売春、してみたらいい。

 必要なのは明るい悪だ。
 たくましい悪。
 必然的でさえある悪。

 わたしは売春って概念が好きだ。
 というか、売春はいけないよという考えが嫌いだ。

 自分を安売りしちゃいけないとかも同様、
 安いも高いもない、そもそも値段などつけられない、売り物じゃないと思うんだ。

 高く売ろうとあくせくするくらいなら二束三文で安く売った方が潔いと思う。

 だってどう転んだところで所詮、売り物じゃないんだから。
 
 あなたがもし、お金で女性とのセックスを「買った」ことがあるのなら、
 自分の娘がセックスを誰か通りすがりの男に「売った」としても、受け容れてしかるべきだとわたしは思う。
 自分の母親でもね。
 
 わたしが嫌いなのは正義感だ。
 嫌いというよりむしろ、なんでそんな無駄なものがあるんだ、馬鹿げている、という気持ちだ。まあ要するに嫌いなんだ。

 正義感ってなんか、たまらないよな。
 裸足で逃げ出したくなる。

 よく酒を飲まないひとが、酔っ払いは嫌いだっていうじゃない?
 それに似ている。
 正義感は自分に酔っている。
 ただのそれだけ。
 わたしはお酒は飲むけど、正義感という銘柄はやらない。
 素面でいたほうがマシだ。

 いやもっと単純にいうなら、女を聖女と娼婦に分ける考えが実に陳腐でうんざりするってこと。
 自分の母親が、娘が、妻が、売春をして何がいけないだろう?

 なーんにもイケなくはない。
 
 
 わたしは売春をしたことがある。
 それをどうしてもやってみたかったというか、やらなくてはというか、
 やった方が早いというか、
 それでやってみた結果、
 これだって仕事なんだという意識が芽生えただけだった。
 コンビニでアルバイト、は、したことがないけどたとえばマクドナルド、飲食店のウェイトレス、弁当屋での発注や在庫管理と何ら変わりなく、
 仕事なんだから効率やホスピタリティ、いわば顧客満足度を上げて感謝されてナンボという、根底に流れるものは同じだと思った。

 もちろん、セックスにまつわることは実にハードルが高い。
 それはいわば、アイデンティティというか、自我というか、エゴというか、
 そうしたものがまったくもって危険にさらされる経験でもあることは、端的にいって否めないかな。

 わたしは特別な愛を信じていない。
 区分けされた愛、個別の愛、身内意識じみた愛を信じていない。
 愛はある。
 愛は空気みたいなものだ。
 それがなきゃ生きられないが、それを獲得するために四苦八苦しなければならないというものではない。
 空気がなきゃ生きられない、でもだからって、もしかすると空気がなくなるかもしれない時に備えて空気を取っておこう、というようなものではないんだ。

 空気は恩恵だ。でも空気を取っておくってことはできない。
 愛とは恩恵だ。でも愛を取っておくってことはできないんだ。

明日の心配をできるって贅沢だよね。

 歪みに目を向ける?

 そう、歪みに目を向ける。
 実際歪みでないものはこの世にはなく、もしすべての歪みがない世界があるとすればそれはつるつるとしてまるで取っ掛かりがなく詰まらないものだろう。

 この歪みを愛してみる。
 受け容れてみる。

 なんだって個性だとすれば、たとえばアトピーは個性なんだろうかって思うんだ。
 そう、個性というものの捉え方は実に様々だけど、
 なんといったらいいか、それは硬直したものじゃなく生き物だと思う。
 
 結局のところ、現にあるものから自分が心から納得できるような気づきを持ち得なければ、それはそこにいつまでも留まり続けるのだろうということだ。
 
 皆、役を交代でやっているんだっていっている人がいた。
 そうだと思う。
 たとえ大量殺人を犯したひとでも、たとえばヒトラーとかでも、
 彼という人物を通してどれだけの人が影響を受けたことだろうか。
 もちろん、ヒトラー自身がヒトラーとして生きていたときに、自分はヒトラーっていう役をやっているんだっていう自覚があったかなかったか、
 なかったかもしれないが、
 それはそんなことを言い出せば皆そうで、

 皆おのれが何をしているのか、なぜしているのかということを知らない

 詰まらないものになるのがいいんだろう。
 流れがある。
 流れを堰き止めるものがある。
 流れに乗るものがある。
 詰まるなかれ。

 でも堰き止める試みもまたいいと思う。

 いずれにせよ抱きとめられる。
 大丈夫なんだよ。

10:46 2019/06/18
 朝の時間へシフト実行中。
 なかなか習慣を定着させるのは一朝一夕にはいかないもので。

 一度だけでいいとか、一分だけでいいとかなら皆飛びつくんだけどね。

 よく、兄弟の下の子で、上の子のことを見ていたから自分は要領よくやれる、みたいなのあるじゃないですか、わたしはあれは、嘘というか眉唾だと思う。
 まあ下になったことがないからわからないんだけど、
 わたしはむしろ下の子がはじめての経験をしているのを見てああ、忘れていたけど自分もこうだったんだな、なるほどなあとあらためて納得して理解を深めるクチなので、
 上というより下がいるほうが、
 まあ要領というより。

 だいたい苦い経験とか辛い経験っていうのは、特に他人から学べないんだと思うんだよね。
 要領というものがだからそもそもどことなく眉唾チック。

 年老いた人が若いうちにやっておけばよかったと後悔するのをみて、自分は一生懸命勉強しようなんてあまり思わないよ、自分はせいぜい遊んでおこうって思うんだ。

17:47 2019/06/19
 足もとに身体をすり寄せてまとわりついてくるチョロさん、に話しかけていた。
 かわいいね。
 いつまで一緒にいられるんだろう?

