あたりまえって、悪く言えば「雑」。
そうなんですよね。
そうなんです。
で、ふと。
なんだったっけ。
最近ダイエットを楽しもうっていうことを言っているひとが多いようにわたしは感じる。
まあ、ダイエットに限らずなんでも楽しんでやるのがよく、
ダイエットっていうとしんどくてつらくて、この期間をなんとか頑張ればあとは理想の未来みたいな、
結婚すれば、大手の会社に就職すれば、国家公務員になれば、宝くじに当たりさえすれば、整形さえすれば、的な、
なんでもそうだけど、ダイエットもそうではない。
ダイエットって単に習慣なんだよね。
いま頑張ってるねとかじゃなくて、
ずっと頑張るの。
まあ頑張るじゃなくて楽しんでいる、というほうがいいし、自分を大事にしてあげているなあという感覚でもいいし、
結局、
いまの自分とは違う自分になろう、とするときってやっぱりすごく抵抗があるし、気恥ずかしさも伴う。
これは脳のホメオスタシス、恒常維持機能のなせる業なんていうこともいいますが、
まあそうだとすると、脳をだます必要がある。
というか、脳はあなたではないということをあなた自身がはっきりと知る必要がある。
脳があなたではない証拠に、脳の自動運転に任せながらも、ほんとうはこうならいいのになあ、という思いがわいてくることがある。
もっとお金があればいいのに、もっとスタイルが良ければいいのに、もっと、もっとという思い、欲が。
以前、あまりに体重が増えたので少し減らそうとしているひとに、筋トレがいいよというと、筋トレってナルシストみたいという抵抗をされたことがあり、
これは、不思議というか、なんかちょっと感慨さえ抱くというか、
ここになにかある。
なるほど。
いや、なんだろう、これすごく気になる。
頑張るのがイヤ。
といっている人は他にもいて、
そうだなあ、わたしもイヤといえばイヤだけど、
つまり、
しんどいより楽しい方がいい。
という意味においては、わたしも「頑張る」ことに違和感はある。
言葉ってむずかしいね。
なんだろうな、単になりたい自分になる、というか、
ありたい自分の姿を選ぶ、ということなんだけど、努力とか頑張るというよりもむしろ。
結局、自分自身に対する抑圧がある。
ほんとうはもっとこうしたい、ああしたい、こうでありたい、ということを、
でも無理だとか、それには苦しみを伴うとか、そんなふうに捉えて、欲を虱潰しに殺している。
小さなデメリットを恐れて、大きなメリットを放棄し続けている。
以前どこかで放棄したのではないの、放棄し続けているの、いまこの瞬間にも。
だいたいメリットとかデメリットとかって、
勝手に自分が決めてるだけだしね。
実際のところなんだって、デメリットだってメリットだと転換できればそれが最強。
でもなかなかそうは思えない。
わたしは誰だってメリットのないことはしないと思っている。
だから他人を見ていて、そんなことがメリットなのか、と思うことはある。
でも彼からすればそれがメリットなんだよね。
これねえ。まあいいんだけど。
二度寝するとかですね。
いや、わたしもします。
あたりまえが怖いんだよな。
ホームレスのひとは日々苦しんで生きているかというと、そうとは限らない。
いや、ホームレスっていうとわたしは必ず思い出してしまうのが、
OSHOの話で、乞食が物乞いのための器を持っていた、彼の持ち物はそれだけだった、ある日彼はそれを捨てた、そうしたら犬と川に飛び込んで手に持つものは何もなく身軽に泳ぎ、いままでにない喜びで満たされた、という。
いや、ホームレスは乞食ではないが。
でも乞食の喩えは面白くて、家があろうがなかろうが、金を持っていようがいまいが、
物乞いをして生きているひとっていうのは、
いっぱいいる。
むしろ。
ほとんどこれは禁句なのではと思うくらいだ。
なんだっけ、
あたりまえが怖い。
雑がぜんぶ悪いわけじゃないが、雑は悪い、でも大らかなのは良い、というように、
あたりまえって悪く言えば雑なんだよな。
わたしは一度たりとも実践したことはないんだけど、
少しの物音もたてないように一日を過ごしてみたら、すごく意識が変わるよ、というアドバイスがある。
これは、ほんとうだと思います。
大きな音が苦手、大きな音を平気でたてる人、大きな音をわざとたてる人が苦手、
これは、でも皆そうなんじゃない?
