ピンチに感謝できる点を見いだすことが出来れば、それはもうピンチではなくなるし、自然の力で解決する。

 たしかに書かなければずっと思い出してしまうことがある。
 それはまるで強迫観念にも似た執拗さで、ふとした瞬間に頭の中にひらめくんだ、何度も、すきを見て。

「話し方入門」のなかで、リンカーンが帽子の縁にいつでも思いついたときに書いたメモ用紙を保管していたというエピソードは、
 まったく創作についての、実直なアドバイスだと思う。

 仕事上でのミス、というかトラブルがあった。
 それはわたしたち従業員同士のコミュニケーション不足、確認不足から起きたミスだった。
 そしてお客さんに、実は手前どもで連絡不行き届きがあり、あなたが手にしているものは実はあなたがオーダーしたものではなかった、
 ので過剰に受け取った、受け取らせてしまったものの一部をこちらへ戻してもらえないか、
 という交渉をする必要があった。
 わたしたちはそこで、相手の立場を汲み取ることはせず、むしろ自分たちが困った立場へと追い詰められた瞬間、こちらの期待だけを現実とするような愚に陥った。
 相手をまるで、自分たちの窮状を救ってくれる救世主であるかのように、

 平たく言えば自分たちが困ったことに対して実に快く対応してくれるであろう「良いひと」であるかのように扱ってしまった。

 返ってきた相手の言葉はこうだ、自分としてはまったく受け取る気がなかったものを、お前らのミスで勝手に受け取らせておいて返してくれとはどんな言いがかり、どういう了見だ、返してくれとは何だ、自分をまるで盗人のように扱って、気分の悪い、と。

 いや、たしかに。
 まあ、こちらの甘えだなあ。
 そもそも相手がそんなに物分かりの良い、人の好いひとではない、むしろその逆をゆく人物であることは、それまでの経験からわかっていたはずなのに、
 なぜ突然相手を事を荒立てたりはしない、理解ある人物だというふうに、手前勝手な期待と願望に満ちた眼差しで見てしまったのか、そんな対応をしてしまったのか、
 それは、
 
 もう、自分たちが困った事態へと陥ってしまったから、
 焦って取り戻したいものがあったから、ということに尽きると思った。

 自分の立場を守ろうとして相手の誠意を利用しようとしたのだ。
 たしかにこんなことが上手くゆくわけはない。

 わたしたちはいつだって間違いを犯しうる。
 

 それでもう一つ思い出すのは、写真の現像サービスを扱っていた店で働いていたとき、
 いまではもうもっとデジタル化がすすんでいるが、うちで扱っているのはフィルムだった、そして、
 フィルムの現像一本につき、写真の一枚をその月のカレンダーにする、というサービスを実施していた。

 これも今思えば、
 わたしたちはそのサービスを、サービスだからという理由だけで、
 24枚撮りのうちの、自分たちが良いと思える一枚を任意で選んで、勝手にカレンダープリントにしていたのだが、
 現像した中の一枚を後日(当日でも)指定して頂いたら無料でカレンダーにしますよ、という提案の方が再度の来店にもつながるし良かったのではないかと気づく。
 
 ともかく勝手にサービスしたカレンダーがらみだったか、
 間違って二枚プリントしたものを、一枚破棄するのも何なので余分に(サービスのつもりで)入れておいたのだっただろうか。
 いや本当に実に安直だよね、と思い返すのも気恥ずかしいような感じだが、
 
 自分はこれを二枚プリントすると頼んだ覚えはないとか、
 あるいは、
 なんだったかなあ、
 要するに頼んだ覚えのないものがある、騙して金を過剰に取るつもりか、金を返してくれ、
 だったかなあ、
 まあなんかそんなふうだった。
 全く違うかもしれない。
 でもともかくわたしはあぜんとしてしまった。
 しかも不愉快さまで味わった。
 
 その不愉快さとは、こちらとしては不当にお金をせびったつもりはない、というものだった。

 立場は違うかもしれないが、こうまで思い返すと、
 返してくれとはどういう了見だ、という彼女の気持ちはたしかにわかる、と思える。

 これとそれとを同じ俎上に載せるのはどうか、ということは棚上げするとしてもね。

 その写真サービスの件では、相手がひじょうに怒って憤慨しているということはわかったし、
 それが何かの行き違いであるということも察せられて、
 いったいそうまで怒る理由が何であるのかはさっぱりわからない状態で、わたしは不愉快かつ不可解ながらも、相手を言い分を真摯に聞くことによってともかく相手は宥まってくれた。

 いや、いま唐突に思い出した、
 消費税がらみだった。
 税抜きですべて計算した上で、最後にまとめて課税するやり方をしていた。
 くだんのお客さんは、税抜き価格だけを見て、それが自分の払うべきまっとうな金額だと思って、
 課税された合計金額を要求されたことについて、
 騙された、自分は余分な金額を払わされたと勘違いして、怒って怒鳴り込んできたのだ。

 

 わたしは本当に、怒っているひとが苦手で、実にどうしようもない。

 自分は正しい、と思っていてそれをこちらに認めさせようとしてくる人が実に苦手だ。

 でもどこかで、
 そんなことは躓きにはならない、自分にとって障害にさせておいてならないんだ、という思いをいっそう募らせている。

 相手は相手の目線や都合で勝手に怒っているのではあるが、
 そういう相手にもし理解を求める必要性があるのならば、相手が不信感を抱きうるような流れを見逃した自分を正当化するのではなく、自分の落ち度、手ぬるさがあったのだと、
 そうした自分が気づくべき、学ぶべきチャンスを相手から与えてもらったのだと、
 そんなふうに前向きに捉え直すことが出来れば、陥ったピンチはもはやピンチではなく恩恵のように感ずることだって可能だ。

 それはただ平謝りに謝ればいいという姿勢とも違う。

 すみませんの繰り返しでは相手は気分がいっそう悪くなる。

 思うに、すみませんという謝罪は、どこかしら相手を拒絶しているようなところがある。

 だってそれだけじゃ、謝られている側が相手を謝らせてばかりいる加害者のような気がしてくるってことがある。

 最終的には、自分の未熟さに気づかせてもらえました、ありがとうございますという感謝を伝えることが、winーwinの形としてすっきりと美しく収まる。

 もちろん感謝(しているふり)ではだめ。

 自分が心を動かされてもいないものに、相手が心を動かすってことはない。

 もしそんなこともあるとすれば、自分が詐欺を働いた可能性を疑ってみる必要があると思うね。