 いつまで?だって、
 わたしはふと笑う。
 いつまででも、永遠に。

 そうだ、でも、わたし人間として生まれてきたからには、
 限界を設けることを可能にして生まれてきたからには、
 つまりそれは明日や明後日の心配をできるように生まれてきたからにはさ、

 この悲しみに、この感動、この郷愁にほんとうに寄り添いたく思うんだ。
 明日の心配をしたいんだよ。


 なんという贅沢だろう。
 この贅沢を気の済むまで味わい尽くしたいと願う。

あたりまえって、悪く言えば「雑」。

 そうなんですよね。
 そうなんです。
 で、ふと。
 なんだったっけ。

 最近ダイエットを楽しもうっていうことを言っているひとが多いようにわたしは感じる。
 まあ、ダイエットに限らずなんでも楽しんでやるのがよく、
 ダイエットっていうとしんどくてつらくて、この期間をなんとか頑張ればあとは理想の未来みたいな、
 結婚すれば、大手の会社に就職すれば、国家公務員になれば、宝くじに当たりさえすれば、整形さえすれば、的な、
 なんでもそうだけど、ダイエットもそうではない。
 ダイエットって単に習慣なんだよね。

 いま頑張ってるねとかじゃなくて、
 ずっと頑張るの。
 まあ頑張るじゃなくて楽しんでいる、というほうがいいし、自分を大事にしてあげているなあという感覚でもいいし、
 結局、
 いまの自分とは違う自分になろう、とするときってやっぱりすごく抵抗があるし、気恥ずかしさも伴う。
 これは脳のホメオスタシス、恒常維持機能のなせる業なんていうこともいいますが、
 まあそうだとすると、脳をだます必要がある。
 というか、脳はあなたではないということをあなた自身がはっきりと知る必要がある。

 脳があなたではない証拠に、脳の自動運転に任せながらも、ほんとうはこうならいいのになあ、という思いがわいてくることがある。
 もっとお金があればいいのに、もっとスタイルが良ければいいのに、もっと、もっとという思い、欲が。
 
 以前、あまりに体重が増えたので少し減らそうとしているひとに、筋トレがいいよというと、筋トレってナルシストみたいという抵抗をされたことがあり、
 これは、不思議というか、なんかちょっと感慨さえ抱くというか、
 ここになにかある。
 なるほど。
 いや、なんだろう、これすごく気になる。
 頑張るのがイヤ。
 といっている人は他にもいて、
 そうだなあ、わたしもイヤといえばイヤだけど、
 つまり、
 しんどいより楽しい方がいい。
 という意味においては、わたしも「頑張る」ことに違和感はある。
 言葉ってむずかしいね。

 なんだろうな、単になりたい自分になる、というか、
 ありたい自分の姿を選ぶ、ということなんだけど、努力とか頑張るというよりもむしろ。

 結局、自分自身に対する抑圧がある。
 ほんとうはもっとこうしたい、ああしたい、こうでありたい、ということを、
 でも無理だとか、それには苦しみを伴うとか、そんなふうに捉えて、欲を虱潰しに殺している。
 小さなデメリットを恐れて、大きなメリットを放棄し続けている。
 以前どこかで放棄したのではないの、放棄し続けているの、いまこの瞬間にも。

 だいたいメリットとかデメリットとかって、
 勝手に自分が決めてるだけだしね。
 実際のところなんだって、デメリットだってメリットだと転換できればそれが最強。
 でもなかなかそうは思えない。

 わたしは誰だってメリットのないことはしないと思っている。
 だから他人を見ていて、そんなことがメリットなのか、と思うことはある。
 でも彼からすればそれがメリットなんだよね。

 これねえ。まあいいんだけど。
 二度寝するとかですね。
 いや、わたしもします。

 あたりまえが怖いんだよな。
 ホームレスのひとは日々苦しんで生きているかというと、そうとは限らない。
 いや、ホームレスっていうとわたしは必ず思い出してしまうのが、
 OSHOの話で、乞食が物乞いのための器を持っていた、彼の持ち物はそれだけだった、ある日彼はそれを捨てた、そうしたら犬と川に飛び込んで手に持つものは何もなく身軽に泳ぎ、いままでにない喜びで満たされた、という。
 いや、ホームレスは乞食ではないが。
 でも乞食の喩えは面白くて、家があろうがなかろうが、金を持っていようがいまいが、
 物乞いをして生きているひとっていうのは、
 いっぱいいる。
 むしろ。
 ほとんどこれは禁句なのではと思うくらいだ。

 なんだっけ、
 あたりまえが怖い。
 雑がぜんぶ悪いわけじゃないが、雑は悪い、でも大らかなのは良い、というように、
 あたりまえって悪く言えば雑なんだよな。
 わたしは一度たりとも実践したことはないんだけど、
 少しの物音もたてないように一日を過ごしてみたら、すごく意識が変わるよ、というアドバイスがある。
 これは、ほんとうだと思います。

 大きな音が苦手、大きな音を平気でたてる人、大きな音をわざとたてる人が苦手、
 これは、でも皆そうなんじゃない? 
 ただどこからが大きな音なの?という基準が人によって違うだけ。
 だから普段自分が何気なく立てている物音にも気づくことは、すごく良いトレーニングだと思う。
 皆、自分より雑なひとは嫌いで、自分より大らかなひとは好きなの。
 
 だから、あたりまえ、
 というのも、
 (いまは持っていないが)これくらい持っていてあたりまえだ、と自分を大きく見積もる(夢をみる)のと、
 (いま現に持っているが)これくらい持っていてあたりまえだ、と自分を小さく見積もる(夢をみない)のとでは、
 あたりまえ、の内容がどんどん変わっていっちゃうの。

