あのときの誰かは、わたしである。

 ふと思い立って金沢へ行った。
 21世紀美術館で展示されていたのが「書くことに生きる・チウ・ジージエ」
 絵は、文字もだが、やはりセンスだと感じた。
 字は体をあらわすとは、わたしにとっては真理だ。
 
 わたしは今でもときどき思い出すのだが、
 高校生のころ、まだ、誰とも付き合ったり、手をつないだりあるいは、そうした雰囲気にもならず憧れも好意もなかったころ、
 電車での登下校、家の最寄り駅の近くで、付き合ってください、だったか好きです、だったか忘れたけどそういうことを言われて頭を深々と下げられたことがある。
 唐突さと、見知らぬ相手であるということがわたしに、不快な気持ちを起こさせた。
 あまりの突拍子もなさに、わたしは、無愛想にいえ、いいですとか言葉少なに返事をしたか無視を決め込んだか、ほとんど立ち止まりもせずにその場を立ち去った。冗談か悪質な悪戯だろうとすぐに見当をつけて余計腹立たしい思いがしたのを覚えている。
 
 それから、年月が経って、色々と経験もし、思い返すにつれ、
 もしもあれが冗談や悪質な悪戯じゃなかったとしたら、なんという無礼な、心無い対応をしたことだろうと、
 もしそうだったら、だが、すこしならず心が痛んだ。

 そして、いまふと思うに、そういうことを未だに、
 そのときの、
 いや、むしろあとで思い返したときに湧き上がってきた罪悪感をいまだにわたしは、あるいは、ひきずっているのかもしれない。

 もちろんそれだけでは、わたしのこの自由奔放な性、いたわり、好奇心、受容性を説明しきれるものではないけどね。