あなたは、正しいことにうんざりしたから、生まれてこようと思ったの。

 近藤麻理絵「人生がときめく片付けの魔法」を読んだ。
 いや、片付けはだいじですね。
 わりと以前に読んだ、カレン・キングストンの「ガラクタ捨てれば自分が見える」も併せておすすめしたい。
 
 わたしの家は物は決して少なくないが片付いている方だと思う。
 がしかし、家中すべてがときめく物だらけかというと、そうでもない。
 たとえば、さっきウィスキーの4Lボトルを近所の酒屋で買ったら、どうやら顔を覚えてくれている店のおばさんが、もとはオマケの景品らしきサランラップをくれた、
 以前には食器洗剤をくれようとしたのだが、それ(その銘柄)は使わないと断って、500mlのペットボトルの水を貰ってきた。
 しかしそれもずいぶん使わなかった。
 そしてサランラップだが、
 これも、どう何をあがいても持っていて心がときめくかといえば、ときめかないよなあと思う。
 でも、そろそろ切れるし買うか、切れてから買うか、と思っていたものではあったので、わあそれは助かりますとありがたくいただいて帰ったのだが、
 サランラップってものは、いや、便利ですよ、なきゃ不便だ、わたしだって実際わりと使っている。
 しかしどうしてもなきゃならないかといえば、そうでもないような気がする。
 
 まるごと買ってきたキャベツをくるむのにサランラップでなくてはならないわけはないし(新聞がいいって聞くよね、うちは新聞とっていないから、ないのだが)、ちょっとした食べ残しをくるむのなら、蓋付き容器に移し変えてもかまわないわけだ。
 
 つい先日、金沢へ旅行したときに、持っていった「収ったり、出したり」(堀井和子・著)を思い出したりする。
 印象に残っているのは、小学生のころから、机の上に文房具を並べてここは、こういう配置がやっぱり格好良いなと悦に入っていたというエピソードで、それ、わかるわと思う。
 物がここにすごく嵌る、落ち着く、という感覚もわかる。
 それってたとえば、デパートのショウウィンドーがカッコイイのと同じような感覚でもある。
 エル・デコ(雑誌)とかの、とある一ページがとてもお洒落で素敵だ、という感覚と同じ。
 
 わたしは子供のときに書道を習っていたが、習っているときにはわからなかったが、あとあと、自分なりにこういう字はカッコイイ、あんな字はカッコわるいと感じる、それって、バランスなんだよなと思う。
 また、字であれ、インテリアであれ、何であれ、流行とか背景あるいは歴史というものが必ずある。
 
 というのはわたしは、小学生の頃転校してきた友達がとても好きになって、その子の字さえも好きになり、真似ていわゆる丸文字を書いていた時期がある。
 お母さんに、あんた字がきれいなのになぜそんな変な丸い字を書くのか、と不服気に言われたのを、奇妙にもいまだに覚えている。
 
 閑話休題
 もとへ戻ると、片付けの何がだいじかと言うと、
 それはイコール整理整頓ではない。
 何がどこにあるのかわかっている、それだけではない。
 散らかし放題散らかしている人だって、だいたい何がどこにあるのかはわかっているという人は、一定数いるものだ。
 そうではなく、
 わたしがサランラップとか、あるいは値段や便利さに応じて買ってきたモノたちは、完全に妥協せずに求めた結果かといえば、そうではない。
 目に映るすべてが妥協なしの光景かといえば、そうではない。
 
 妥協せずに、というのはすごくだいじだと思う。
 いや、譲ると、妥協しても構わないがそれが自分にとって妥協であるということは少なくとも意識していなければ、あなたは綾目もわからない自分とは違うものになる。 

 妥協するなとは言わないの、
 誰しもが階段は一段ずつ昇るものだ。
 いや、歩みは一歩ずつだというほうがわたしの感性に叶っている。
 もちろん、
 人の一歩はそれぞれ歩幅が違うのだから、彼の一歩は、自分の十歩でも及ばない、なんていうことを気にしちゃだめだ。
 もっとだめなのは、彼の一歩は、自分の半歩にも満たないと貶めることだ。
 
 誰だって日常や常識や当たり前っていうのは、居心地の良いものだ。
 ある朝太陽が西から昇ってたら誰だって驚愕する。
 ある日、目の前で曲がるはずのない固いスプーンが液状のように、くにゃりと曲がるのを見れば動揺するものだ。
  
 大切なことは、それは本当に誰だってそうだ、ということだ。
 太陽が西から昇ったり、曲がるはずのないスプーンが容易く曲がったり、というのは物の喩えにすぎない。
 いつも出勤するときに使う電車が遅延してでもいたら誰だってあせるさ。
 もっといえば、出勤してみたら会社が倒産しているとか火事で崩壊しているとかね。
 ま、会社はどうでもいいか。


 うん、つまり、仮にだがわたしたちは、あるはずの一円や百円がなくなっていたところでそうはあせらないだろう。
 むしろ、そこに一円があったか、百円があったかということを把握していたかどうかもあやしいものだ。
 その「感覚」と同じように、一万円だろうが百万円だろうが気にしないひとはいる。
 ところが翻って、十円を大事に過ごしている人だっているわけだ、
 詳細は各人の想像にまかせる。
 
 わたしが言いたいのは、額じゃない、スケールじゃないっていうこと。
 それが一円だろうが一千万円だろうが、関係ないでしょってこと。
 あなたはただあなたの目の前を見る。
 あなたはただあなたの選択によって目の前の事態を判断するということだ。
 彼にとっての一円あるいは一千万円と、他の誰かにとっての一円あるいは一千万円は、同じではない。
 それを同じだと看做すのはまったく愚かしい。
 
 あなたはあなたの枠を自分で決めている。
 彼は彼の枠を自分で決めている。
 一センチはどうあがいても一センチだ。
 でも彼にとっての一センチと、あなたにとっての一センチは決して同じものではない。
 なぜなら、
 そこに必ずや、「感情」がつきまとうからだ。
 なぜ感情がつきまとうかといえば、
 
 外側のスケールとは、あなたには本来何の関係もないものだ、ということを教えてくれるのが「感情」だからだ。

 

 

 つまりさ、あなたはあなたの家を見出すために生まれてきたわけじゃないのさ。

 言い換えれば、あなたは自分が「正しい」と思うであろうことをするために生まれてきたわけじゃない。

 正しいことを知るために生まれてきたわけじゃない。

 あなたは、正しくないことの詳細をつぶさに知るために生まれてきたのよ。

 正しいことにうんざりしたから、生まれてこようと思ったの。