 あたりまえ、と一言で言っても、内容は日々変わっていくの。

 よくいわれる、コップに半分の水だよね。

 欠乏に目を向けてそれを嘆いたり恐れたりしているひとは、
 たしかにどんどん貧しくなる。

 あたりまえに感謝しな、というと、あたりまえに満足して欲をかくな、というふうにいわば拡大解釈してジレンマに陥ってしまうひとが、
 いるかもしれないけど、
 欲は悪いばかりではない。
 結局思うんだけど、そんなふうなジレンマっていうのは、
 自分にはその豊かさを受け取る価値はないとどこかで後ろめたく思っていることが関係しているんじゃないかな。

 あなたの敵は、敵がいるとしてだが、
 欲じゃなくてその後ろめたさの方だ。
 
 後ろめたさっていうのは、要するに恐れだよね。

 あなたが千円もっていたとして、その千円を足りないと嘆くか、この千円で何ができるだろうと想像して喜ぶか、この千円をどうやって増やすことができるだろうと考えるか、あるいはこのたった千円がなくなったらどうしようと恐れるかでは、
 あなたのもつ千円の波動が変わる。
     
 欲はどんどんかいていい。
 でも欲に感謝を忘れたら?
 恐れも悪いばかりじゃない。
 欲に感謝を忘れたら?という恐れは持っていてそれこそ損はない。

 金の卵を産むガチョウの話があるじゃん。 
 って、こないだ友人に話したら知らないって言われた。
 ので一応説明すると、
 金の卵を産むガチョウを手に入れたひとがいて、ガチョウが毎日一個金の卵を産むのでその人はどんどん豊かになりました、そのうちいわばその豊かさがあたりまえになり、もっと金の卵が欲しいと思って、ガチョウの腹を割って取り出せばいいと、腹を裂いたらガチョウは死んでもう金の卵は産まなくなりました。
 という話で、なんという馬鹿なことを、と子どもだったわたしはあっけにとられたが、
 こういう話は大人になればなるほどなあと思う。

 しかしこの話には、いまどき不備があるよね。
 じゃあどうすればよかったんだっていうのが、
 毎日一個の金の卵を使って、どうすればそれ以上の豊かさをもたらしてくれるのかを、増やす手立ては自分で考えなきゃいけないよ、
 じゃなくてむしろ、欲をかいてはいけないよ、というような顛末になっているのは、
 中途半端っちゃ中途半端だよね。
  
 ともかく腹を裂くのは早計すぎるだろってのは子どもだってわかる話ではある。

 後ろめたさっていうのはたとえばこういう話を読んで、欲を恐れることから端を発するのかもしれない。
 なんでも闇雲に恐れるのはよろしくありません。
 空気があって呼吸できて幸せだなあと思うのは実に構わないけど、
 こんな自分が空気を無為に奪って呼吸して申し訳ないなあなんて、やりすぎやろ。
 心配と申し訳なさの矛先が実に的外れだ。
 あなたがいくら呼吸したところでそのせいで誰かの分の空気がなくなるなんてないの。

 でもこれがお金の話になると、
 下手な心配、下手な後ろめたさ、下手な恐れを抱くひとはいる。
 そういうのは、全部学びだから、自分が向き合って解いていくしかないんだよね。

 ダイエットの話からお金の話になっちゃったぜ。

 ダイエットもさ、痩せられないんですっていうのっておかしいと思うんだよ。
 痩せる気はないんです。
 あっこういうところだ、ひなちゃんとわたしの出方の違い。
 
 痩せるっていうのは、太るでもいいけど、
 いまの自分ではない自分に変わろうとするのは、何も宝くじに当たるようなことではなくて、
 少しずつ良い「とほんとうに自分が思える」習慣を身につけていくしかない。
 自分が納得できることをやっていくしかないと思う。
 苦行は続かない。
 苦行で悟りはひらかない、とお釈迦さまも言っている。
 
 あせって明後日や半年後を取りに行くというようなことは、ガチョウの腹を裂くのと同じと心得るべし。
 
 たぶん痩せられないのは、痩せてすばらしく楽しい世界を受け取る準備がまだ出来ていないのだと思う。
 それを自分が受け取る価値がないとどこかで二の足を踏んでいる。
 そんな状態ではたぶん少し痩せてもまた元通りってことになる。
 足りないのは運動でも食事改善でもなく、
 自分は痩せていてもいいんだという「あたりまえ」の思いかもしれない。

 それか、痩せるよりプリンを毎日お腹一杯食べるほうが幸せなんだと思っているかですね。

 

 

センスはプライスレス。

 ドイツのブランド「KARE」という家具・インテリアのお店へはじめて行って、テンションがあがった。
 ひさびさにわたしも自分が好きなものを作りたいなと欲が刺激されたというか。
 そう、センスってタダなんだよな。
 言い換えると、センスってプライスレス、お金では買えない。

 センスの良い服、センスの良い部屋をコーディネイトしてもらうことはできるけど、
 他人が良いと思うものは、自分が良いと思うものと必ずしも一致しないし、しなくて当たり前だから、
 やっぱりどこかで自分のセンスを磨く必要にかられると思う。
 自分のセンスはどこにも売っていない
 
 センスは選択。
 自分の選択を信じるためには、まず自分がここちよいもの、好きなものに気づかなきゃならないんだけど、
 他人が良いものじゃなくて自分が良いもの。
 ここを直視するのが気はずかしかったり、内心気づいていてもそれを他人に知られるのは否定されたときに嫌だなと怖がってしまったりするのは、
 こういう恐れは、まずもうなんでそれが怖いのかなって自分自身にたずねてみるしかない。
 
 たぶん誰だって怖いんだと思う。
 わたしだってすべてのことに自信満々で怖いものなどない、わけじゃないし、
 もしそうなら逆に学びがない。
 
 自分の怖さ、あるいは照れくささを見つめて乗り越えないことの何がいわば問題かって、否定されるのが怖いときに、相手の反応をコントロールしようとすることがある。
 相手の自由を奪おうとすることがある。
 