ただどこからが大きな音なの?という基準が人によって違うだけ。
だから普段自分が何気なく立てている物音にも気づくことは、すごく良いトレーニングだと思う。
皆、自分より雑なひとは嫌いで、自分より大らかなひとは好きなの。
だから、あたりまえ、
というのも、
(いまは持っていないが)これくらい持っていてあたりまえだ、と自分を大きく見積もる(夢をみる)のと、
(いま現に持っているが)これくらい持っていてあたりまえだ、と自分を小さく見積もる(夢をみない)のとでは、
あたりまえ、の内容がどんどん変わっていっちゃうの。
あたりまえ、と一言で言っても、内容は日々変わっていくの。
よくいわれる、コップに半分の水だよね。
欠乏に目を向けてそれを嘆いたり恐れたりしているひとは、
たしかにどんどん貧しくなる。
あたりまえに感謝しな、というと、あたりまえに満足して欲をかくな、というふうにいわば拡大解釈してジレンマに陥ってしまうひとが、
いるかもしれないけど、
欲は悪いばかりではない。
結局思うんだけど、そんなふうなジレンマっていうのは、
自分にはその豊かさを受け取る価値はないとどこかで後ろめたく思っていることが関係しているんじゃないかな。
あなたの敵は、敵がいるとしてだが、
欲じゃなくてその後ろめたさの方だ。
後ろめたさっていうのは、要するに恐れだよね。
あなたが千円もっていたとして、その千円を足りないと嘆くか、この千円で何ができるだろうと想像して喜ぶか、この千円をどうやって増やすことができるだろうと考えるか、あるいはこのたった千円がなくなったらどうしようと恐れるかでは、
あなたのもつ千円の波動が変わる。
欲はどんどんかいていい。
でも欲に感謝を忘れたら?
恐れも悪いばかりじゃない。
欲に感謝を忘れたら?という恐れは持っていてそれこそ損はない。
金の卵を産むガチョウの話があるじゃん。
って、こないだ友人に話したら知らないって言われた。
ので一応説明すると、
金の卵を産むガチョウを手に入れたひとがいて、ガチョウが毎日一個金の卵を産むのでその人はどんどん豊かになりました、そのうちいわばその豊かさがあたりまえになり、もっと金の卵が欲しいと思って、ガチョウの腹を割って取り出せばいいと、腹を裂いたらガチョウは死んでもう金の卵は産まなくなりました。
という話で、なんという馬鹿なことを、と子どもだったわたしはあっけにとられたが、
こういう話は大人になればなるほどなあと思う。
しかしこの話には、いまどき不備があるよね。
じゃあどうすればよかったんだっていうのが、
毎日一個の金の卵を使って、どうすればそれ以上の豊かさをもたらしてくれるのかを、増やす手立ては自分で考えなきゃいけないよ、
じゃなくてむしろ、欲をかいてはいけないよ、というような顛末になっているのは、
中途半端っちゃ中途半端だよね。
ともかく腹を裂くのは早計すぎるだろってのは子どもだってわかる話ではある。
後ろめたさっていうのはたとえばこういう話を読んで、欲を恐れることから端を発するのかもしれない。
なんでも闇雲に恐れるのはよろしくありません。
空気があって呼吸できて幸せだなあと思うのは実に構わないけど、
こんな自分が空気を無為に奪って呼吸して申し訳ないなあなんて、やりすぎやろ。
心配と申し訳なさの矛先が実に的外れだ。
あなたがいくら呼吸したところでそのせいで誰かの分の空気がなくなるなんてないの。
でもこれがお金の話になると、
下手な心配、下手な後ろめたさ、下手な恐れを抱くひとはいる。
そういうのは、全部学びだから、自分が向き合って解いていくしかないんだよね。
ダイエットの話からお金の話になっちゃったぜ。
ダイエットもさ、痩せられないんですっていうのっておかしいと思うんだよ。
痩せる気はないんです。
あっこういうところだ、ひなちゃんとわたしの出方の違い。
痩せるっていうのは、太るでもいいけど、
いまの自分ではない自分に変わろうとするのは、何も宝くじに当たるようなことではなくて、
少しずつ良い「とほんとうに自分が思える」習慣を身につけていくしかない。
自分が納得できることをやっていくしかないと思う。
苦行は続かない。
苦行で悟りはひらかない、とお釈迦さまも言っている。
あせって明後日や半年後を取りに行くというようなことは、ガチョウの腹を裂くのと同じと心得るべし。
たぶん痩せられないのは、痩せてすばらしく楽しい世界を受け取る準備がまだ出来ていないのだと思う。
それを自分が受け取る価値がないとどこかで二の足を踏んでいる。
そんな状態ではたぶん少し痩せてもまた元通りってことになる。
足りないのは運動でも食事改善でもなく、
自分は痩せていてもいいんだという「あたりまえ」の思いかもしれない。
それか、痩せるよりプリンを毎日お腹一杯食べるほうが幸せなんだと思っているかですね。