば、ぎょっとした自分が要は狭量であり無知なのだ、と思う。