 それを悪いことをしている、という後ろめたさなしにやってしまうことがある。
 いや実際には悪い・良いじゃなくて単に不可能なんだけど、だからもちろんそもそも後ろめたさを感じる必然もないんだけど。
 そうね、悪いわけじゃないな。
 相手がどう感じるか、どういう思いを抱くかを支配することは単に不可能なんだけど、
 わりと、いや、支配できるはずだと固く信じているひとが、いるんですね。

 これがさあ。
 いやたぶんわたしも、頭では理解していてもどこかで無自覚に握りしめているものがあるので、それを見つけたくて他人を見ている。

 まあ他人を見ていても見つからないんだけど。

 一番手っ取り早いのは、わたしが思うには自分がピンチに陥ることなんだよね。

 たとえば、自分より幼稚だなあとあきれてしまうような他人がおそらく誰にでもいると思うんだけど、
 なんでそんなに不注意なのかとか、なんでそんなに視野が狭いのかとか、なんでこんな簡単なことができないのかとか、そういう類のこと。
 これが落とし穴という名のチャンスであって、
 このチャンスが見えなくて生かせないのは、ただもう自分からすればできてあたりまえなのに相手はできないと馬鹿にしたり否定するような、あるいはマシに見えるかもしれないけどもっとアレなのは、一方的に導いてやろうという、善かれと思ってどうにも傲慢な態度で接してしまうこと。
 
 これが何となくよくない、というかぶっちゃけリーズナブルではないってことは、皆たぶん知っているんだけど、
 経験してきているんだけど、
 近いことってやっぱりわからないんだよな。
 灯台下昏し的な。

 海を隔てた遠い国の出来事なら、あるいはまたニュースになるような自分と関わりの低い事件に対してなら冷静な判断ができても、
 物を盗るのはよくないとか、
 人を騙すのはよくないとか、
 殺しちゃだめだろ、とかですね。
 自分にとって差し迫った危機ではないことだと誰でも皆、他者の危機的状況についてそれこそあきれるほど不感症になりがちで、
 これはもはや、身体的制約といっても過言ではない。
 まあ、エゴだな、エゴでもいいけど。
 いざ自分が殺されそうになったら、殺すのはだめだけど殺されるのはいやだったから殺すのは仕方がないとか平気で意見を翻しちゃう。
 いや黙って殺されろってわけじゃないけど。

 そうやって他人事ならば眉をひそめながら、あきれながら、
 自分では人の物を盗り、人を騙していることがある
 気づかないんだよ。
 いいえ、わたしは人のものを盗んだり、人を騙したりなどしたことないよって心外なひと、
 そうかもしれない、でももっと言えば、自分自身から奪っているものがあり、自分自身を騙していることには、気づかない。

 他人は自分の鏡という。
 これは本当で、自分があって他人がある。
 自分があるから、自分を照射した他人から返ってくるものがある。

 だから批判は、何も生まない。
 批判的な気持ちは抱くよ、咄嗟に、おそらく誰だって。
 でも批判を批判のまま腐らせておいても何も生まない。
 せっかく種をまいて、芽が出て、いよいよ花が咲くという頃に、こんな花は醜いと嫌って切り捨ててしまうようなものだ。

 それは自分自身から奪い、自分自身を欺くような行いだ。

 つまり他人はなんであんなことをするんだろうって嫌な気持ちになったとしても、
 相手を変えるべきだというのは、鏡に映った自分の姿にケチをつけて、鏡の方を変えてやろうというほどの行いでしかない。

 鏡に映る自分の姿を受け容れて我慢しなさいって言ってるんじゃないんだよ。
 鏡が嘘をついてるわけじゃない。
 鏡が不正確に自分を映し出しているわけじゃない。
 鏡に手を伸ばして映る姿を変えるのは不可能だしナンセンスだ。

 他人を変える、つまり鏡に映った自分がどう見えるかを変えるのは簡単だ、
 鏡に映った自分が愕然とするほど姿勢が悪いなら、自分が姿勢を正せばいい。

 他人に対しても世界に対してもまったくおなじことがいえる。
 ふと鏡を見たら寝癖がついているときに、鏡に手を伸ばすひとはいない。
 でも他人のことに関しては、他人の方が変わるべきだと思ってしまう。
 それって結局どういうことかといえば、
 自分は存在していないってことを信じているのにも等しい。

 自分はこの現実に対して無力だと宣言しているのと同じことだ。

 自分が変わればいい、これを自分が我慢すればいいんでしょ、と捉えるひとはまだ、自分が何を望んでいるのかを見つめることを拒んでいるだけ。

 世界が、他人が、親が、伴侶が、自分の望まない姿であることを我慢するんじゃないの。
 我慢をしないことは、
 鏡を破壊することではないし、鏡に目をつぶるってことではない。
 
 我慢をしないっていうのは、他人がたしかに存在して見えるように「自分もまた存在している」というこの現実を直視することだ。
  
 ちょっと前に読んだ「筋トレは最強」のひとの本で、
「自分の娘にされて嫌なことは、娘じゃない女性に対してもするな」という一文があり、
 たしかにそうなんだよなあと思いつつ心に残っていたのが、ふといま腑に落ちたのは、
「自分の父親にされて嫌なことをしてくる男性を受け容れるな」ということでもあるなと突然だけど、ひらめいた。

 セックスは?とか思っちゃうけど。

 まあまあ、まぜっかえすのはやめよう。いや、
 まぜっかえしているのかなこれは。

 セックスはなんていうか、めちゃくちゃ単刀直入な問題だよね。実際。
 それはいわば、自分が男か女かそんなこと考えたことも見たことも聞いたこともない、男って何?女って何?なんていうやつはまあ「普通」いないでしょっていうほど、
 無視しえないというか、
 相当客観的にはなれない、関わってくる話だよね。
 いや自分は性経験がなくて、とか関係ない。
 関係ないですから。

