自立とは。

「本来パーティーはあまり好きではない。働いているほうが好きだ」というドナルド・トランプは、わたしなどでは測りがたいほど有能なのだろうし、
 わたしは有能さって大好きだ。
 彼の仕事熱心さ、明確なビジョンを持ち迷わずそれに進む姿勢をわたしは心から尊敬する。
 しかし彼の本の、女性について、それも元妻についての言及を読むと、
 女性蔑視の発言がある、というバッシングをなんとなく思い出すような感じはある。
 
 なんというかそれは、彼はもしかすると、自分が男である前に人間だ、というふうに自身を捉えたことってないんだろうか?まさか?と、ふと。
 蔑視というよりも、女性というものが彼の中ではただ単純に「他者」なのかもしれない、という気がする。

 あるいはむしろ実際にはまったく逆で。
 元妻が、いかに女性の立場を守るべきかということを、同じ女性として、財産はゼロで子どもを抱えて離婚した女性にアドバイスをする。
 華美な服を着て、高価なアクセサリーを身につけ、ありあまる財産つまりは離婚の際の慰謝料(財産分与というべきかな)を持っていながら「同じ女性」として、金銭的には貧しいというほかはない女性たちにアドバイスを与える姿をみて、
 彼は複雑な、あるいは皮肉にも似た思いをもつ。

 元妻のあまりに女性らしい、自分は女である前に人間だ、という考えを持ったことがないような様子に、
 歯がゆい思いをしたのかもしれない。
 現に、金のない男の場合の例も紹介している。
 二年もお金持ちの女性に尽くして走り回りいよいよ結婚へとこぎつけたとき、

 離婚した場合、彼に財産は渡らない同意書へのサインを迫られてその男は泣いてしまった、という。
 そして結婚はあきらめたと。

 しかし受け継いだ財産の有無がいったい何だろうか、とわたしは思う。
 親の七光りも利用できないなんて、と斎藤一人がいうけど、それはわかります。
 べつにそれは親が実際に金持ちだとか、別れた夫が金持ちだとか、そういうことだけじゃない。
 わたしたちはお金を持っていようがいまいが、誰だって偉大な先人たちが残したありとあらゆる遺産の上に生きている、ということを忘れるべきではない。

 魚を売る人のことをsell‐fish、selfish、すなわち利己的という。
 魚の獲り方を、魚を売るのではなく、教えてあげられるのが一番よい。
 しかし人間、自分から必要にかられて学ぶ以外、真に学べるものではなく、
 ちまたには魚を売ってくれと口をあけてただ待つばかりのひとが大半だ。  
 与えられることへの渇望にいまだあえいでいる人たちが多くいる。
    
 最初、人間の構図は三角形、ピラミッド△型だった。
 頂点がいて次がいてその次、最後いちばん多いのが最下層。
 まあ農民が一番多かったころというイメージでだいたい合っている。
 そして社会はダイヤ♢型になった。
 中流階級が大半を占めるようになる。
 よっぽど貧しいひとというのは、少なくなったのだ。
 そしていま、貧富の差、格差がひじょうに叫ばれ、危惧されているようだが、
 これは逆三角形▽を上、三角形△を下に、真ん中のちょうど細いところが重なるようにつなぎあわせた形であり、ダイヤ型のときは一番ふくらんでいたところはどんどん細くなりつつある。
 産業革命後からゆるやかに、日本でなら戦後、爆発的に増えた「中流階級」はどんどん、豊かであるか貧しいかにふりわけられ、ほとんど絶滅の危機にあるというのだ。
 いずれ、この逆三角形▽と三角形△は切り離されるであろう、といったのは、ドナルド・トランプ。(もしかすると、ロバート・キヨサキ)
 わたしも、そうかもしれないな、というか彼のいわんとするのは妥当なところだと思う。

 そういうことは、宇宙人も言っている。
 三角形のたとえではないが、
 つまりいわゆる次元上昇、アセンション
 もはや、とどまるか、のぼるかという段階にきているのだと。

 とどまることに決めたひとたちは、べつに消滅するわけじゃなくて、彼らだけか、なにかと合流するのかしらないが、そのままやっていくだけのことだ。

 それにしても、ドナルド・トランプの離婚歴をみると、
 単純に女を見る目がないのでは、という気がしてしまうのもたしか。
 そして、女を見る目というのは、男である自分自身をふりかえる目がそのまま反映されるだけのものだと思うが、どうだろうか。
 これは逆も真なりだと思う。
 ドナルド・トランプはかつてロバート・キヨサキと本を一緒に書いたが、
 ロバート・キヨサキというひとは、妻のキムと離婚したりしていないですね。
 いやそれの良し悪しはそれこそ単純に言えたものではないが、
 わたしは妻であるキムの本も読んだので、
 同じ女性として彼女には共感するし、こういう女性を彼も妻にすれば何度も離婚するとかいうことにはならなかったんじゃないかと思えてしまう。
 が、きっと彼はそうはしないだろうね。
 これは相手がどうであるかではなく、自分自身の問題だからだ。
 もちろん離婚が全部悪いわけではないが(わたし自身はいずれ離婚するのに結婚する必要があるだろうか、と長く思っていた)、
 お金のことって本当に一番最後まで持っていくとかいうような問題ではなくて、むしろ一番最初に、
 最低限クリアすべき課題というほどのもの、なのだと思う。
 