 親子の関係とかもそうだな。

 たとえば自分の親を顔も知らないというひとだって、どこの誰とも知れない、生きているか死んでいるかも知らない、でも親があって自分がここにいるんだってことは、
 肯定的か否定的にかはともかく、受け容れているように。

 親とか男女とかっていうのはなんだろう、結局読んでいないヌーソロジーに出てきた四つの対立というか、対立ってべつに諍いと限ったわけじゃないが。
 二つじゃなくて四つっていう、
 そういうものを思い出すな。

 つまりこういうことだ、
 自分の娘が他の男とセックスすることを、

 許さない父親なんてむしろほぼいないと思うのだが、
 もしそうなら、許さないと言われて、それをわかりましたと諾く娘ばかりなら、かといって父親とももちろんしない娘ばかりじゃ、人類滅亡しているし、
 他の男とセックスしてもいいんだけど、
 それには「条件」がある。

 という感じはわたしの感じだけど。

 条件がある。
 誰にでもある。

 でもそんなの関係ないんだけどな。
 いや、わたしのお父さんじゃない。
 お父さんはむしろ違う、条件を少なくとも言葉にまで表したことはかつてない。態度とか己自身の在り方としてはわからないが。
 でもわたしが、世界とむきあう、世界へと乗り出すにつれて自分の父親以外の言葉という情報も浴びてきたことはたしかで、
 それはいわば、親の顔さえ知らなくても、親という概念は持ちうるという、

 いうならば、それらに対して「反発」したくなる気持ちになる経験をしてきたことが、
 自分を戸惑わせるってことは、
 ありますよね。

 うん、あるわ。

 反発ね。
 自分を正当化する必要はない、に尽きるんだけどね。

 さっき書いていて、親子のあたりで、いやでもイエス・キリストの事情が頭に浮かんで、
 処女懐妊ってなんだそりゃチートかよ、とかつて突っ込んでいたことをも、 
 なんか思い出した。

 
 まとまりないけど、戻ると、
 コーディネーターに自分の家のインテリアを任せる、
 それも全然アリなんだけど、
 あくまでそういうのって補助輪なんだよな。
 そしてたしかに、たしかに補助輪が悪いわけではない。むしろそれはあればいい。

 というのは、最近、パーソナルカラーに興味をもって、よっしゃ診断してもらおうってときに、
 そういうのは信じていなくて、
 そういうものにお金はかけたくなくて、
 というひとがいてですね、

 なんだろうなそれはさ、
 富士山にハシゴを持っていけば日本一以上になれるんだよっていうことに真っ向からそんなことはしたくないんだって、
 なんでも自力でやりたいんだ、
 はしごを持っていくなんてチートなんだみたいな、ズルなんだみたいなさ、気が引けるというかね、
 だって誰もそんなことしていないじゃんって、

 この、もう、これ。
 本当は誰も、誰一人としてそんなことをしていないわけじゃない。
 ただあなたのまわりにはいないか、いても積極的に受け容れられてはいない、好評価を得ていない、むしろ、
 というだけだったりする。

 でもこういう抵抗や恥じらいっていうのはやっぱり、
 じゃあ周りが変われば自分も変われるんだっていうのと同じだよね。

 親の良い子ちゃんでいたいんだっていうのと何ら変わりないというかね。
 世間から後ろ指さされるようなことはするな、みたいなね。

 世間は、後ろ指なんかささないから。

 それ、単にあなたの「感じ」だから。

 いやだって親が、友だちが、子どもが、いわばありとあらゆる付き合いが、何と言うか。

 彼らは何だって言う

 彼らは何だって言うよ。

 それらは単に彼らの「自由」だから。

 いわば彼らには彼ら自身の事情がある。

  
 でもあなたにはあなた自身の事情がある
 だれもさ、
 ほんとうに思うけど、
 自分自身の事情に注意をはらわないひとのことなど、自分自身を信じていないひとのことなど、信用したりはしない。
 価値を置いたりはしない。
 少なくともわたしはそうだ。
 誰が自分より迫りくる事態に怯えているひと、恐れているひとが正当化してくる主張を、自身の率直な感覚を差し置いてまで尊重したりできるだろうか。
 あなたは単に、落ち着きな、とだけ言うか思うだろう。

 自分が自分を信じている以上に他人からの信用を得ることはできない
 できません。できたら騙しだよ。
 騙してもいいけど、それは騙しているだけなの。
 相手だけじゃない、おのれ自身のことも。
 そこを履き違えるのは、
 履き違えることは誰にでもあるけど、履き違えたまま歩むうちにおそらく感じるであろう違和感を無視し続けるってことは、
 
 まあ。いずれ遅かれ早かれ無理じゃないですやろうか。
 違和感を信じたほうがいい。

 違和感のもとを突き止めたほうがいい。
 自分の内面から湧き出てくる声に耳を傾けて、集中して、ほかの誰にも邪魔させたりせずに。
 それらにいちいち反論したりせずに。

 鏡に手を伸ばして寝癖を直すことはできないから。

youtuber②

 youtuber第二弾。

 仙人、で検索してくれたら出てくるであろう美容師のひとが、
 スピード命、
 毎日が勝負服、
 ということを言っていて、いや、めっちゃわかるごめん。
 誰になんで謝っているのかわからないが。

 わたしも実はまあまあミニマリストかじりではあって、
 14か12平米しかないっていう部屋。に住んだことがある。
 ここは本当によかったなあ。
 それだけしかスペースがないくせにベランダはある、玄関のタタキも広すぎるくらいある、ガス台もある、押入もある、ユニットバスもある、残るスペースは何かって、ベッドとヨガする隙間とパソコン机を置けるスペースくらいという。
 写真あげたいわ。
 インスタであげてみる。
 ここは本当にマンションといえたようなものではなく、ワンフロアに一室、
 わたしは最上階といっても三階、に住んでいたので、
 二階からの階段を含めて勝手に自分とこのスペースでもあった。
 その階段のわきに、置ききれない植物を並べたりしてね。

 でもそれでも、そうしたミニマルな空間に住んでいたはずなのに、ここからいざ引っ越ししようと思ったら、こんな狭い空間によくそれだけ荷物を持てていたな、という、荷物多過ぎ!!って経験もした。
 
 わたしはわりと何でも捨ててしまうほうで、それは、
 まあ、究極どっちかっていえば、悪いのかもなあと思ってしまう部分はある、
 だって循環させた方が絶対に良いものね、
 でもまあ面倒くさいから捨てちゃうの。
 たぶん基礎代謝が低いんだと思うんだ。

 それをストレスなく持っていられるだけの基礎代謝が低い。
 
 BMIとかあるじゃん?
 あれ全然ウソだからね。
 基礎代謝なんていうものは、身長と体重と、性別と、年齢とかで測りきれるものではない。

 目には見えない数値化できない、いわば自分の懐の広さ、器の大きさというものが、
 あるんです。

 目安としてたとえばBMIを参考にするってことはアリかもしれないけど、
 わたしも変わり者なので、
 そういうのって、なんだろうな、
 めちゃくちゃ広く浅く切り取った共通語にすぎないんだけど、それだからこそ便利ではあるよね、というほどのもの、だと解釈しています。

 いまはそこを引っ越して、一軒家に住んでいます。
 家賃六万円。
 ここがまた、台所は広く独立していて、玄関は広くて上がり框があって、
 風呂は取ってつけたように狭いが、洗面所は広くて、
 トイレにも風呂にも洗面所にも窓、およびドアがあって、
 何なら屋根裏としか言いようはないが二階もあって、ベランダもあって、
 なんといっても、屋根にのぼれる!という点が超お気に入りなの。
 しかも左右&裏手に隣接した住人とか、マンションだったならばある、上下の隣人とかもいないの。
 ってことは夜中に洗濯機も回せるし、ジャンプを伴うような筋トレもできるし、音楽も聴けるし超最高。


 大阪市内住み。
 JR環状線、地下鉄、近鉄の最寄り駅まで徒歩5分。
 二駅先の職場まで徒歩30分。
 で、まあだいたいは片道または往復歩いています。
 つまり何が言いたいかって、うちの家賃超安い!ってこと。
 頑張って、というか別に頑張るほどのことではないけど歩いて出勤しようが電車に乗ろうがたいして時間は変わりない、電車賃節約できちゃう、という面においてもね。

 そういえばわたし明日が、いや、明後日かな、誕生日なんだけど、
 こないだ行った韓国でもやったけど、垢すりを誕生日前にやろうかなと思っています。
 そしてその、垢すりも併設している「延羽の湯」にも近い。
 もう絶好のロケーションだよね。やばい超ナイス。

 いやこれ、なんだろう、女全開って感じ?
 てのは、昨日超おもしろい女の客がいて、
 ドリンクをストローで飲んでいるのに中身がアルコールで、
 ソフトドリンクかと思っていたらハイボールおかわり、というので、なにそれ?お酒のんでるのって聞いたの。
 そしたら、
 わたし下の口は固いんだけど、上の口は緩くて、こぼしてしまうの、だからストローで飲んでいるの、と言われて、
 BUwa?!! what?!

 いや、
 聞いてないしって、言っちゃった、
 こういうのもある意味女らしい、わたしの反応がというより、相手のもう、
 聞いてないし!!てことまで言ってくる感じが。

 まあ、なんだろう、
 わたしもあなたも女に生まれたのなら、とりわけ、
 したいことをして生きるってのがいいと思う。
 ま、男でも。
 モテはしないけど、自分を極めればいいんじゃないかなあと、
 もうそういう時代だしね。

 

 

youtubeにエキサイト。

 最近youtuberなわたし。
 もっぱら観るほうで。

 わりと自分があびる情報量ってすごい多いと思っていて、TVは観ないんだけども、
 観ないわりに、まあまあの量の情報をあびる
 その中で、あれ?真逆のことを「良い」と言ってるなあと気づくこととかある。
 戸惑うことがある。
 どっちなんだろう?ってなりますよね。

 これは、
 結局のところ自分の感覚を磨くほかは解消できない戸惑いです。
 わたしには良いけどあなたには悪い、ということがまあ、もう、なんだろうキリはないほど本当にたくさんあるよね。
 ほどほど良い、とか、まあなんか知らないけど良さげ、とか、そういうんじゃなくて、
 自分がものすごく良いと思った=感動したというレベル、
 感動ってすごいエネルギーなのよ。
 感動するくらい良いと思った情報を、鵜呑みにしろとまで言わないがともかく、否定はしないこと。

 だいたい感動って瞬間的にやってくる。
 で、よくよく考えれば、待てよでも、とこういう思考をしているときって、
 他人の思考目線で考えているんだよ。
 言い換えれば、これって自分は良くても他人から果たして受け容れられるんだろうか?という検討をはじめている。

 こういうのは本当に不思議で、

 ふいにいま思い出したのが、「暴君マインドになればお金も恋も思うがまま」みたいなタイトルの本で、
 これは、わたしには良かったですし、身近な女の人には薦めたいなあと感動した内容だった。
 男と女って、
 わたしは、そもそもそれ以前に人間だからと思っていたし、いまももちろん思っているんだけど、
 でもなんていうか、これを利用しない手はないというか、
 