 ドナルド・トランプの離婚にまつわる問題、お金の問題などをみると、
 それから、トランプの名はなくてもやっていけると最初の妻は言ったけど結局やっぱりトランプを名乗っている、というような点をみるにつけ、
 彼は妻に魚の獲り方を教えなかったのだ、と思われてならない。
 きっと自分の仕事に夢中でそれどころではなかったのだろう。

 こういうことは、利己的というよりも、甘さの問題だという気がしてしまうこともある。
 どこかにまだ隙がある。
 手ぬるいところがある。
 顧みられず、放置されたままの問題がある。

 さっき、お金持ちの女性に求愛し、離婚のときには財産放棄の同意書にサインを求められて、泣き崩れて結婚を諦めた男の人の話をしたが、
 こういう話を聞いて、自分の愛がお金目当てだと思われたことが悲しかったのではないか、などと思うひとは甘いなと思う。

 お金に関して、もっと言えば愛に関しても、実に甘い考えを持っている。
 甘い考え、というのはつまり、自立できていないということ。

 自立に関しては、本当にわたしは、つきあいのある彼や彼女たちにこれまで自分の持てる最大限の真摯さで話をしてきたと思っているが、
 さっきも触れたが、「与えられることへの渇望」、
 これはわたしは何がどうなれば癒されるのか、実に悩ましく感ずる。
 わたしにはわからない、正直お手上げだ。

 誰しも他人の傷を癒すより自分の傷を癒す方がずっとよいのです、という誰かの言葉を思い出すし、ともかくそれが的を射ているひとつの素晴らしい回答であるのは間違いない。
 自立、ときくと、彼らはでも人は誰でも一人では生きてゆけないし助け合わねばならない、という。
 いや正論ですね。

 わたしは実際のところ少し、腹を立てているのかもしれない。
 同情心というものは、ときに、自分ばかりか相手の足をも引っ張ることがある。 

 つまり、人間たしかに馬鹿ばかりではないので、与えられること奪うことだけを考えているひとっていうのは少ないですね。
 多少の知恵はある。
 そしてその多少はあるという知恵が実に厄介なのだ。 
   
 たとえばちょっとした数人の飲み会などで、皆から三千円ずつ集めてまとめて会計をし、お釣りを分配せずに自分の懐に入れるような人間はむしろ少ない。
 すぐばれるようなズル、あるいは強欲さを見せる人間というのは、むしろ少数派だ。
 人っていうのは誰だって他人から、親しければ親しいほど特に、良く思われたい気持ちをどこかしら持っているものだからだ。

 ちょっとキリがない様相を呈してきたので率直に言うと、
 わたしは「良いひと」同じことかもしれないがむしろ「良いひとを求めるひと」の中には、おばけみたいなひとがいるなと感じることがある。
 まじめに取り合っていた自分が愚かだったと思うようなひとがいる。
 それは単に自分のキャパシティの限界がそこだったという話でもあり、なかなか声をあげないわたしが痺れを切らして声をあげたのはそこだった、というだけの話でもある。
  
 ほんとうの怒り、というのはなかなか表には出てこない。
 わたしだけじゃない、誰でもね。
 でもそうしてやっと声をあげたときに(それは直接他人へぶつけるまでもなく)、自分の怒りを自分が意識する、自覚するだけで問題の九割は片づいていることに気づく。
 ああ、わたしは怒っていたんだ、怒りたかったんだって。
 もう本当にそれだけでお終いにできる。
 復讐も啓蒙も本来、必要がない。
 怒っていた相手と心の底から気持ちよく握手ができるようになる。

 出し切らないことが問題なんだ。
 出し切ってしまえば、笑いがこみあげてくるだけのこと。

 しかしおばけは怖い。
 おばけっていうのは、生きている自覚のない人間のことだ。
 もうそれこそ幽霊みたいなものだ。
 あれ?ねじれたね。
 幽霊は自分が死んでいるという自覚がないものだったっけ?
 いや、それで思い出すに、幽霊の見えるひとが、
 実に顔色の悪いというか、死臭を漂わせているひとに、あまりにもそれがひどいので、「病院へいったほうがいいですよ」と見ず知らずの間柄ながら無視できずに助言すると、
「ご親切にありがとうございます。でも大丈夫です。わたしはもう死んでいますから」と返ってきた話、
 まじかよ。
 まあ、幽霊にも色々あるのかもしれない。

 とにかく、生きている人間がおばけのようになることがある。
 良かれと思って、あるいは本人としては必要(というか不安だな)にかられて、他人のエネルギーをむやみに際限なく、厚かましくも、奪う状態へと陥ることが。
 病。
 そんなものがあるとするなら、たしかに、不安は病だ。
  
 不安というのは、空気を奪い合うようなものだ。
 ほんとうに実に他愛がない、まったく何でもない。
 
 実際に、空気はちゃんとそこにあるのに、勝手に過呼吸になったりするひとがいるのだ。
 そのひとは地球の空気が現に薄くなったから(濃くなったからか?)、過呼吸に陥るわけじゃない。
 自分の生み出した不安によって、適切な呼吸を自ら不可能にしてしまっているだけだ。

 わたしは、甘えは病に通じると思う。
 それはたとえば朗らかさや呑気さを捨てろと言っているんじゃないの。
 甘えは何でもがそうであるように、諸刃の剣なのだ、それは自分を生かしも殺しもする。
 生かすばかりではないということなんだ。