 たとえば「親の七光りも利用できないなんて(by斎藤一人)」というのにも似ている。
 男も女も人間って、そりゃ人間っていう抽象度の方が高いのは間違いないんだけど、
 でもじゃあ抽象度を下げて、自分が女か男かって、
 そういう要素を活かすことだって、それはもう楽しいからアリ、面白いからアリなんだと思う。
 わたしはやっぱり化粧って好きなんです。
 それはいわば、絵を描くように好き。
 
 絵にももちろん色々あるし、化粧にも色々ある。
 嫌いな絵もあれば嫌いな化粧もある。
 でも好きな絵もあれば好きな化粧もある。
 だから、化粧一つ取ったって、
 なにも人の目にどう映るだろうってことを後ろ向きに考える必要はないというか。

 後ろ向きにっていうのは、自分の化粧は他人の評価からして何点取れるんだろうっていう、
 自分の好き・嫌いから離れてしまうようなスタンス、やり方っていうのは、
 それ自体が要するに自分自身のスタイルを愛すること、からは確実に減点行為だ。

 男・女という分け隔てより、人間の方が抽象度は高い。
 これはまるで、地球には重力が地球なりに働いているけど、月だったら地球と同じような重力じゃない、
 でもいまわたしたちがいるのは月じゃなくて地球だよねっていう、
 
 もちろん月の重力に惹かれながら地球に生きるひとがいることだってアリだし、それはそれで素晴らしいって思っている。
 男に生まれたけど女になりたいんだっていう人には、逆でもさ、わたしは、全員に対してではないが尊敬の念を覚える。
  
 だから向き不向きというか、
 そこじゃないカルマってのが皆、ちがうと思うの。

 わたしは実際、「女だけど男」って人とも暮らしたけど、
 つくづくつき合うにつれ、次第に飽きてきて、
 どっちだっていいじゃんってのが自分の本音だと気づいた。
 あるいはまた、わたしは自分が女で不足はないやってことにも、気づいた。
 わたしは、身体が女ならともかくもう女でいい。
 そこにいわばカルマというか、こだわりというか、クリアすべきものはない。
 あたりまえだが、そしてもちろん、だから皆こだわるなよって話でもない。

 わたしとしては、ホントそこ、どうでもいいってことに気づいた。
 どうでもいいと常々思っていたけど、やっぱりどうでもいいってことに気づかせてくれた経験をした。

 以前はよく行った居酒屋で昨日、常連の客と、
 わたしが保証人になった話なんかをしていて、男と女の関係になったからなのか、と聞かれ、
 そういうのじゃないって、
 わたしは、
 だから男とか女とかそういうのはどうでもいいと思っていた。
 セックスしたかしていないか、それも超どうでもいい。
 握手したことがあるかないか、目を見交わしたことがあるかないか、あるいは職場で一緒になったことがあるかないか、電車で一緒になったことがあるかないか、
 という程度のものと要するに変わりはしないと思っている。

 もちろん握手したことがあるか、目を見交わしたことがあるか、道端でばったり出会ったことがあったかどうか、セックスしたことがあるか、
 ということは、「なにもない」ことに比べれば「なにかはある」それは確かだし、
 単にそれだけのことだ。

 わたしは目が合うこともセックスをすることも同じだって思っている。

 単に目が合うひとのほうが遥かに数は多いかもしれないけど、そんな多寡はただただ関係がない。

 どうでもいいんだよ。


 で、戻ると、
 わたしは皆自分のしたいことをすれば世の中がよく回る、と思っていたけれど、
 それってもしかすると、自分が「女」だったからなのかな、と
 いう視点を提案してくれたところが、前掲の本の良かった点。

 わたしは女のひとと話をするし、したいんだよね。
 女と男とじゃどっちがわかりあえるか、といえばそりゃ女だろと思っているの。
 それに、もしアドバイスをするのなら、
 男に対しては的外れになってしまうかもしれないが、女に対してはそうでもないんじゃないかって、
 そういうことにあらためて気づかせてくれた点でも、あの本はよかったなあと思う。

 あ、あと恋愛ね、
 わたし恋愛はできないんだ。
 パンフレットはもらったことがあるし、真似事もしたことはある。
 でも、
 できないの。
 どっかで針が降りきれてしまって、ゼロに戻っちゃう。
 そしてこのゼロが実に心地よいの。
 
 ゼロが心地よい、ということの「弊害」についてわかるひと、いるかなあ。

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瞑想体験、それは三百回ひたすら電話をかけ続けること。

 やくざやっている・やっていたおじさんとかになぜか好かれます。
 たぶん、わたし過去にやくざの親分でもやっていたんだろうと思います。
 肚がすわっている、ということが大好物で、自分が何を優先するかのトップ3を下らないのは確か。

 かっこいいってことが好き。
 もちろんこれは、
 かっこいいつもりか知らないけど全然かっこよくないよ問題とかも含みますが、
 まあだから自分としては、そのかっこよさに痺れる、という感覚は人それぞれではあるのだが。

 好みの問題ってことにしておいても、とりあえずはいい。
 デザインでもね、かっこいいのがいい。
 そしてかっこいいっていうのは少しだけ新しいってことでもある。
 新しすぎるのはダメ、と誰かが言っていたのは、わかる。
 で、新しいことは必ず古くなるから、同じかっこよさに居座り続けるのは畢竟かっこ悪いことになる。
 常に今のことを見て、受け容れて、今のことをする。
 このことを繰り返せるのが最強にかっこよくて、ほかはない。

 連帯保証人になった件で、相手は要するに払いたくないものだから支払いを遅らせる。
 ということがこのところ続いていて、
 実家にも督促状がいくものだから、お母さんが心配で心配でとわたしに「安心」を求めてくる。
 お母さんが心配で仕方がないのはわたしの問題ばかりではない、と思うが、一応連絡しておくかと、支払いを遅らせる件の人に電話すると出ないし、折り返してもこない。
 うん、これは、どうだろうとちょっと首をひねって、それ以外の代案も思いつかなかったので、
 出るまで電話してみることにする。
 ここでめんどくさがっちゃだめだ、借りた金を返すかどうかは相手の問題だが、電話をかけ続けるかどうかは自分の問題であり、それをやるかやらないかは自分の意志がすべてである、と思いその日の夜から(寝るのは寝ました)翌日の午後までかけ続けること、三百回以上。
 わたしはiphoneを使用しているんだけど、続けて同じ人にかけるとかけた回数が二百回で頭打ちになってそれ以上カウントしない、ということを今回、発見しました。
 あなた知ってました?知らなかったでしょう。
 そして自分でそれをして知ることもないでしょう、というわけで一応シェアしておきますね。真顔で。


 ん?iphoneさんカウントやめたぞ、と気づき、なんだか物足りなさを感じて、一度その人がやっている店にもかけて、再度カウント開始。
 いやカウントじゃなくて相手が電話に出ることがとりあえず今の目的なんですが。

 途中で気づいたんだけどこれはちょっとした瞑想だ。
 ムキになるとか腹を立てるとかいうのは目的からそれるので禁止で、ただただ作業としてかけ続ける。

 で、ようやく出て相手が言ったのが、一昨日の夜からとある店に電話を忘れていて今持ってきてもらったところなんだと。
 それはいいです(どっちでも。というか、どうでも)。
 今日やっとこさお金が出来たので帰りに振り込んでおく、と言う。
 じゃあ夜にもう一度かけよう、とかけると出ないのでまたかけ続ける。
 折り返しかかってきたときは、酒気を帯びていて巻き舌ぎみに興奮して、何度も何度も電話してくるのはやめてくれ、履歴を消去するのも大変だ、というくだりにわたしは電話のこちら側でちょっと笑っちゃう。
 そんなことが大変だとはあなたの大変って知れてるね。

 そして何なら払わないを決め込むことだってできるんだ、そうすれば、と言い出したのでわたしのスイッチが入り、スイッチが入ったことを自分で瞬時に意識して、スイッチは切った上で、
 こっちに刃をむける気なのか?と一応確認すると、いやそうはしないけど、と言ったのでわたしも刀をおさめます。
 もはや時は令和ですきに。

 わたしは本当に思うんだけど、脅しをかけてくる人間は極めつきの馬鹿だ。
 特に、わたしに対して。
 そんなことをしても何もいいことはない。
 普段温厚で声も荒げないわたしだが(嘘かも)、こと脅しに関しては、容赦できない生の肌が簡単にあらわになる。
 ある意味自分の弱点でもあるんだけど、つまり嫌いなのよね、その背後にある卑劣さ、というか横着さが。

 脅しはハッタリでもある。
 そしてハッタリは成功してはじめてハッタリなのであり、
 成功しないハッタリとは、恥の上塗り、いわば墓穴を掘るほどのことにすぎない。
 ハッタリが成功するかしないか、それは相手がいるならば相手と、自分の覚悟とではどちらが上回っているかが勝敗の分岐点となる。
 覚悟っていうのは結局、どれだけ保身を捨てられるかだ。
 大事にしているものは誰にでもある。
 その大事にしているものを相手以上に削ぎ落すことができるかどうか。
 余計なものはいらない。
 イモ引いた方が負け。
 それ以外のルールはない。

 お母さんは、ともかく遅延利息が気になるらしい。

 もったいない、は口癖というよりもはやポリシー。
 わたしは嫌いじゃない、母親のそういうところ。


 わたしは連帯保証人になった以上、相手が死ねば払うとは思っている。
 だからわたしに払ってもらいたいのなら先立って死んでいただきたい。

 それにしても一度話さないといけないかもしれないね。
 啖呵切るために保証人を引き受けたわけではないはずだから。
 わたしは遅延利息よりも感謝が足りないよってことが気になるようだ。
 足りないよ、か。

 もっと感謝したほうがいいことあるよ、といったほうがいいか。

 これは結局わたしの問題であり、わたし自身では決してやらないことを彼は代わりにやってくれているのだ、ということも思う。
 つまり、以前にも思ったが、わたしはお金に困るという疑似体験がしてみたかった。
 困ったことがないから。
 というか本当に困ったら元も子もないから、というなんでしょうかこの用心深さ。
 こないだ行った韓国で観てもらった占い師がいうには、わたしは一生お金に困ることはないと。
 (そして結婚するには相当な努力が必要だと。いや。えー?でもまあそうでしょうね。まずは結婚に好印象をもつことからはじめなきゃならないし)
 彼の言わんとするニュアンスと、わたしの受け取り方には多少違いがあるかもしれないが、まあたしかにお金に困ることはないよね、そりゃ。
 そんなことはありえない。
 そしてでも、困らなきゃ気づけないことがこの世には果てしなくある。
 上がらなきゃ見えない景色もあるが、下がらなきゃ見えない景色もまたある。
 遠ざからなきゃ見えないものもある、近づかなきゃ見えないものもある。
 わたしはどっちでもいいと思うんだ。
 どっちもあればそれが一番いいと思う。
 肝心なのは、見えなかったものが気持ちの変化一つで見えるようになるってこと。

 生きていて、やっぱりそうだと思っていた、とばかり言っていてもまるで甲斐がない。

 わたしはずっと、全部自分のせいだよって思ってきたんだけど、
 こないだ読んだ本で、人間関係の半分は自分のせい、という表現を知って、
 それ、いいねと思った。
 なんかいいね。
 謙虚さがいい。ナイス。使っていこ。